25 お嬢様、許しを請う
そっと、久遠譲に近づいた。
その両頬を、両手で挟んだ。
初めて、正面からきちんとその顔を見た気がした。
じっと、見つめる。
オスカーの面影は、そこにはない。
私がもうヴァイオレットではないように、この人ももう、オスカーではないのだ。
まったく違う髪、肌、目の色。『私のもの』と、唯一言い切れた、たったひとりの私だけの従者はもう、どこにもいない。
――だって、私が……、ヴァイオレット自身が殺したのだから。
私は、それを謝らなければならない。
死んだ後も、私を守るために何度も生を繰り返してきたこの人に。
『願わくば、あなたと、別の世界で出会えたら――私は、一番に詫びようと』
『詫びる?』
『えぇ。私なんかに仕えたばかりに、あなたを死地へ追いやった。……あなたの生きる権利を奪って、自分の希望のために行かせた。あなたなら、それができるし、やってくれるとわかっていたから』
『お嬢様……』
手が、冷たい。細かく、震えていた。
でも、ここでやめるわけにはいかない。
『ごめんなさい、オスカー。あなたを危険に晒してしまって。主人失格だわ。あなたに従者以上のことをさせた。……ごめんなさい、オスカー。最期の最期にあなたに甘えた、弱い私を許して……』
泣かない。
ヴァイオレットは、どんなに辛くても毅然と顔を上げて。
――あっという間に、私のすぐ近くにある久遠譲の顔がぼやけていった。
……私を人前で泣かせるのは、この人だけだ。
オスカーの前でだけは、自分を隠すことはできない。
私は先ほどの決意も虚しく、目にはみるみる涙が溜まっていった。
『お嬢様……。まさか、最期にそんなことを?』
『えぇ。最期に浮かんだのは、あなたのことだった。家族より、国民より、ただあなたに一言謝りたかった……。そして、礼を言いたかったの。私の最期の我が儘を聞いてくれて、ありがとう』
とうとう零れ落ちた涙をどうすることもできなかった。
ただ、それでも目を逸らさずに彼を見つめた。
ぼやける視界の中で、困ったように、そして呆れたように彼は目を細めた。
『お嬢様は最期まで困った方だ。わかっているでしょう?』
そこで、彼はふっと笑った。
『私はね、何度でも言ったはずです。本望です、と』
私の目の前で心底嬉しそうに微笑んだ彼が、私が思った通りのことを言ってくれた。
『あなたに仕えられることが、私の最大の望み。本望ですよ、お嬢様』
……ああ、オスカー。
『あそこで、頼ってもらえない方が従者失格です。あなたの望みはでき得る限り、叶える。――本望ですよ、お嬢様』
『う、恨んでいないの? 私のことを』
『それこそ、心外ですよ、お嬢様』
『でも、こんな。何度も転生するほどの何かって、私への憎しみではないの?』
『憎しみ?』
ずっと優しく笑んでいた彼が、初めてむっとした顔をした。
『――触れても?』
『え?』
『許しなく触れるな、とおっしゃったから』
『え?』
『――許す、と。でないと私もあなたを許しません』
『え、あ、え? ゆ、許します』
瞬間、抱きすくめられた。
『……お嬢様。怒りや憎しみというのは、そんなに長く持続しないのですよ。何度も生を重ねていけば、そんなものは薄れてしまうのです。……ああ、間違えないでください。私はあなたを恨んだことはありません。最期の頼みだって、託してもらえて嬉しかった。ただ、それ以上に、あなたを守りきることができなかった後悔の方が大きい。もしあの時あなたの手を離さなければ、と何度思ったことか』
体を通じて、彼の声が届いた。
穏やかでいて、激しい想いを秘めるような、複雑な感情を含んだ、声。
それが、少し震えた。
『……私のこの繰り返す生は、妄執ですよ。ただ最期まであなたと共にありたかった、という後悔だけです。そのオスカーの記憶を持ったまま、何度も何度もあなたのいない世界で生きるのが、本当に苦しかった……。あなたが幸せに笑うところを見ることができれば、たぶん私もオスカーとしての記憶を必要とせず、別の人間として生まれてくることができるでしょう』
ぎゅっと、私を抱きしめながら、それはまるで何かにすがりつく子どものようだ、となぜだか感じた。彼の背を左手で、髪を右手で撫でた。
『……ずっと、お待ち申し上げておりました、ヴァイオレット様。長い、長い時を、あなたに会えると信じて。――もう一度、あなたのそばにいることを、どうか許してくださいませんか。今度こそ、必ずお守りします。あなたが笑って暮らせるなら、それが私の本望なのです』
震える声が、オスカーの記憶を持ち続けて、私を探し続けた彼の孤独を表していた。
『私は長く生きすぎて、もしかしたらもうあなたのご存知のオスカーではなくなっているかもしれない。それでも、新しい記憶と共にあなたを守る術をいくつも手に入れてきました。あなたをお守りしたい、という想いだけは変わらないのです』
『私も、円華とヴァイオレットが混ざってしまっているの……。ヴァイオレットとは違うかもしれない。それでも?』
ふっと、少しだけ、彼が笑う気配がした。
『……ええ、円華様』
『オスカー。では、私のことは許してくれるのね?』
そっと、彼が体を離した。
私の右手を取り、軽く口づける。
『もちろん、許すも何も。私はあなたの専属従者ですよ。何なりとお申し付けください』
『ありがとう、オスカー……』
彼は手を離すと、眩しいものでも見るように私を見つめて微笑んだ。
「今は、久遠譲です、円華様。どうぞ、譲とお呼びください」
前に言われた言葉が日本語で、繰り返された。
私はもう、それに逆らえなかった。
「ありがとう……、譲」
私たちの話が終わって、改めて台所に立つ凌久に、譲が話しかけた。
「食事の担当は凌久くんなのかい?」
「担当ってわけでもないけど。母さんができないときはよく作ります。だから大抵夕飯は作ることになってるなー」
「円華様は……」
ちら、と譲が私の方に視線をやり、首を振った。
「まあ、やらないでしょうね」
「はい、やらないですね」
ちょっと、二人とも! 失礼ではないの?
私だって、やろうと思えばできなくなくてよ……!?
「あっ……! そういえば、姉ちゃんがスープくらい作れるとか言ってたことあるけど、もしかしてオスカーさんがヴァイオレットに教えたんですか?」
「ああ……、確か逃亡中に。水に塩とそのへんの野草を入れて煮込んだだけのシロモノだから、スープと言えるかどうか疑問だけどね。とりあえず、腹は膨れる」
「やっぱり……! やらせなくて正解だった……!」
「凌久……!」
譲が面白そうにくすり、と笑う。
「遅くなってしまって、悪かったね。時間、大丈夫かい?」
「ん、まあ。父さんも母さんも遅くなるんじゃないかなぁ」
「今夜のメニューは?」
「とりあえず、メインは肉じゃが。あと味噌汁。ご飯はもうすぐ炊けるし、ほうれん草は母さんがまとめて冷凍してくれたのがあるから……、副菜に作り置きの五目ひじきがあって……、あとなんかもう一品かなあ」
「和食だね。僕がやろう」
「……は?」
凌久と私はぽかんとして譲を見た。
譲は制服の上着を脱ぐと、ワイシャツを腕まくりした。
「貸して。それくらいなら十五分あれば充分だから」
「え?」
凌久から大量のジャガイモを取り上げ、包丁でするする剥いていく。
「調理師免許を持っていた時もあるから」
「え? すげぇ。なんでもできるんだな、本当」
凌久は冷蔵庫から肉じゃがの材料を取り出すと、譲の横で玉ねぎを剥いて切っていく。
「これは、何日分?」
ちらりと材料を確認した譲が、凌久に訊いた。
「二日。明日のお弁当と夕飯にも使うつもりです」
「四人分にしては多いと思った。了解。紫野家は肉じゃがは豚派?」
「紫野家にとって肉とは豚と鶏のことです」
生真面目に答えた凌久に、くくく、と譲が笑い声を漏らす。
「豚も充分美味しいよ。僕は豚の肉じゃがも好きだけどね」
鮮やかな手つきでジャガイモを剥き終わってしまう。深めの鍋に油を入れて、ジャガイモを入れた。
「先にジャガイモを焼き付けて焼き色をつけておくと、コクが出るよ」
ジャガイモがこんがりしたら、玉ねぎと豚肉を入れ、調味料を入れて落とし蓋をした。
「ちょっと冷蔵庫を失礼」
中をざっと目を通す。
「これは何日分の食材?」
「えーと、次の特売が明後日だから、まあ二、三日保てばいいかなあ」
「お、乾燥の干しエビと練りゴマがあるね。豆腐は使っても?」
「大丈夫。味噌汁?」
「いや、白和え。味噌汁は、キャベツと油揚げ」
「……ねえ、久遠さんち、お金持ちなんですよね? 何、その主婦っぽいメニュー」
「一応社長の息子だよ。うちには家政婦さんがいるから、家で料理はあまりしない。――まあ、庶民の生活も知ってるから」
「庶民って……、それはどの前世?」
「ひみつ」
「うー。俺は、久遠さんの過去が気になって仕方ないよ……!」
そんなやり取りを二人がしているうちに、あっと言う間に夕食ができた。
「ご両親のお帰りを待つ?」
「ううん。いつも先に食べちゃってます」
「そう。――では、お二人とも、どうぞ」
ほぼ譲が作ってくれた夕食が卓袱台の上に並んだ。
こっくりとした色の肉じゃがに、具だくさんの味噌汁。ひじきの煮物とほうれん草と小エビのおひたし、人参の白和え。ほかほかの白いごはんが湯気を揺らす。
――お、美味しそう……!
「ゆ、譲……! あなたいつ、魔術を覚えたの……!?」
「はい?」
「あ、気にしないで久遠さん。姉ちゃん、うまそうなもの前にするといつもこうだから。姉ちゃん、出来上がる過程を見てて、なぜそう思うかな。魔術じゃなくて料理だって」
「お望みなら、またいつでもお作りしますよ。――さあ、どうぞ冷めないうちにお召し上がりください」
「久遠さんは?」
「僕は家で用意されてるから」
「それじゃあ、遠慮なく。いただきまーす!」
「いただきます……!」
ほくほくのジャガイモをはむっと口に含む。
甘じょっぱいけれどくどすぎず、優しい味。
お、お、美味しい……!
オスカー、腕を上げたわね!?
「うまい……! 俺のと全然違う……! 白和えも! あんな簡単に作ってたのに……! それに、おひたし! ひと手間で高級感出る……!」
「たまに違う味付けも気分が変わっていいものだろう?」
「はい!」
「じゃあ、ごゆっくり。――円華様、今日はお暇いたします。明日は七時半頃お迎えに上がります。そのおつもりで」
「迎え来なくていいわよ。近いから」
「いいえ、参ります」
融通が利かないことを言って、譲が立ち上がった。
「あっ、待って、久遠さん!」
バタバタと凌久が子ども部屋へ行ってノートを手にし、戻ってくる。表紙に『聖クリストフォロス生活大作戦』と凌久の手書きで書かれたあれだ。
「……なんだい、これ?」
「俺たちが考えた作戦。久遠さん味方だから、それ読んどいてください」
譲がパラパラと中を見てから軽く溜め息を吐き、頭が痛そうにこめかみを長い指がおさえた。
「……いろいろ突っ込みたいところがあるけど……。いいよ、わかった。読んでおこう。――円華様、明日の放課後は僕にお時間いただきますよ」
「えぇ!? 明日も部活動見学行くって、約束してるのよ?」
「これ、先にどうにかしないと全然だめです。いいですね、朝一番で真中くんたちに断ってくださいね」
「嫌。一日置きにあなたに付き合うために先約を断るなんてしたくない。先約は先約よ」
譲が深く溜め息を吐いた。
「……わかりました。幸い、今週はまだ短縮授業ですから、見学の後でも多少時間は取れるでしょう。あなたが見学している間に夕食の準備をしておきます」
「は? 夕食の準備?」
今度は凌久がびっくりしたように問い返す。
「そう。今日のような時間では準備が大変だろう。明日は僕が用意するから」
「は? え?」
「凌久くんは学校終わったら真っ直ぐ帰って来て。作戦の練り直しだ」
「練り直し?」
「詳しくはまた明日。では、失礼いたします」
あっけに取られて見送る私たちに折り目正しく礼をすると、譲は帰っていった。
この場面の凌久視点の番外編を書きました。よろしかったらどうぞ。
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次から第三章に入ります。
その前に二章の登場人物紹介も入れますね。




