そのはち。
グラスの鳴る音、賑やかな話し声。注文を厨房に伝える声。久しぶりだ、この感じ。私はグラスを傾け、ぐびぐびとビールを飲んでいた。
「小城さん、もう飲むのやめた方がいいんじゃ」
「ふふ、大丈夫だよお、みやぞん」
「みやぞんって」
私は、北海道から15000キロ離れた名古屋の居酒屋にいた。目の前には、困惑顔の若い女の子がいる。みやぞんこと宮園さんだ。
残念ながら、私に親しい友達はいない。だから、元同僚にして、べつに友達でもない宮園さんを呼び出したのである。彼女は気まずげに、
「というか、なんで私なんですか……色々失礼なこと言ったりしたのに」
「ちょっとねえ、聞きたいことがあるの」
私は肘をつきながらへらへら笑った。
「元カレの写真を、本に挟む心理ってどんなんだと思う?」
「……えっと、未練タラタラ、ですかね?」
「やっぱりー!」
けらけら笑うと、宮園さんが不気味そうな顔でこちらを見た。居酒屋の扉が開き、見覚えのあるイケメンが入ってくる。
「あっ、神崎くーん! ザキカン!」
「うわ、すごい」
私のテンションに神崎くんがのけぞり、宮園さんが肩をすくめる。
「ごめん。私だけじゃ相手しきれなくて」
「大変だったね」
私は、神崎くんと宮園さんを交互に指差して、笑い声をあげる。
「ふたりおにあーい、YOUたち付き合っちゃいなよー!」
「小城さん、キャラ変わってません?」
神崎くんは呆れ気味に言い、宮園さんに問うた。
「なんでこんな荒れてるの?」
「わかんない」
宮園さんは困惑している。私はどんっ、とグラスを置いた。
「一馬のバカヤロー!」
「ああ、新田さん絡みか……」
「新田さんって、どういう人?」
「ああ、新田さんは……」
宮園さんの問いに、神崎くんが口を開こうとする。私はそれを遮り、
「新田一馬は、オネエです! どんだけ〜、あはは」
「オネエ……え? なのに結婚?」
「色々あるみたいだよ」
神崎くんが悟った口調でつぶやく。
「ねえねえみやぞん、新田さんのこと知りたい?」
「え、あ、はあ、そうですね」
宮園さんは、さほどでもなさそうな顔で頷く。
「新田一馬は、すんごくかっこいい」
私はふらふら頭を揺らしながらそう言った。
「神崎くんよりですか?」
「あったりまえだよ。新田さんに比べたらねえ、その辺の男なんかカボチャだよ」
カボチャ扱いされた神崎くんは、黙って唐揚げを食べている。
「口悪いし、私よりテレビに出てる俳優に夢中だし、意外と優柔不断で、元カレに未練タラタラで、でも、でも」
でも。他にあんな人はいない。私がすきな人は、他には存在しない。私が一緒にいたい人は、新田さんしかいない。
「優しいひとです、私は、新田一馬が、世界一、すきです……」
私はポロポロ涙を流した。宮園さんが慌ててハンカチを差し出し、神崎くんが、周りに神崎スマイルを振り向く。
「すいません、なんでもないんです」
私は、宮園さんと神崎くんに支えられ、タクシーに乗り込んだ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だあ」
私はヘラヘラ笑いながら、宮園さんの肩を叩く。
「いい子だねえ、宮園さん」
「いや、小城さんがこういうキャラだとは……泰然としてる印象でしたし」
「全然だよ。恋しちゃったから」
新田一馬に恋をしちゃったから、私はみっともないくらいに、毎日感情的になってる。
「じゃあ、頼むね、宮園さん」
神崎くんは宮園さんにそう言って、手を振り去っていった。
タクシーがホテルにつくと、宮園さんが私を引きずるようにして中へ入った。私はフロントでキーをもらい、上へあがる。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみー」
バタン、とドアが閉まる。
私はふらふらベッドに倒れこみ、そのまま意識を失った。
プルルル……。電話の鳴る音が響いている。それは長く鳴り響いていたけれど、ある時ぷつり、と途切れた。
こつ。なにかが額に当たり、私は身じろぎをした。
「ん……」
ぼんやり目をひらいたら、えらくかっこいい男性がこちらを見下ろしていた。色素の薄い瞳に、私が映り込んでいる。すごい、間抜けな顔。びしっ。額に痛みが走る。
「いてっ」
「アンタバカ?」
「に、新田、さん」
こちらを見下ろしていたのは、新田さんだった。
「なあにが友達に会う、よ。神崎くんから電話があったわよ、アンタが居酒屋で泣きわめいてるって」
「わめいてないです。な、なんでいるんですか」
「迎えに来てあげたんじゃない。アンタほんとめんど臭いわね。ドラマのヒロインじゃあるまいし、手間かけさせんじゃないわよ」
迎えに来てくれたなら、もっと優しいこと言ってくれればいいのに。
「もー、何時間も旅して疲れたわよ。お風呂入ろっと」
新田さんはそう言って、さっさと浴室へ向かう。私はぼうっとしながら、ベッドに座りこんでいた。迎えに来てくれたのに、なんか全然嬉しくない。浴衣を着た新田さんが、頭を拭きながらやってきた。ベッドに座ると、スプリングがきしむ。
「アンタもお風呂入ったら」
「……」
「妙子?」
「純也さんの、どこが好きでしたか」
「またそれ?」
新田さんは、呆れ気味に言う。
「写真とってあるくらいだし、覚えてるでしょ」
「……見た目。あと、心を許した相手には甘えてくるとこ」
なんかリアルだ。新田さんが他の人を甘やかしてるなんて、想像したくない。私は耳をふさいだ。
「聞きたくないです」
「なんなのよアンタは」
「もう、寝ます」
私は布団をめくり、横になろうとした。新田さんはため息をつき、ベッドから立ち上がった。私はぎゅっとシーツを掴む。
「妙子」
「もう、寝ました」
「アタシ、アンタがいないとつまらないの」
新田さんが、穏やかな声で言う。
「たとえば、テレビを見てるじゃない? で、アタシよく独り言いうのよ。そしたらアンタが返事するの。アタシの言葉は、もう独り言じゃなくなるのよ」
新田さんはつづける。
「よくわからないかもしれないけど、それが嬉しいの。独りじゃないって思える」
「それが、純也さんだったら?」
「妙子、アタシはね、写真が好きじゃないのよ。写ってる自分と、現実の自分が違うように思えた」
中学の時、高校の時、大学の時。全部無理をしている自分だった。
「純也と撮ったあの写真が、一番自分らしく思えた。だから、捨てられなかった」
でも違うのよ。新田さんが呟いた。
「写真は昔なの。今のアタシとは、別人」
彼はそっと、私の肩に触れた。
「いまアンタといるアタシが、本当なの」
私は腕を伸ばし、新田さんに抱きついた。ぎゅっとしがみついて、喉を震わせる。新田さんが、優しく私の背中を撫でた。
「泣くんじゃないわよ」
「だ、って」
新田さんは、私の額にそっと口づける。
「好きよ、妙子。ずっとそばにいて」
「はい」
唇が重なり、新田さんの舌が、私の舌を絡め取る。身体が熱くなって、もっと欲しくなる。
「新田さんの全部がほしいです」
新田さんの手が、私のシャツを乱す。露わになった肩を、新田さんが軽く噛んだ。キャミソールの肩紐が、するりと落ちる。身体がベッドに倒されて、ぎしりと音が鳴った。こちらを見下ろす新田さんの目が、いつもと違った。胸が高鳴る。
「新田、さ……」
「いい加減、名前で呼んだら」
「一馬、さん」
私は新田さんの指先を、ぎゅっと握りしめた。
その夜感じた熱は、今まで感じたものより、ずっとずっと熱かった。
★
朝日がカーテンの隙間から注いでいる。私はもぞ、と身じろぎして、目の前の一馬さんを見つめた。長い睫毛が震え、ぱち、と瞳が開く。彼はこちらを呆れた目で見て、
「いつまで見てんの。穴が開くわよ」
「すいません……あまりにカッコよくて」
一馬さんは私にデコピンした。
「いて」
「お腹空いたわね」
彼はシャツを羽織って、スマホに目を落とした。
「ここって朝出ないのよね」
私は額を押さえながら頷く。
「はい」
「モーニング行きましょ。名古屋のモーニング、凄いのよね」
「はい」
はい、しか言わない私を、一馬さんが覗き込んでくる。
「アンタ、大丈夫?」
私はへら、と笑った。
「大丈夫だあ」
「志村けん?」
早く服着なさい。そう言われて、私は下着を拾い上げた。振り向くと、一馬さんがじっと私を見ている。恥ずかしくて、布団を引き寄せた。
「な、なんですか」
「ねえ、妙子」
「はい?」
「アンタ、酒飲むの禁止ね」
「なんで、ですか?」
彼は私にスマホを突きつけてきた。
「あっ」
私が神崎くんにしがみついている写真だ。
「酔っ払って男に抱きつくなんて、はしたないオンナね」
「違います、これはふらついて」
「何が違うのよ。あーやだやだ、いくら神崎くんがイケメンだからって」
私はむっとした。
「一馬さんだって、純也さんに抱きついたじゃないですか」
「あれは昔よ、これは今」
「写真は昔って言ったじゃないですか!」
「あーもううるさい。とにかく禁止」
私はむくれて、一馬さんの肩を叩いた。
「痛いじゃない」
「一馬さんだって、私に噛み付きました」
「他の男に色目使うからよ」
「使ってません」
にらみ合っていたら、ぐー、とお腹が鳴った。私と一馬さんは視線を合わせる。
「……朝ごはん、食べに行こうか」
「はい」
私たちは、手を繋いで部屋を出た。




