38 お嬢様、ちょっとハイ
パソコンの参考書を読み込んでいたら、朝になっていた。
「……え? 姉ちゃん、もしかして徹夜したの……!?」
起きてきた凌久が眠そうに目をこすりながら、昨夜寝る前と寸分違わぬ姿の私に驚いたように声をかけた。
「あぁ……、そうね。もう朝ね」
さすがに疲労感はあるものの、円華の頭は冴えたままだ。むしろ、今は眠くない。大量の情報を処理するためなのか、回転したまま止まらない、というか。暴走した馬がまるで止まらないように、ますますスピードが上がっていくような。
ヴァイオレットの時に極限まで頭を使った時に似ている。有り難い、と思った。
いつもの円華なら朝は眠くて、凌久が起きる頃はまだぼんやりして頭が働かない。徹夜すれば夜の続きだからなのか、妙に冴え渡っていた。
「うぅん……、受験勉強してた頃の姉ちゃんが戻ってきたみたい……。ほどほどにしときなよー」
なるほど、鬼気迫る、という雰囲気なのね。なんとなくその頃の円華がやっと想像できた。
私は心配してくれる凌久に微笑んだ。
「えぇ、ありがとう。でもあと三日はこうだと思うわ」
「えぇ……? 何と戦ってるの、今度は」
戦ってる、とは言い得て妙な。
でも、そうね。戦っているの、私は今。
「王子と、に決まっているでしょう」
「王子と⁉ 王子と戦っちゃってるの⁉ ……うぅん? でも、パソコンの参考書見て? うち、パソコンないじゃん。大丈夫? ていうか、パソコンの参考書で一体なんの戦いが……?」
「パソコンは手段に過ぎないの。――とにかく、売られた喧嘩は買うのよ」
「パソコンで殴り合うの? 物騒だな! だから、ほどほどにしとけって! ……まったく、久遠さんは何をやってるんだよー、もう」
迷惑だからちゃんと見とけよー、という呟きが聞こえたような。
ぶつぶつ言いながら、凌久が顔を洗いに部屋を出て行く。
さて、譲が迎えにくるまでに仕事の段取りと優先順位を決めておこう。
とりあえず、パソコンがなくてもできる作業を続けた。
◇◇◇
どんなに時間がなくても、授業はこなさなければならず、しかし高速回転し続ける脳の動きは止めることができないのか、むしろ授業の内容を処理する能力は上がっていた。
「えぇ、紫野さん、結構です。難しい公式の応用ですが、よく勉強なさってますね」
「ありがとうございます」
にこりと笑って黒板の前から席に戻る。
調子いいわ……!
むしろ、足りないくらい……!
「――高速回転したままのエンジンが止められない、という感じですね」
上機嫌、というより、もはや何かのハイに陥っているのか、スキップするように軽やかに生徒会室へ向かう私の後ろから譲が溜め息混じりにそう言った。覚えがある、とでもいうかのよう。
「円華の頭は、勉強に関してだけならヴァイオレットよりもさらに処理能力が高そうよ」
「そうですか。それはようございました」
「むしろ特化しているみたい」
それでどうしてあんなにうっかりしているのかが、むしろ謎だわ。
「ひとつのことに能力のすべてを全振りしてしまうのですね。……そのどれかを生活能力に充ててくださればいいのに」
「何か言って?」
「……いいえ、なんでも」
それより、お昼は何かしらー?
それだけが、楽しみなのよ?
「……ついてからのお楽しみですよ」
「はーい」
生徒会室につくと、譲が昼食の準備をしている間にできることから手をつける。
ノートパソコンを立ち上げ、昨年の分からデータに目を通しつつ、同時に入力していく。タッチタイピング、という技術があるらしく、キーボード配列を覚えてしまえば目視と同程度の速度で同時入力ができる。徹夜でマスターしたから問題ない。戦績や備品の購入履歴、消耗品の使用状況、予算の消化率……、それらのすべてを入力しつつ頭に入れる。
ダダダダ、とキーボードを叩きながらそれらを分析する。
数年分入れるには時間が足りないが、なんとなく配分の理由は予想がついてきた。叩き台を上げるには数字が足りない。数年の推移がわかれば――。
「……ま。紫野様……!」
「はい?」
慌てて手を止めて目を上げれば、そこに眩い妖精がいた。
……あ、いえ。
「……姫宮様。ご機嫌よう」
妖精ではなく私のお姉様、姫宮様でした。
「ご機嫌よう。ずいぶん集中なさってましたね」
「申し訳ございません。気づくのに遅れてしまいました」
「それは構いませんが……、驚きました。もうタッチタイピングまでマスターなさったの?」
「えぇ、まあ。自宅にパソコンがないもので、実際に触れてみないと覚えたかどうか不安だったのですが。……大丈夫そうですね。どうにか使えているようです」
「そう……。表計算ソフトも、ワープロソフトも問題なさそうですね」
「そうですね、計算式は既にフォーマットで入力されていますから、数値を入れるだけなら。付け焼き刃ですから、まだどの式をどこへ配置すれば、というゼロからの文書作りは自信がありませんけれど……」
「充分ですわ。――さあ、あなたのお友達が美味しいお昼を用意してくださってますよ。少し休憩いたしましょう?」
「えぇ……、はい!」
気づけば別のテーブルにはすっかり昼食の準備が整っている。
お、美味しそう……!
「どうぞ、お嬢様方」
譲がすっと伸ばした手の先が椅子を引いてくれ、吸い込まれるように座った。
ああ、心なしかテーブルの上がキラキラしている……眩し……!
「あら、ピザ、かしら?」
姫宮様も御自分のお弁当を広げながら、興味深そうに覗き込んだ。
「タルト・フランベですよ。アルザス地方の薄焼きのパンです。アルザスではFlammekuecheと呼びますが。フランス語のタルト・フランベという方が日本では知られていますね」
こんがりと狐色に焼けた四角いパン生地の上に具材が乗せられたものが何種類かあった。
「こちらが、オーソドックスなタルト・フランベ。具材は玉ねぎとラードン、クレームフレーシュ。その横がフォレスティエール風。牛肉とマッシュルーム、舞茸、ジャガイモ、それとコリアンダーを少し添えています。その横は和風で、シラスとネギです。甘いものも用意しましたよ。クレームフランジパールにリンゴを乗せて、ナツメグとシナモンで、アップルパイ風にしてあります」
ああ……! どれからいただこうかしら……!?
「さすがに用意しすぎではないですか……?」
姫宮様が口元に手を添えて呆れたような視線を譲に向ける。
譲はにっこり微笑んだ。
「小さめに焼きましたけど、切り分けてありますから、好きなものを好きな分量でどうぞ。姫宮先輩も良かったら。足りなければもっと焼きますよ?」
「焼くって……」
「食堂のオーブンを借りて焼いてもらったんです。冷蔵庫に生地の余りがまだありますから、ひとっ走りして焼いてもらってきますよ。タルト・フランベのいいところは焼き上がりまでそれほど時間がかからないってところですから」
「おかわり……? いいえ、もう何も」
私も、学校での昼食のためにこの量と手間暇を用意する譲はちょっとどうかしていると思わないでもないが、姫宮様が(もうこれ以上何も言うまい)という言葉を飲み込んだのは気づかなかったふりをする。私は美味しければそれでもう文句はない。残ったら、うちのお夕飯にお持ち帰りさせていただこう、うん。
まずはやっぱりオーソドックスな方からよね……!?
一切れ取って口に運ぶ。
香ばしく焼けたパンの部分はパリパリと軽い口当たり。厚切りのベーコンに似たラードンの脂は程良くジューシーで、シンプルだけど玉ねぎと良く合う。それにこの少し酸味のあるチーズ。
「では、私もお言葉に甘えて少しいただきます」
上品に手を伸ばされて、姫宮様もオーソドックスなものから口にした。
口にした瞬間、口元を抑えて大きく目を開く。
「……! クレームフレーシュって、サワークリームかしら……? 一般のサワークリームより軽めの酸味がありますね。普通のチーズよりさっぱりしていて、生地も薄いですし、いくらでも食べられそう……」
ですよね……!
うちの譲、天才ですよね……!?
何これ、美味しい……!
「……ピザのようですけど、トマトソースを使っていないのですね。シンプルで素朴ですけど、これはまたピザとは違った味わいがありますね」
姫宮様の感心したように的確なコメントが続く。
うん、それ、全部私も同意します……!
あ、ピザ、どんなものか、わからないけどー!
今度、それも作ってね、譲!
私はコメントする余裕もなくもぐもぐと咀嚼することで精一杯。
「こちらは……、フォレスティエール風、って肉料理でよくありますね。その具材が乗っているのですね」
続いて、牛肉が乗ったタルト・フランべを手にする。
「コリアンダー、苦手ではないですか? 避けてもいいですよ」
穏やかに気遣う譲に、姫宮様は首を振る。
「いいえ。むしろ好みなくらい。もう少し強くても私は大丈夫です」
こちらも口にして微笑まれる。うん、美味しいですよね、これも……!
私も好き!
「こちらは食べ応えがありますね。茸たっぷりで、森の香りもしそう……」
幸せそうに頷く姫宮様に私も嬉しくなり、とにかくその森の香りとやらを堪能して更に今度は海の幸へと手を伸ばした。
シラスの塩味とネギが合う……!
この小さなお魚……、旨味素晴らしくないですか……!?
こ、こんな小さな体につぶらな目をして、侮れない……!
姫宮様と目が合って、もうそこからは無言でうんうん頷くのみ。
それから、やはり次の甘いタルト・フランベにも結局手を伸ばしてしまう。
サクッとした口当たり。リンゴの甘酸っぱさと、クレームフランジパールというカスタードクリームに似たまろやかなクリームが合う。
「アーモンドの香りかしら……? 普通のカスタードもいいですけど、こちらも合いますね」
姫宮様の赤い唇に艶々としたリンゴが吸い込まれていく。
アーモンドの香りなんだ、このクリーム。
コクがあって、シナモンやナツメグの強い香りにも合う。
おかず系も美味しいけど、デザート系もありね……!
おお、恐るべし、レパートリーの多さ、タルト・フランベよ……!
「あら……、嫌だわ。結局全種類いただいてしまったではないですか、久遠様。結構お腹一杯……」
姫宮様が後悔したように呟く。
え!? こんな小さな四切れしか召し上がってませんけれど!?
一枚分にもなってませんよ、大丈夫ですか!?
私、まだ、全然余裕ありますよ!?
恐るべき小食さに思わず驚いてしまう。妖精じみた体つきの理由がわかった気がするが……、大丈夫だろうか、このまま消えてなくならないだろうか。コルセットとかつけてませんよね? それなのにお腹一杯とか、体調平気ですか? た、足りますか、これっぽっちで!?
私が譲をばっと振り返ると、譲はなぜか苦笑している。
お、おやつに包んであげれば!?
わ、私、我慢するから……!
「大丈夫だよ、紫野くん。普通の女性はこれくらいしか食べないから。いいんだよ、残りは全部食べても」
「そ、そ、そうなのですか……!?」
不安になって姫宮様を見れば、姫宮様はくすくすと笑みを漏らす。
「ごめんなさいね、紫野様。一切れくらいのつもりが、美味しくてつい手が伸びてしまったの。あなたの分ですから安心してお召し上がりになって? 私、お弁当がありますから、そちらもつまみますし」
「で、ではお言葉に甘えて……」
……で、結局ひとりで全部たいらげてしまったではないの……!
譲の馬鹿……! お腹一杯よ!?
食後のお茶をいただきながら、感心したように姫宮様が溜め息を吐いた。
「紫野様、美味しそうにお召し上がりになるのね。羨ましいわ……、私、いつもフルコースを全部食べるの、本当に大変で。綺麗にすべていただきたいとは思うのですけど……」
フルコースは女性には量が多いらしい。お付き合いの多い姫宮様にはそれがちょっとした悩みらしい。前世を思い出して、少し納得する。ヴァイオレットはもう少し小食だった気はする。料理もここまで美味しくはなかったし。大量に食べ残すのは礼儀に反するから、食べきる練習もしていたような。
上流階級の方もいろいろ悩みはあるのだろう。
私としては代わってあげられるなら代わってあげたいくらいだ。
どうも円華の胃袋はとても丈夫なようなのだ。
消化能力も高い。
大量のご飯は一体どこへ行っているのだろう……?
恐ろしく燃費が悪い体、とも言える。
「そういえば、久遠様はお食事なさらないのですか? 給仕に徹していらっしゃったような気が……」
心配そうに姫宮様が譲に訊く。
あ、そういえば!
もはや、譲が給仕することが当たり前すぎて、そこまで気が回らなかった。
「ああ、大丈夫ですよ、ご心配なく。片手で食べられるものを用意して先に食べていましたから。準備しながらチャチャっと片付けたんで」
――うん、そうよね。抜かりないあなたのことは心配することもないのよね。そこは安心してる。
譲は自身の体調管理も万全なはずだ。私のために昼食を抜くような、計画性のないことはしない。
「ちなみに何を……?」
そっと呟いた心の声は漏れ出てしまっていたようだ。
譲がにっこり微笑んだ。
「サンドウィッチだよ。明日はそれを食べてみる?」
うんうん、と頷いた私を、二人が微笑んで見つめた。
――ハイ、「食いしん坊」です、ごめんなさい。もう、認めますよ……!
私は、食いしん坊です……!




