〈閑話〉中マトリョーシカ、心酔する(1)
――その方が、教室に入って来た瞬間、世界が変わった気がしました。
◇◇◇
「真中様、高校も同じクラスになれましたね」
入学式の日、教室に入ると大原様と小田様が手を振りながら私を招いてくださいました。私たちは幼稚園の時からのお友達です。
聖クリストフォロス学院では、女子生徒は他の方を呼ぶ時、相手が男性でも女性でも『様』をつけ、男子生徒の場合は『くん』をつけることが慣習になっております。それは聖クリストフォロスがまだ男女別学だった頃の名残のようです。男女同等の時代ですし、男性らしさとか女性らしさとかがナンセンスな時代になったとはいえ、そういう上級生から受け継がれた慣習というものは、なかなかなくならないのです。
もちろん、強要はされませんし、仲の良い者同士は別の呼び方をしたりもしますから人それぞれ、なのですけれど。そんな慣習もいずれ変わってくるかもしれませんね。
「ええ、高校もよろしくお願いいたしますね」
席につきながらにこりと微笑んで、私もそれにお答えします。良い高校生活になるとよろしいこと。
――私の日々は穏やかです。
同級生のほとんどは幼稚園からのお友達、十二年もこの学院に通っているのであれば、多少の変化はあっても校内に顔を知らない方はほとんどおりません。
先輩も後輩たちも良い方ばかり。
――穏やかで、平和。
でも……正直言うと、少し退屈でもあるのです。
変わらない、日常。それが貴重なことで、恵まれていることも理解しております。ですが……、何か物足りないことも事実です。
私は軽い溜め息を吐きました。
――贅沢な、悩みですね。
その時、教室のドアが開きました。
ふと、花の香りがした気がして、私は目を上げました。
瞬間、桜の花びらが舞い、春風が吹き抜けました。――いえ、そのような気がしたのです。……おかしいですね、室内、なのに。
ドアを開けて入って来たのは、ひとりの女子生徒でした。
長い、艶々とした真っ直ぐの黒髪。意志の強そうな切れ長の目に、形の良い唇。
ゆったりと教室を見渡す様は品があって、落ち着いて見えます。
「……外部生、かしら?」
「えぇ……、なんでしょう、印象的な方」
囁くような小田様と大原様の小さな声がしましたが、私はその方に目を奪われていて、ほとんど耳に入っておりませんでした。
その方は私の方に視線をピタリ、と止めると足音もほとんど立てない静かな足取りで、私たちの方に近づいてきました。
私は、息を呑んでそれを見守りました。
私の座る席の隣に立つと、ふっと微笑まれました。
「――隣、空いていて?」
「え、えぇ、どうぞ。すぐ入学式ですから、それまではどこでも自由に座っていて良いようですよ」
「そうですか。ありがとう」
その方は隣の席に座り、肩にかかった髪を細く白い指でそっと払いのけました。ピンと伸ばした背筋が毅然としていて、美しいな、と思いました。
「あの………、外部生の方、ですか?」
隣に立つ小田様が、その方に話しかけました。
「外部生……? ああ、高校から入学する生徒をそう呼ぶのですか。えぇ、今日からこちらに通います。――紫野円華です」
私たちの呼びかけに答えて、形良い唇がそう名乗りました。
まるで、百合の花のように凛とした佇まいでした。
「……紫野、円華様……」
吐息を漏らすような、小田様と大原様の声。
「初めまして。これからよろしくお願いいたします」
僅かに目を細めて微笑まれました。まるで魔法にかけられたように、その笑顔に私たちは魅了されてしまったのです。
講堂で行われた入学式から戻る途中、小田様と大原様が新入生挨拶をされた北大路様の噂などなさいます。
「相変わらず、格好良くていらっしゃいますね、王子様……」
「高校でも生徒会役員になられるのかしら?」
「そうでしょうね……」
私は何となく紫野様の姿を捜してしまいましたが、既に講堂にはいらっしゃいませんでした。先に教室へ戻られたのでしょうか。
「――ね、真中様?」
「え? ……ご、ごめんなさい、聞いておりませんでした……」
「あら、いやだ、真中様ったら。どなたか意中の方をお捜し?」
くすくすと、小田様に悪戯っぽい笑みを向けられます。
「あ、いえ、そういうわけでは……」
特に好きな方はいません。私たち生徒の間で王子、と呼ばれる元生徒会長の北大路様や今年は同じクラスの元副会長、久遠様など、遠くから眺めて格好良いな、と思う方はおりますが、だからと言って特別どうこうなりたいとは思えません。あの方たちはなんでしょう、鑑賞用というか、アイドルでも眺めるような気持ちで見ているだけです。他の同級生も先輩後輩たちも、よく知りすぎていて、今さら恋に落ちる気もいたしません。
「そういう小田様は、どうなのですか? 春休み中も部活動に通われていたのでしょう? 道堂様との仲は、進展しました?」
からかうような大原様に、小田様はカーッと赤くなってもじもじなさいます。
「いえ、そんな、進展だなんて……」
「あら、そうなの? 残念。いい感じなのに、と思っておりましたのに」
大原様がおっとりと笑います。大原様は中学の時から同じフェンシング部の幹様とお付き合いされていますから、そんな風に余裕なのでしょう。
私は彼氏どころか、小田様のように好きな方もおりませんから、少し羨ましい気もいたします。ただ同時に、心乱されることもありませんから、平和と言えば平和ではあります。
「わ、わ、私のことはいいではないですか……!」
真っ赤な顔で手をわたわたさせる小田様を、大原様と私はつい優しい目で見守ってしまいます。本当、小田様って乙女でいらっしゃるから。可愛らしいわ。
小田様は自分が道堂様より背が高いことを気にしていらっしゃるみたいですけれど、本当に可愛らしい方なのです。この方の魅力に気づかれないなんて、世の男性方の見る目のないこと。私が男性なら放っておきませんよ。小田様、早く告白なさればよろしいのに、と大原様と私はやきもきして見守っているのです。
「そ、それより! 紫野様のことですよ……!」
「紫野様?」
「ええ。部活動見学にお誘いしたらいかがかしら、と思って大原様とお話ししていたのです」
「ああ、それは良い考えですね」
内部生はほとんどの生徒が中学校で何らかの部活動に所属しています。兼部も許されますし、もちろん高校から別の部活動に入部しても問題はありません。私たちも、既に所属している部活動はこのまま続けるつもりですが、他のところも少し見てみようというお話はしていたのです。
それに、実を言うと外部生は壮絶な争奪戦があるのです。どこの部活動も新入部員が欲しくて、四月中は見学会を開催しているはずです。私は馬術部に所属しておりますが、やはり部長から「外部生をなんとしてもゲットせよ!」と指令が出ているのでした。
「ホームルームが終わったら、話しかけてみませんこと?」
「ええ、ぜひ!」
私は意気込んで、そう答えました。
「まあ、真中様、やる気に満ち溢れてますこと」
小田様にくすくすと笑われます。
「……だ、だって部長に新入部員を連れてくるよう、強く言われてますし」
「本当、真中様ったら、三枝様に命令されると逆らえないのですねえ」
「そんな風におっしゃってはだめよ、小田様。三枝様相手では私たちも敵いませんもの。それに、うちの部だって似たようなことは言われてますよ。小田様だって、新入部員を連れて行ったら道堂様、喜ばれるでしょう?」
「……ま、まあ、そうですわね」
「じゃあ、決まりですね。――でも、紫野様、素敵な方ですから、競争率高そうですね」
大原様がおっとりと、小首を傾げた。
私はそれに同意します。
「そう、そうなのです。私、あんな印象的な方、初めてお会いしたような気がします」
「ですよねぇ。なんだか凛としていて」
「ちょっとミステリアス、というか……」
「不思議な印象の方ですわね……」
どんな方なのでしょう。私はなんだかわくわくしてきました。ホームルームが終わるのが待ち遠しくなってきました。
ホームルームが終わると、早速一番に話しかけました。私たちの不躾な質問にもいやな顔ひとつなさらず、言葉少なではありますが落ち着いてお答えくださいます。
「紫野様はどちらの中学校ご出身ですか?」
私の質問に、紫野様は近くの公立中学の名を上げました。私は不思議な気持ちになります。あそこの中学校は校区もかぶっていますから、生徒ともよくすれ違います。でも、こんな気品のある方、公立中学の制服を着ていても浮いてしまわないかしら。すれ違いでもすれば、必ず振り返ってしまうような印象的な方ですのに。
「どうして、クリストフォロスに?」
「すぐ近くなので。歩いて十五分くらいで着きますから」
「まあ」
公共交通機関で通学することが推奨されていますから私たちも駅を利用しますが、防犯の観点から自家用車で送迎される方も少なくはありません。紫野様は真面目な方なのですね。
「駅まではスクールバスもございますけれど、電車通学でないと、そうは行きませんものね。でも徒歩では危なくないですか?」
「すぐ近くですから、大丈夫ですよ。中学も歩いて通っていましたし」
そんな話を私たちがしていると、なんだかどんどん他の女子生徒たちも集まってきてしまいます。
――まずいです。本題に入る前に、どうにか私たちを印象づけなければ……!
「ゆ、紫野様……! あ、あの、円華様とお呼びしてもよろしくて……!?」
内心焦ってそう訊けば、紫野様――いいえ、円華様は、にこりと微笑んで頷いてくださいました。
「えぇ、どうぞ」
――やりました……! どうにか仲良くなれそうです……!
私たち三人組がとりあえず一歩リードしたのを見て、きらり、と他の女子生徒たちの目が光りました。口調こそ皆様おっとりとされていますが、次々と質問が飛びます。水面下での熾烈な新入部員争奪戦が始まったのです。
「ファイッ」という脳内レフェリーのかけ声と共に、試合開始のゴングは鳴ったのです。
矢継ぎ早な質問の後、誰かが円華様に中学の部活動について尋ねました。円華様はどこにも所属されていなかったようです。その質問を皮切りに、とうとう皆様なりふり構わなくなってきました。
わ、私も! なんとかアピールしなければ……!
「い、生き物はお好き? 馬術部は馬がとても可愛いのですよ……!」
どんどん部活動の勧誘をしていく私たちに、円華様が少し困惑されたように小首を傾げました。
「皆様、もう入る部活動が決まっていらっしゃるのですか?」
あ……!? 困らせてますか……! フォ、フォローを……!
「ええ。私たち、エスカレーター組ですから、中学校の時から所属している部活動がございますの」
私が慌ててそう言えば、続けて小田様と大原様がおっしゃいました。
「大抵は六年間続けることが多いのですよ。ただ、高校は別の部活動をされる方もいらっしゃいますし、掛け持ちももちろん許されますから、いろいろ興味があるところは見て回りますのよ」
「円華様、よろしかったらこれから、私たちと部活動見学に参りませんこと?」
――ナイスアシストですわ、お二人とも……!
一番に誘えました……!
「ぜひ行きたいのですけれど……」
円華様は興味がありそうに、そう呟かれましたが、何かを思い出したように途中で言葉を切りました。すると、そこに私たちの囲みの後ろから男性の声がかかりました。
「それは困るな。僕と約束していただろう?」
――久遠様!?
思わず私たちはざわめいて久遠様を見てしまいました。
そ、そういえば、ホームルームの前も円華様と久遠様は一緒に教室に入ってきていました。たまたま一緒になっただけだと思っていましたし、何より円華様に目を奪われて久遠様が視界に入っていなかったのです。
しかし、円華様は外部生ですし、今日初めてお会いするはずです。いつお約束なさったのでしょう。
――それにしても、この思わせぶりな『約束』って!?
久遠様は中学校で生徒会の副会長を務められ、我らの王子、北大路様と女子生徒の人気を二分する方です。成績はいつも北大路様と一、二を争われ、決まった部活動には所属されてはおりませんが、数々の部活動から助っ人を頼まれるほど、運動も文化活動も、およそ不得意なものが思い当たらないほどの方です。とても紳士的で誰にでもお優しいですし、誰のことも特別扱いはされず分け隔てなく接してくださいます。
……でも私は思うのです。それって、誰にも優しくないのと変わらないですよね?
私は、時折久遠様が微笑んでいらっしゃる時でも、その目がとても冷めて見える時があり、正直、他の方たちのように「どうにかしてお近づきになりたい」などと無邪気に憧れたりはできません。不思議そうな顔をされるので、他の方にはそんなこと言えませんけれど。
久遠様はどなたに告白されたとしても、やんわりお断りされている、と噂に聞きました。それなのに、個人的にお約束されているなんて。――女子生徒たちの心が簡単に乱される瞬間を、私は目撃しました。
ふっ、と円華様が息を吐かれる気配がしました。
久遠様に面と向かってこんなことを言われて、舞い上がらない女子生徒などいないでしょう。しかし、円華様は至極落ち着いていらっしやいました。それどころか、微かに眉を寄せていらっしゃるように見えました。気のせいかも、しれませんけれど……。
「……確かに、お約束しました。何か、私にお話がある、とか」
こ、これは、まさか……!
再び、ざわっと周囲がざわめきました。
そ、そうですよね、皆様……!?
動揺する周囲の雰囲気を察したのか、久遠様が、ああ、と頷いて私たちの方へ目を向けました。
「……みんなに勘違いされてるね。僕がこれから告白でもすると?」
「え、ち、違うのですか? 久遠様」
思わず、私は尋ねてしまいました。
すると、くすり、と久遠様が笑みを落とされます。
「もちろん。今日初めて会った人に告白なんかするものかい? ふふっ、違うよ。彼女、入試の成績が一位だったから。外部生は優秀な人が多いしね。早めに生徒会に勧誘しておこうと思って。……まあ、君たちと同じだね」
――入試で一番……!
「まあ、円華様。やはり優秀でいらっしゃるのね」
私たちはみな、納得して頷きました。あちらこちらから、ほっとした溜め息が漏れました。でも、同時に一瞬、妙な空気になります。
あら? と思ったのも束の間、久遠様の次の言葉で、その妙な空気も一掃されました。
「……あとね、彼女、ホームルーム前に校内で迷子になってたんだ。あやうく遅刻するところだったよ。だから、生徒会の勧誘をしながら、軽く案内してあげようと思ってね」
円華様の白い肌がみるみる真っ赤になっていかれました。それまで、クールに見えてどこか近寄り難い雰囲気も漂わせていた円華様が、僅かに恨みがましそうな目で久遠様を睨むのが、なんだか年相応に見えてとても可愛らしいのです。
「無理もございませんわ。私たちは慣れておりますけれど、来客の方々もよく迷っておいでですわ」
「広いですからねぇ。高校の校舎は何度か立ち入ってますけれど、それでも私たちもまだ慣れておりませんのよ。迷子になるのもわかりますわ」
入試一番の才女で、格好良い男性に個人的に誘われても超然とされている方が方向音痴なんて、なんというギャップかしら……!?
カーッと真っ赤になって恥ずかしそうになさっている姿は、まるで花が綻ぶように愛らしくもあって、私たちはなんだか微笑ましく、親しみやすいような気にもなりました。
その時、「あら」「まあ」などと微笑まれる皆様を困ったように見回していた円華様が、ふと何か久遠様と目を見交わしました。私はあまりに円華様に魅了されすぎて、ずっと注目していたからかもしれません。皆様はそんなお二人の目と目の合図に気づかれてはいらっしゃらないようでした。
「じゃあ、こちらが先約ということでいいかな?」
久遠様に訊かれて、私たちはこくこくと頷くしかありません。
「も、もちろんですわ」
「どうぞ、そちらを優先なさって」
円華様が本当に残念そうに溜め息を吐かれました。
「皆様、申し訳ございません。もし明日など、お時間がございましたら、案内してくださいませんか?」
「もちろんですわ、円華様。仮入部期間は四月いっぱいまでですから、まだまだ時間はございます。ゆっくりご覧になって、決められればよろしいのですよ」
私たちがどうぞどうぞと手を差し出せば、それを機に久遠様が円華様を笑顔で振り返ります。
「では参りましょうか、方向音痴さん」
「その呼び方、やめてください。――それでは皆様、また明日」
久遠様には眉を顰め、反対に私たちには美しい笑顔を向ける、という器用なことをなさりながら、円華様は優雅に会釈されました。
「ご機嫌よう、円華様」
「ご機嫌よう、皆様」
教室を出て行かれるお二人はなんだかとてもお似合いで、教室のドアが閉まるのを見送ると、私たちはつい「ほぅっ」と吐息を漏らしました。
――明日はご一緒できると、よろしいのですけれど。
私は、その時そんな暢気なことを考えていたのでした。これから驚きの日々が始まるなんて、思いもせず。
それが、私と円華様の出会った初日の出来事でした。
◇◇◇
そして、翌日。
次々と驚きの出来事が立て続けに起き、その日からもう、平和で退屈、などと言ってはいられない毎日が始まることになったのです。




