〈閑話〉中マトリョーシカ、心酔する(2)
翌朝、日課の馬房掃除に向かうと、既に掃除を始めていた部長に、新入部員勧誘について懇々と語られます。
「わかってらして、真中様? 新入部員獲得は、部の存続に大いに関係するのですからね?」
「はぁ……」
「まあ、間の抜けた返事ですこと! 気合いを入れてくださいよ、気合いを!」
「わ、わかりました! わかりましたから、フォークを振り上げるの、やめてください!」
――馬糞が飛ぶのですわ、部長……。
おが粉をより分ける馬房掃除用のフォークを持ち、片手を腰に当てて仁王立ちする部長のお名前は三枝百合恵様とおっしゃいます。とても凛々しくていらっしゃるのですが、ボロを飛ばされてはかないません。私、これから授業なのですよ……。いくら意中の男性がいない私といっても、馬糞臭い状態で教室に向かいたくはありません。
「わかれば、よろしい。よろしく頼みましたよ」
ザシッザシッと音を立てて手早く汚れた部分をより分けていく作業は、専門の方のように手慣れています。
我が聖クリストフォロス学院馬術部は、馬術クラブのように専門の厩務員もおります。生徒は学業もありますから、掃除などの馬の世話をそちらに任せても良いことにはなっております。馬術部に所属する生徒も、学校外に所属する馬術クラブがあれば、そちらで練習する人の方が多いくらいで、週一回、もしくは月に数回程度顔を出すくらいの部員が大半です。
しかし三枝様は逆で、大半は学院の馬術部で練習されています。馬の世話も人任せでなく馬房掃除も率先してなさり、通学圏内にご自宅があるにも関わらず、馬の世話がしたいがために寄宿舎生活をなさっている変わった――もとい、とても熱心な方なのです。最早学業の合間に馬の世話をするのではなく、馬の世話の間に学業をなさっているような……。いつ、勉強なさっているのかしら?
そういう私も、朝早く眠い目をこすりながら、馬房掃除をするのが、なぜか日課となっております。私は他の部員と違って、中学から馬術を始めて、学外の馬術クラブにも所属しておりません。他に兼部もしておりませんから、毎日馬術部へ通うこととなり、またまたなぜだか二つ上の学年の三枝様になんだか目をつけられ――いえ、目をかけられて、あれよあれよという間に馬房掃除にも駆り出されているのです。三枝様は馬の世話まで含めて行うことで、初めて万全のコンディションが整えられるのだ、とよくおっしゃっていますが、確かに馬の体調などもよくわかりますから、重要な作業だとは感じております。
さて、そんな朝の日課を終え、厩舎から校舎の方へ向かう林の近道を通っていた時です。正門から校舎へ続く中央通りへ繋がる小道にさしかかった時、普段は人気のないそこに、男女の話し声が聞こえてきました。
「久遠様! やめてください、そういう態度。なんの真似か、と訊いているのです」
ドキリ、として足を止め思わず近くの木に身を潜めました。
――もしかして、円華様? そして、もうひとりは、久遠様?
咄嗟に隠れてしまいましたが、これ、盗み聞きになりますでしょうか……。
そっと窺うと、円華様が何やら久遠様を問い質されているようです。
わざわざこんな人気のない場所でお話しされているのですから、盗み聞きして良いお話のはずがありません。
本来なら、すぐに立ち去るべきなのでしょうが……、その、お二人が私の進行方向にいらっしゃるので出ていけない……ハイ、いえ、申し訳ございません、好奇心が先立ちました。言い訳ですね……。
私は気づかれないように、そっとお二人の立つ側の木の陰から様子を窺うこととなったのです、すみません。
「円華様、と呼んだら僕のことも譲、と呼んでくださる約束ですよ」
――く、久遠様!?
まるで、久遠様が目上の方に対するように円華様に話しかけています。
それにしても、男性が同級生の女子生徒に様付け、とはどういうことでしょう。
昨日は私たちに対してにこやかだった円華様が、苛立った態度を隠しもせず、強い口調でおっしゃいます。
「約束じゃないわ! 様をつけて呼ばないで、とお願いしているの。あとその口調もやめて。皆に変に思われるじゃないの!」
「ではあなたが僕の名を呼んでくださったら、やめましょうか」
「く……っ、ゆ、譲、様……」
――円華様が、久遠様のお名前を……!
円華様が悔しそうに呟くと、久遠様が円華様との距離を詰め、後退った円華様が木に追い詰められます。久遠様はトン、と円華様の顔の横に手をつき、まるで囲いこむように顔を近づけます。
――あ、あれはもしや、少女漫画でよくあるところの壁ドン、というものではないのかしら? あ、木ですから、木ドン? ……あら、少し語呂が悪いような。
円華様を見つめる久遠様の瞳は熱っぽく、艶めいて妖しげな色気があります。まるで口づけでもしそうな近距離で、心底愉しそうに口角を上げるその微笑みは、いつもの、私たちに向ける一歩引いたような笑顔とはまるで違っていました。
「おしい。さま、はつけないで」
「ゆ、あ、あなた、譲って名前のくせに全然譲らないわね!?」
動揺した風の円華様がそんなことを口走ります。言い得て妙なことをおっしゃいますね。
……なんでしょう、久遠様は円華様に対して敬語を使っておられるのに、押されているのは円華様のように見えます。
固唾を飲んでお二人を見つめていると、急に久遠様が外国語を口走られました。
『――――』
すると、円華様もキッと睨み、早口でそれに答えられました。
『――――!』
――英国英語?
私は、実は英語はあまり自信がございません。ゆっくりと話してもらえれば、日常会話くらいはできるのですが、得意ではないのです。それに、私が日常勉強しているのはアメリカ英語ですから、発音も少し違うようでした。
聖クリストフォロス学院でも基本はアメリカ英語です。ただ、以前英国で過ごしていたり、将来英国へ留学や仕事をする予定の生徒のためにイギリス人の先生もいらっしゃいます。イギリス人で英語教師のエドワーズ先生とは時々お話もしますが、その発音に似ているような気もします。
円華様の言葉に応えたのか、久遠様はふっと笑い、円華様の耳元で何か囁くと、その場から立ち去られました。
ひとり残された円華様は、うっすら赤いお顔をされていましたが、迫られて嬉しい、という雰囲気でもなく、どこか苦しいような複雑な表情をされていました。しばらく佇んでいましたが、振り切るように毅然として顔を上げると、颯爽とした足取りで校舎の方へ向かわれました。
私は、結局声をかけることなく、それを見送りました。
――どうしましょう。なんだかすごい場面に出くわしてしまったような気がします……! お二人は、一体どういう関係なのでしょう? 昨日初めて会った人のようには見えませんでした。それとも、昨日、ホームルームの後、お二人に何かあったのでしょうか。
ずっと、耳元で心臓の音がバクバク鳴っているのが聞こえます。
恋人同士の語らいを間近で見たわけではないのですが、あんなに色気のある久遠様を初めて見ましたし、動揺した様子の円華様に、あんな表情もできる方なんだ、という驚きもありました。
何より、秘密の場面を見てしまった背徳感に不思議なときめきさえ覚えており、そんな自分に困惑もいたしました。
平和で穏やかな学園生活に、波風が立つ――ただ、それは決していやなものではなく、はしたなくも私はわくわくどきどきしてしまっていたのです。




