3-12 ブートキャンプ再び
暗闇だ。
目隠しされた完全な暗闇の中で、俺は身動きが取れなかった。
両手は後ろで、両足も足首で縛られている。狭い。体を伸ばすこともできない。
車のエンジン音が聞こえる。振動。走行中だ。
トランク──車のトランクに閉じ込められている。
落ち着け。深呼吸して、状況確認だ。
まず拘束の確認。
手首と足首はロープで縛られている。きつい。
しかし、完全に動かないわけではない。指は動く。
身に着けていた装備は没収されている。武器は無い。ポケットもカラだ。
「……ッ」
カーブに差し掛かるたびに身体が左右に振られ、周りの壁にぶつかる。
だが、その遠心力を利用して身体を反転させ、縛られた両手を足元へと伸ばす。
ブーツの踵を床に叩きつけてずらし、隠し持っていたセラミックの刃を出す。
体勢は辛いが、練習した動作だ。刃を慎重にロープに当て、手を小刻みに動かす。
一本、また一本と繊維が切れていく音が聞こえる。
焦るな。急げば手を切る。
ロープの張力が弱まった。もう少しだ。最後の一本を切ると、ロープがほどけた。
よし。
両手が自由になった瞬間、すぐに目隠しを外す。
ついで、セラミックの刃を踵から外して、足の縄を切る。
目隠しを外しても真っ暗だ。
だが、わずかな光の筋が見える。トランクの隙間から漏れる外光だ。目が慣れるまで待つ。
次は、敵の確認だな。
後部座席のシートに手を伸ばす。トランクスルーのロック機構 ── あった。
音に気を付けてロックを外す。カチッ、という小さな音。シートが少しだけ動いた。
慎重に、数センチだけシートを倒す。隙間から気配を確認する。
後部座席には人がいない。もう少し大きくシートを倒し、車内を目視確認する。
運転席に人影が一つ。助手席にもう一つ。 男が二人だ。
後部座席に大きなキャリーケースが積まれているが、開けるのは難しそうだ。
男二人に会話はないが、二人とも迷彩服を着ている。
戦闘経験がありそうだ。俺一人では勝てないだろう。
シートを元に戻す。音を立てないように静かに。
次の判断。ここからどうする? 田村さんの教えを思い出す。
(1)走行中にシートを倒して車内に侵入し、制圧する。
(2)停車を待ち、トランクが開けられた瞬間に反撃する。
(3)停車後放置された場合は、トランク・リリースレバーで自力脱出する。
走行中の車内侵入はリスクが高すぎる。事故を起こせば自分も危険だ。
停車を待つべきか。
念のため、トランク内部を確認する。
うっすらと光る蛍光塗料のマーク──あった。緊急脱出用のトランク・リリースレバーだ。
田村さんの声が蘇る。
『日本のセダンタイプの車は、トランクを内側から開けたり、後部座席へ脱出できねぇ場合が多いんだ。その場合は、犯人に逆らわずにその後の脱出機会を待て』
今は、このレバーを使える。大丈夫だ。トランクを開けられる。
車の速度が落ちた。
止まる気配。
心拍が上がる。落ち着け。
ブレーキの感覚。身体にGがかかる。
完全に停止した。エンジンが切れ、静寂が広がる。
ドアが開く音。足音2つ。
近づいてくる——いや、遠ざかっていく?
物音が聞こえない。ゆっくり300まで数える。
よし、今だ!
トランク・リリースレバーを引く。
カチャン、とロックが外れる。トランクが跳ね上がる。
光が差し込む。
俺は素早く身を起こし、トランクから飛び出すと同時に、ベルトを抜き取って両手で構えた。即席の武器。金属のバックル部分を振り回せば、十分な打撃力になる。相手が銃でなければだが。
周囲を確認。敵は──
「お、無事に出てきたな!」
田村さんが五メートルほど離れた場所で腕時計を見ながら立っていた。その横には、陽菜乃ちゃん、レオさん、桐島博士。そして双子の莉子ちゃんと悠真君まで、全員が集まっている。
「まあ、初めてにしちゃ悪くねぇか。時間は7分40秒だ」
田村さんが笑顔で言う。
「……訓練ってわかってても緊張しました」
俺は構えを解き、大きく息を吐いた。手にはまだ、強くベルトが握られている。
「縄を切る速度は合格。状況把握の手際もよかったです」
トランク内を赤外線カメラで様子を見ていたレオさんが、クリップボードのチェック項目を読み上げる。
「ただし、シートから車内を覗く時の音が少し大きいですね。ロック機構を外す時の『カチッ』という音、それからシートを動かした時の『ギシッ』という音」
「実戦なら勘のいい奴には、すぐに気付かれるぞ」
と田村さんが付け加えた。
「走行音が大きい時、例えば加速中とか、路面の悪い道を走ってる時に合わせるようにした方がいいな」
なるほど、と俺は頷いた。音のタイミングまで計算する必要があるのか。
「それから、脱出後のベルトを武器にする判断は良かったぞ。とっさの判断で使えるものを武器にする。その姿勢が大事だ。トランク内だと、シート下に工具やジャッキがある場合もある。あればラッキーだな」
陽菜乃ちゃんが笑顔で手を上げた。
「ねぇねぇ、田村さん。次は私の番だよね? このマルチスマートキーを使ってみるね! 電磁ロックのトランクなら、どんな車でも内側から開けられるはずなんだ〜」
「おいおい、いつの間に作ったんだよ」
「海外の車両盗難装置のスマートキー複製ツールを小型改良したの~。パッと見、キーホルダーにしか見えないし、わかんないでしょ?」
陽菜乃ちゃんが、500円玉よりちょっと大きな金属のプレートのようなものを取り出して見せる。
「これがあれば、リリースレバーがないトランクも開けられるし、スマートキー対応車なら鍵がなくてもエンジンをかけて運転することもできるんだ~」
レオさんが感心したように、その装置を受け取って確認している。
「技術の進歩は、生存確率を上げますね。こんなに小型化できるなんて、さすが陽菜乃さんです」
田村さんは犯罪だろと呟いて、呆れたように笑っていた。
「ハッチバックなら、後部座席を倒してハッチから出られることもある。軽自動車は狭いが、逆に蹴破りやすい」
それから、島に置いていない様々な車種の、構造図を見ながら説明を受ける。
閉じ込められた時の脱出方法だけではなく、爆弾を仕掛ける効率的な位置や、銃撃戦になった時の車の活用方法などを教えてもらう。
今日は、島に戻って4日目。そして、対人訓練2日目だ。
話し合った結果、第二回目の本土遠征の前に、俺たちはきちんと対人戦闘の訓練をすることにした。
田村さんが組んだ五日間のプログラムは、想像以上に本格的だった。
基礎の簡単な組手から始まり、拘束からの脱出訓練、人体の急所攻撃、武器対処訓練、状況別対応訓練、心理戦・交渉術、チーム連携訓練——ハンドサインや、突入・制圧時の連携まで、全部で七つのプログラム。座学も実技もたっぷりだ。
素人の俺にとって特にためになったのは、人体の急所攻撃訓練だ。
桐島博士が人体模型を持ち出し、丁寧に関節の構造を説明してくれる。
「顎への打撃は脳を揺らし、意識喪失を誘発します」
博士が人体模型の顎を突くと、頭がい骨がガクッと揺れる。
「鳩尾——正確には腹腔神経叢ですが——ここへの衝撃は横隔膜の痙攣を引き起こし、呼吸困難に陥らせます」
「膝への攻撃は機動力を奪います。手首や肘は武器を落とさせるのに有効です」
狙えるかどうかは別として、知識は大切だ。狙う場所は、つまり守る場所でもある。
桐島博士の説明は続く。莉子ちゃんと悠真君が、ママをキラキラした尊敬の目で見ている。
それにしても、博士も医師としての知識が、こんな形で役立つとは思わなかっただろう。
拘束からの脱出訓練は、子供たちも参加する。
「莉子、悠真、お前らもやってみるか?」
田村さんが双子を呼ぶと、嬉しそうに飛んできた。
「やるやるー!」
「僕、縛られるの? グルグル?」
ロープで手首を縛られた双子は、田村さんの指示に従って体を捻る。小さな身体を器用に動かし、意外なほど簡単にロープから抜け出してしまった。
田村さんに褒められてご機嫌だったが、二人とも少し練習すると、部屋に戻って勉強すると言って事務棟へと戻っていった。最近、二人とも大人しくなった気がする。
「やっと落ち着いて勉強する気になったのか~?」
田村さんは笑顔で見送っているが、桐島博士は心配そうに走って追いかけていった。
施設周辺は、完全な安地になり魔物が出ないとわかっていても、やはり子供たちだけで屋外を移動させるのは心配なのだろう。
子供たちに比べて、珍しくレオさんが苦戦していた。手足の長さが、体勢によってはマイナスに働いているようだ。
「子供の方が関節が柔らかいから、有利だな。これからは、みんな寝る前にストレッチをしてくれ。こういうのは継続が大事なんだ」
俺も年齢の割に身体は固い方なので、これからはストレッチをしてから寝よう。リラックス効果もあり、寝つきがよくなるらしいので楽しみだ。
次は結束バンド。これは大人でも難しい。
「両手を上に上げて、思いっきり腰に叩きつけろ。そのタイミングで、両手を左右に引っ張れば、勢いでバンドが切れる」
田村さんの実演を見て、俺たちも挑戦する。何度も失敗しながら、ようやくプラスチックが割れる感触を掴んだ。他にも、靴紐や安全ピンを使った外し方も練習した。
拘束と言っても、ロープ、結束バンド、ガムテープ、手錠と色々な方法がある。それぞれの特性や脱出方法、逆にそれらを使って相手を拘束する時の注意点を習う。そして、ひたすら講習と実演を繰り返す。
休憩時間、陽菜乃ちゃんがアイスティーを飲みながら言った。
「私、スタンガンなら海外に行った時に練習したんだけどな〜」
全員の視線が彼女に集中する。
「え、それってどういう状況?」
俺が聞くと、陽菜乃ちゃんは屈託なく笑った。
「ダークウェブで知り合った人たちに、色々教えてもらったんだ~。油断させてから、至近距離でバチってやるやつとか」
「陽菜乃ちゃん、それは……いやありだな。よし、スタンガンもプログラムに追加しよう」
田村さんが真顔で言った。確かに、島には複数のスタンガンが備蓄されている。女性や子供には、身を守る使いやすい武器になるはずだ。
その日の夕方には早速、スタンガンの安全な使用法と、効果的な当て方を学ぶ訓練が追加された。
陽菜乃ちゃんが手慣れた様子で、相手の肩にもたれかかってジュースを飲みながらスタンガンを後ろから当てる方法を実演すると、田村さんが微妙な顔でため息をついた。
「お前、海外で何してたんだ?」
「ん~、色々?」
ニカッと笑う陽菜乃ちゃんに呆れる田村さんを見るのはもう何度目だろうか。
俺もみんなも苦笑いしか出てこない。
心理戦・交渉術の先生は、レオさんだった。
「対人戦闘というのは、心理戦の側面も大きいんですよ。例えば——」
そう言って、レオさんは田村さんに向き直った。
「田村さん、あなたはなぜこの島にいるんですか?」
「は? いきなり何を——」
「答えなくていいですよ」
ニッコリ笑ってレオさんが手を上げる。
「今、田村さんは一瞬考えましたね。質問の意図を探ろうとした。それです」
なるほど、確かに俺も思考停止した。納得だ。
「相手が何を知りたいのか。何を恐れているのか。質問の裏を読むことで、時間を稼ぎ、状況を有利に持っていけます」
レオさんは続ける。
「例えば、人質になったとき。 『あなたの要求は何ですか』 『どうすれば解放してくれますか』 ——こうした質問は、相手に話させることで時間を稼ぎ、同時に相手の目的や精神状態を探れます」
田村さんが腕を組んで頷いた。
「うーん、確かに。冷静に会話を続けることが、生存確率を上げるってわけだな」
そこから、時間稼ぎの会話術と、相手の意図を探る質問法の訓練が始まった。ペアになって、相手役と人質役を交互に演じる。
俺が人質役になったとき、田村さんが銃を向けてくる。もちろん訓練用のレプリカだが、田村さんの眼光の鋭さに緊張する。
俺は、両手をそっと上げて、逆らう意思がないことを示す。
「動くな!」
中途半端な位置で両手を止めて、相手の要求を聞く。
「わかりました、動きません。あなたは何が欲しいんですか?」
「黙れ!」
「要求を教えてください。物資ですか? 情報ですか? 俺にできることがあれば何でも用意します。あなたが欲しいものがあれば——」
「おいおい、待て待て」
田村さんが笑いながら訓練を止めた。
「今のは、相手を探りすぎて逆に怒らせるぞ?」
レオさんもアドバイスしてくれる。
「質問は、相手を刺激しないように。でも情報は引き出す。そのバランスが重要です」
緊張状態で、落ち着いて対応するのは難しい。だが、確かに生死をわける重要なスキルだと痛感した。そして俺は壊滅的に下手だった。俺の場合は、捕まったら口を噤んだ方がよさそうだ。
五日間の訓練が終わる頃、全員が疲労困憊だった。いつもは使わないような身体の部位を使うので、筋肉痛が続いている。
休憩所で冷たい麦茶を飲みながら、俺は田村さんに聞いた。
「田村さん、サバゲーってここまで訓練するんですか?」
田村さんは少し気まずそうに笑った。
「ゴム製のナイフを使ったナイフアタックありの対戦もあるが、日本では稀だな。サバゲーはあくまでも銃を使ったゲームなんだ。俺も対人訓練はほとんどしたことねぇんだよ、実は」
え? と顔を上げる。
「アリスとレオ君に相談しながら、このプログラムを組んだんだ。AIって便利だよな。過去の軍事訓練マニュアルから護身術の教本まで、全部分析して素人向けの最適なプログラムを作ってくれたよ」
確かに、素人向けの基本訓練と実用的な応用訓練が、バランスよく組まれていた。
だが、五日間の訓練程度では、俺たちは完璧には程遠い。初心者よりマシ程度だ。今後も、少しずつ訓練を続けていくことになっている。
それでも、「いつか」役に立ちそうな技術があちこちに散りばめられていた。
その「いつか」が来ないことを願いたいが、前世の記憶がそんな甘い考えは許さない。
前世では日本にも機関銃をぶっぱなす武装勢力はいたのだ。
そして信憑性はともかく、掲示板サイトには、世界中の生々しい報告が溢れていた。
『知り合いに聞いた噂だが、物々交換の交渉に応じたグループが、若い女性以外は皆殺しにされたそうだ。顔見知りでも信用してはいけない。善意は死んだと思え』
『拉致されたら最後だ。奴隷にされて使えなくなったら処分されるらしい。脱出のチャンスは、初日夜の一度きり。俺と一緒に逃げた仲間以外は、もう二度と会えないだろう』
『拘束された時は、自分の有用性をアピールするんだ。医師免許でも、溶接作業免許でも、自動車整備士免許でも、例え他人の免許でも見つけたら名前を読めなくして携帯しておけ』
桐島博士が人体の急所を説明していた時の、あの複雑な表情。
医師として人を救うはずの知識が、人を傷つける知識として教えられる矛盾。
双子が脱出訓練に参加していた時の、あの違和感。
まだ小学生にもなったばかりの子供たちが、拉致からの脱出方法を学ぶ異常性。
それでも、俺たちは訓練を続けるだろう。
生き延びるために。大切な人を守るために。
そして、その覚悟が試される日は、もうすぐそこまで来ている。
いつも誤字脱字のご指摘ありがとうございます。




