20 お嬢様、見学する(2)
最初に向かったのは、小田様の所属されている部活動だった。
特別棟の最上階の奥、一番広いスペースがある特別教室だった。
「……音楽?」
いくつもの楽器の音が響いてくる。弦楽器が多いようだった。
「ええ、私、管弦楽部に所属しておりますの」
「管弦楽……」
教室のドアを開けながら、背の高い小田様が微笑んだ。
途端に、たくさんの音が溢れた。
楽器ごとに練習しているようだ。
ガラリと開いたドアに、幾人かが手を止める。
「先輩方、見学者を連れて参りました」
手を止めた内のひとりが快活そうに笑って近づいてきた。
眼鏡をかけて真面目そうな男子生徒だ。
「やあ、こんにちは。ようこそ、新入生諸君」
「円華様、こちらコンマスで、部長の道堂浩平様です」
「初めまして。そちらの君は外部生だね? ぜひ見ていってくれたまえ」
言って自然に差し出された手を握り返す。ぶん、と勢い良くそれを振られた。
ふわりと独特な香りがする。
「あ……、松脂?」
思わず、口から零れていた。手を離した相手は、慌てて自分の手を見る。
「あぁ、匂い気になる? ごめん、さっきまで弓毛張り替えたりしてたから」
「いえ、特に嫌いな匂いではないので大丈夫です。――初めまして。よろしくお願いします」
弓毛を張り替えたときは、特に多めに松脂を塗る。ヴァイオレットの兄がヴァイオリンの弓の手入れによく使っていたから、ふと少し懐かしい感じがした。私はあまりまめに弓の手入れはしていなかったけれど、私の分もついでに兄がよくしてくれていた。
「大原くん、うちの説明はした?」
「いいえ、まだです」
「じゃあ、簡単に説明しながら案内するよ」
「練習のお邪魔ではないですか? 後ろの方で少し拝見させていただければ……」
私が遠慮すると、道堂様は気の好い笑顔を見せて首を振った。
「まさか。貴重な外部生を逃したくないしね。コンクールまでは時間もあるから今はまだそれほど切羽詰まってないんだ。説明くらいなんてことないよ」
「そうですわ、円華様。ぜひ、聞いていらして」
小田様も長い指を胸の前で組んで、熱心に誘う。
「それなら、お願いします」
「うん、こちらへどうぞ」
道堂様は、音楽室を案内しながら部活動の説明をしてくれた。
「部員は今、先輩方が卒業したばかりだから中高合わせて六十人弱かな。兼部してたり正式部員じゃない人とか、ピアノなんかのソリストで演奏会に入ってもらう人もいて、まあ概ね七十人くらいが演奏会に参加してる。今年もそれくらいにはなる予定だよ――順調に新入部員が入れば、だけどね。楽器は管より弦のが多めだね。今はパート練習の時間だからバラバラだけど……、金曜日には毎回全体合奏になる。土日は演奏会も多くて、文化部にしては忙しい方だよ。良かったら、土曜日に新入生歓迎演奏会をやるから聴きに来てよ。中高の一年生は無料だから」
そう言って、チケットをくれた。場所は学校の音楽ホール、となっている。
……音楽ホールまであるのね、この学校。
「外部の音楽ホールに比べたらこじんまりしてるけど、音響設備はちゃんとしてるし、古くて風情はあるよ」
「そうなのですか」
楽器ごとに練習する中をひとつひとつ案内してくれた。
「パートはざっとこんな感じ。楽器は持ってる?」
「いいえ。今は弾ける環境にないので」
「うん、新入部員はまったくの初心者もいるから大歓迎だよ。音はそれほど良くはないけど、部で貸出用の楽器もあるから、試しに弾いてみる?」
そうして、音楽室の隣の小さな部屋に案内された。おそらく見学者用に用意されているのだろう、楽器がずらりと並んでいた。
「管と弦、どちらに興味ある? 何か習ってたりする?」
「今は特に何も……」
いくつかケースを開けて見せてくれた。
ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、フルート、クラリネット、オーボエ、ファゴット、トランペット、ホルン、トロンボーン、チューバ……奥の方にはハープもある。打楽器も各種揃っていて、きちんとオーケストラができる種類が用意されていた。打楽器系で二、三見たことがないものもあったが楽器はヴァイオレットだった頃に見たことがあったものとほぼ同じようなものがある。円華の記憶と、名前もほとんど同じだ。
「欲を言うともう少し正式部員がいると、もっと幅のある演奏ができるんだけどね……。生徒数が限られてるから」
少し残念そうに言われると、お手伝いしたくはなるが、オーケストラと言うと相当な練習量が必要だろう。軽々しく「入ります」とは言えなかった。
しかし、楽器を眺めるのは楽しい。
いくつか見せてもらううちに、あるひとつのケースに目が止まった。
「ヴィオラ……」
「正解。楽器触ったことのない人だとヴァイオリンと区別つかない人もいるんだけどね。――弾いてみる?」
「よろしいのですか?」
「もちろん。そのための楽器だから」
はい、と道堂様は気軽にヴィオラと弓を私に渡してくれる。
深いチョコレート色の、ヴァイオリンよりは少し大きい弦楽器。
その重みが懐かしい感じがした。円華は一度も持ったことがないはずなのに。
――これは、ヴァイオレットの記憶、だ。
自然と顎の下に挟み、弓を構えていた。一音弾いてみる。
泣くような、繊細な、音。
「ああ……、悪くないね。なんだ、経験者か」
「いえ、少しやったことがあるくらいで……」
顎に挟んだまま、調弦する。合わせてくれてあるのか、ほとんど必要ない感じがした。
「音叉ならありますけど、鳴らしましょうか?」
「ああ……、ひとりで弾く時はいつも耳で適当に聞いて合わせてしまっていたのですが……、そうですね、お願いします」
いつも兄に適当だなあ、と笑われていたが、音楽家でもないし調弦に時間をかけるより早く弾きたかったのだ。ヴァイオレットの兄や両親が一緒に弾く時は、ちゃんと合わせてから弾いていた。小田様が鳴らしてくれたAに合わせて調弦する。
だいたい合うと、まずは開放弦を響かせる。
それから音階を一音ずつ弾いていった。
耳元で響く深い音。ヴィオラの音は好きだ。ヴァイオリンには出せない低音域は特に。
人の声に一番近い気がする。切なくて、優しい音。
「ヴィオラって、珍しいですわね。大抵、ヴァイオリンから入るものでしょう?」
小田様が小首を傾げて、おっとりと言った。私は兄とのやり取りを思い出して、苦笑する。兄はヴァイオリンだった。
「……家族が他の楽器だったので。家族内で四重奏をやろうとするとヴィオラが余ってしまって……。無理矢理選ばされたというか……」
「ああ、ありますわねぇ、そういうの」
「そういう小田様は何の楽器を?」
「私はチェロです」
「小田様の始めたきっかけが可愛らしいのですよ」
大原様がくすくす笑って付け足す。小田様がほんのり頬を染めて恥ずかしそうに呟く。
「あの……子どもの頃、チェロ弾きの童話を読んで……。次々やってくる動物たちにチェロを聴かせるのが、いいなあ……って」
小田様はすらりと背が高くて颯爽とした雰囲気があるけれど、恥じらう姿がマトリョーシカ三人組の中で一番乙女らしかった。上背もあって、腕も指も長い小田様に、チェロはよく似合う。
「へぇ、そうなんだ? 可愛いね」
道堂様が眼鏡の奥の瞳を細めてそう言った。
あら、日本人男性にしてはナチュラルに過ぎる褒め言葉。
握手にしてもそうだけれど、道堂様は気負わないで自然にそういう振る舞いができる人のようだ。
小田様が、カーッと赤くなる。――あら、可愛らしい。
もしかして、小田様、道堂様が気になっているのかしら?
頭のどこかで、円華が「ブラボゥッ」と叫んでいる気がした。なんなの。
……まあ、青春ね。よろしいこと。
「ねえ、円華様。何か弾いてみてくださらない?」
真中様がわくわくした表情で提案してくる。
「どうかしら……、ずっと弾いてないので指が動くかどうか……」
「ちょうどいい。僕も聴きたいな。ぜひ一曲」
「……下手でも笑わないでくださいね」
「もちろんだよ」
真剣に、こくり、と道堂様が頷いた。
私は軽く息を吸って、吐いた。
こちらの曲にはあまり詳しくはない。円華は管弦楽にあまり興味はなかったようで、有名な曲しか知らない。私はこちらの曲は一曲も弾いたことがない。音をなぞるくらいはできそうだが、聴かせられるほどではないだろう。そもそも、ヴァイオレットの記憶通りに指が動くかどうかもわからない。
――一番、指が覚えている曲は。
私は、ある曲を弾き始めた。
ヴァイオレット専用に作られた、ヴィオラの練習曲。
四重奏にもできるが、主旋律がヴィオラ、という珍しい曲だ。
「まあ……」
マトリョーシカ三人組の溜め息が聞こえた。
この曲、ヴィオラが出せる限りの音域をまんべんなく使って各種の技巧が入るように作られた練習曲なのだけれど、曲として聴いても印象的な曲なのだ。特に低音部の響きが美しい。私は好きだったし、練習の時は必ず弾いた。演奏として披露するにはどうか、とも思うが、一番馴染み深い曲だ。円華が一度も弾いたことがないのだから、まともに弾けそうなのはこれしかない。
だんだん盛り上がり、最後にもう一度、最初に弾いた印象的な旋律をゆっくり繰り返して、終わる。
弾き終えると、しばらくその場はしん、とした。
「……やっぱり、ずっとまともに弾いていなかったので、指があまり動きませんね」
仕方ない。円華の指では限界がある。ヴァイオレットも、最後の方は何ヶ月も楽器に触れない生活だった。運指を忘れていなかっただけでも良しとしよう。
しかし、パチパチと、マトリョーシカ三人組が拍手をしてくれる。いつの間にか部屋の入口に集まっていた人たちも拍手してくれた。
「いや、驚いたよ。えぇと、円華くん?」
「はい、紫野円華です」
「聴いたことない曲だけど、オリジナル? ごめん、不勉強で。ヴィオラのソロ曲はいくつか聴いたことがあるけど、今の曲は初めてだ」
「……誰もご存知ない曲だと思います。家に出入りしていた作曲家が、ヴィオラ用に作ってくれた練習曲で……」
ヴァイオレットの父の親友だった、あちらでは有名な音楽家だった人だ。ヴィオラの独奏曲があまりない、と私が言ったら作ってくれたのだ。よく、家で演奏会も開いてくれた、気さくで陽気な人だった。作る曲は不思議と、陽気な中にもどこか懐かしいような、胸が締めつけられる切ない旋律が入っていた。
「ああ、なるほど練習曲か。しかしあれだけの曲、有名な作曲家なんじゃないかい? なんて人?」
「無名の方なので、ご存知ないと思いますよ」
「楽譜あれば買い取るから、くれないかな? ヴィオラの練習用にすごく良さそうだ」
――まずい。楽譜なんてない。
「……楽譜はないのです。その方にももうお会いできないので譲ることもできません。私が覚えている範囲で弾くことはできますが」
「――そうなんだ、残念」
「拙い演奏をお聴かせして……」
「いや、確かに少し練習不足気味みたいだけど、元々の技術はしっかりしているね。毎日練習すれば、すぐにでも演奏会に出せそうだよ」
「ソロとオケはまた別なので、すぐにとはいかないと思いますけれど……」
「まあ、それは経験だから。やってるうちに楽しさがわかってくるよ。ぜひ入部してくれると嬉しいんだけど、どうかな?」
私はヴィオラを道堂様に返した。
「申し訳ございません。他にも見てみたいので、すぐには決められません」
「うん、そうか。まあ、まずは演奏会に来てみてよ」
「はい、ぜひ」
「小田くん、クラスメートなんだよね? 引き続き、口説いといてよ」
「はい! 私も円華様とぜひ一緒にやりたいですわ!」
「管弦楽部のことでわからないことがあったら、小田くんに聞いて。いい返事、待ってるよ」
しばらく練習風景を眺めた後、今度は大原様の所属する部活動へ向かった。
ヴァイオレットとヴィオラの思い出を番外編に書いています。
https://book1.adouzi.eu.org/n3902hi/1/
よろしければそちらもどうぞ。




