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お嬢様は平穏無事な日常をお望みです  作者:
第三章 一年生 春
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〈閑話〉譲、姉とヴィオラと


「あら、珍しい。久しぶりね、ヴィオラ弾いてるなんて」


 自室のドアを開け放って弾いていたから、入口から気軽く、声をかけられた。

 ヴィオラを弾いていた手を止め、久遠譲は声をかけた相手を見遣った。


「……姉さん。姉さんこそ久しぶりですね。今日はお仕事は?」

「出張帰りよ。やっと新しい海外出店の目処がついたから。二、三日お休みいただこうかと思って」

「そうですか。お疲れ様です」


 ドアに凭れるように立っていた姉は、部屋に入ってきて、譲のベッドにぽん、と腰掛けた。

 譲は部屋の中央に置かれたテーブルの上に、弾いていたヴィオラと弓を置いた。


 テーブルの上に置かれた、ヴィオラケースや道具類に目を遣り、軽く首を傾げる。


「――やめなくてもいいのに」

「いえ、調子を見ていただけなので。――お茶でも飲みますか?」

「ええ、ありがとう」


 部屋の隅には紅茶のセットが用意されていた。譲が自分で飲むために置いていたものだが、ひとり分追加するくらいはわけもない。ポットの湯を再沸騰させて、手早く姉の分の紅茶を淹れた。


「すみません、ミルクは用意してませんけど」


 ベッドサイドのサイドテーブルに、茶器を置き、譲は姉に「どうぞ」と差し出した。

 疲れている時の姉は、本当は濃いめの甘いミルクティーを好む。

 後で、スパイスたっぷりの濃いめのチャイでも淹れてあげようか、それとも久しぶりの日本なら緑茶か抹茶がいいだろうか、と譲は思った。


「充分よ。ありがとう」


 明るい色のワンピースを着ていたが、どことなく顔色はくすんで見えた。顔色が明るく見える色を選んでいるはずだから、それでもこうなのは相当疲れているのだろう。

 七歳年上の姉は、本格的に家の仕事を手伝うようになっていた。出張続きで疲れがたまっているようだった。

 ティーカップに口をつけて、こくり、と飲み込むと、姉は深く息を吐いた。


「――相変わらず、美味しいわね」

「それは、どうも」


 姉はティーカップから目を上げ、改めてテーブルの上に置かれたヴィオラを見る。


「中学に入ってからすっかり弾かなくなってしまったから、辞めたのかと思っていたわ。また、始めるの?」

「いえ。ただ、ずっと開けていなかったから、調整しておこうと思っただけで」

「あれ、それ。……ああ、私が嫌になってあなたにあげちゃったやつか」


 深いチョコレート色の、艶やかな楽器だ。ヴァイオリンよりは少し大きい。


「そうですね。――改めて見ると、普通のより少し小振りですよね」

「もう少し大きくなったら持ち替えるつもりで、その大きさだったんだけど。飽きちゃって、それ以上続けなかったのよね。懐かしいわ」

「物はいいですよね、これ」

「そりゃ、そうよ。お祖父様の特注品だもの。ふふっ、……孫馬鹿よねぇ。辞めちゃって申し訳なかったわ」

「姉さんは習い事、なんでも続きませんでしたね。お茶もお花も、ピアノもヴァイオリンもヴィオラも」

「あんなの、人並み程度にできればそれでいいのよ。教養よ、教養。プロになるわけでもなし、それで充分」

「どれも上手だったのに、もったいない」

「後から始めた弟がなんでもかんでもすぐ私よりうまくなっちゃうから面白くなかったんだもの。馬鹿らしくてやってられないわ」


 譲は驚いたように目を瞬いた。


「――僕のせいだったんですか?」


 姉は、軽く肩を竦め苦笑した。


「……気にしなくていいわ。子どもの頃の話よ。特別好きでもなかったからちょうど良かったのよ、辞めて。好きならどんなことがあっても続けてるわ。……その程度の話」


 落ちてきた長い髪をさらりと耳にかけ、姉はもうひとくち、紅茶を飲む。


「もったいないというなら、あなたの方よ。演奏家になるのかと思っていたのに」


 今度は譲が僅かに苦笑する。


「……表に出るのはやめておいたんです、今回は」

「どういう意味?」

「……いいえ。演奏家になるほどの才能はないと気づいたから。続けるのはつらくなってしまって」


 実際、小学生の頃は熱中していたヴィオラも、弾けば弾くほどつらくなってしまっていた。中学入学を機に、一度辞めたのだった。


 ――弾けば弾くほど、孤独がひどくなっていった。


 耳にしたい音色は、最早誰も弾いてはくれないのでは――。


 自分は、追い求める音を出せない。かつて愛していた、かの音色を永遠に再現することはできない。――今世も、出会うことのないまま。


 ――ひとりの、ままで。また、終えるのかもしれない。


 そんな想いが強くなって、つらくなって長いこと、しまったままだった。


「ねぇ、一曲弾いてくれない?」


 殊更、明るい調子で、姉が言った。

 

 飲み干した紅茶のティーカップを置くと、立ち上がって姉がテーブルに近づく。

 譲が置いたままのヴィオラと弓をひょい、と取り上げた。

 

「はい、どうぞ」


 譲は姉を見上げ、少しだけ息を吐いた。

 

 ――孤独は、払拭されようと、している。


「……高いですよ」

「えぇ? 有料なの? ケチねぇ。……いいわよ、お姉ちゃん、ひと仕事終えて懐もあったかいからお小遣いあげようか?」

「いや、お金はいらないんですけど」


 譲は渡されたヴィオラを弾き始める。

 姉はテーブルについて聴きながら、気持ち良さそうに目を閉じる。


「……このヴィオラ、僕にくれませんか」


 弾きながら、呟くように譲は姉に問う。姉は軽く目を開けて、弟を困惑したように見た。


「とっくにあげてるじゃない。好きにしていいわよ?」

「お祖父様に何か訊かれたらきちんと対応してもらえますか?」

「……ネットオークションにでも出すつもり? あんまりおすすめしないけど」

「そんなことはしませんよ。――もっと、有効活用します」

「ストリートライブ? それならちょっと面白いけど。残念ながら、それもあんまりおすすめできないわねぇ。親戚とか会社の人に見つかるといろいろうるさそう」

「……ふふ。僕が弾くんじゃなくて。――もっと、必要としてくれる人に」

「誰かにあげるってこと? ……うーん、まあ、いいんじゃない? 大切にしてくれるなら。お祖父様も、人にあげたものにとやかく言うほど野暮じゃないでしょう。ただし、どんな人に渡すのかはちゃんと教えてちょうだい」


 譲は黙ってしばらく弾き続けた。

 そして、ぽつり、と漏らす。


「……同級生、ですよ」

「クリストフォロスの? そりゃあ、構わないけど……、クリストフォロスの学生ならヴィオラなんて買えるでしょ? ちょっとそれ普通のより小さいし……、高校生が本格的にやるならちゃんとしたものの方が」

「女性だから、大きさは多少小さくてもいいと思いますよ。音大やプロを目指すわけではないから本格的でなくてもいいでしょうし。事情があって、買えるような経済状態ではないんです。でも、弾くのを諦めさせたくはなくて」


 姉が驚いたように、目を見開いた。


「……お、女の子?」

「はい」

「譲が――女の子!?」

「はい」

「それって、特別ってことよね!?」


 譲は目を閉じて、ふと、笑う。


「……そうですね。特別、ですね」

「お、お、おかーさーん!」

「姉さん、今日はお母さんは料理教室の生徒さんたちと会食ですよ」

「そうだった……! じゃあ、お父さん!?」

「お父さんは、仕事です」

「だよね!? じゃあ、志麻さんか……!? 志麻さーん!」


 昔からの住み込みの家政婦さんの名を叫ぶ。


「志麻さんは、もう業務外の時間です。無理をさせないように」

「う……!? 話していい!? 話してもいいの……!?」

「そうですねえ……。黙っててくれると有り難いですけど」

「紹介! 紹介しなさいよ! すぐ! 今すぐ!」


 姉のスマートフォンを目の前にぐいぐい出され、さすがに譲は演奏を一度止める。


「もう遅いですから。――それに、携帯電話を持っていない人ですから」

「クリストフォロスの同級生なのに!? どんなよ!?」


 ふふっと笑うとそれには答えなかった。

 姉は疲れていたことを急に思い出したかのように、すとんと椅子に座って、ぐったり寄りかかった。


「……なんとなく、あなたは一生恋人は作らない気がしていたのよ」

「へぇ?」

「政略結婚とかはホイホイしそうだったけど」

「……僕は姉さんの中で、どういう印象なんですか」

「うーん? 正体不明? 年齢不詳? 宇宙人?」

「まったく、どういう……」


 その回答に、些か呆然として譲は姉を見返す。

 姉はふてくされたような顔で視線を逸らす。


「だって、こーんなちっちゃい頃からなんでもそつなくこなして、いつもにこにこ、穏やかで――なんて、そんな子ども、気持ち悪いでしょ? 宇宙人かと本気で思ってた時期もある、正直」

「ひどいな……」

「でも、そういうところを隠せないというか隠してないところが胡散臭い、というか……。もう少し完璧に可愛い子どもを演じようとしたらできたでしょ? でもそうでもなくて、半分人生どうでもいいって思ってるみたいで。時々、ぞっとするみたいに暗い目をしてて。まあ、幸せになるつもりないみたいな顔してたから歯がゆかったわよ」

「……」


 返す言葉を失った譲を、姉は苦笑して見返した。


「気づいてないとでも思ってたの? 腐っても姉よ、姉。今はずいぶん人間ぽい顔してるわよ。――まあ、そのうちでもいいから、あなたを人間にしたその彼女を連れて来なさいよ」

「彼女ではないですが」

「まだ付き合ってないってこと? じゃあ、どういう関係?」

「……お嬢様としもべ?」

「…………は?」

「冗談です」


 譲は改めて曲を弾き出した。


「とにかく、ヴィオラをあげてまでその彼女の気を惹きたいほど、特別に思ってるってことか。……いいんじゃない? どうぞ、好きになさいよ。お祖父様に万が一何か訊かれたらちゃんとフォローしておくから」

「……どうも」


 しばらく姉は譲の曲を聴いていた。


「……ねえ。この曲、昔からあなたよく弾いてたけど、私、どんなに調べても曲名がわからないのよ。確か昔、あなたのオリジナルではないって言ってたわよね?」

「……彼女が弾いてた、彼女だけのための曲です」

「よく……、わからないんだけど。その彼女が作曲したってこと?」

「彼女の知人が彼女のために作ったヴィオラのための練習曲です」

「そうなんだ……! 長年の謎が、今初めて解けたわよ……! ……え、でも、じゃあ、あなた、そんな長いこと片想いしてたの?」

「……それこそ、生まれる前から、ずっと」


 譲の口元がふと、緩む。

 姉が、一瞬無言になった。そして、血の気が引いたような顔をする。


「ゆ、譲が『運命!』みたいなこと言い出した……! 怖いわ……! 早く告白しなさいよ!」

「どうでしょうね。そばにいられれば、もう、それで」

「だから、怖いわ! ストーカーかよ!?」

「姉さん、言葉遣いに気をつけて……」


 姉は心底震えるように「怖い怖い」と繰り返した。


「とにかく、犯罪にならない範囲で幸せになりなさいよ。弟よ」


 弾き終えた譲はヴィオラをテーブルに置き、答える代わりにただ微笑んだ。


 ――今、とても幸せなんですよ、姉さん。


 譲は内心でそう、呟いた。


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