18 お嬢様、戸惑う
彼に囲い込まれるように、壁に背をつけて、私は身を捩った。
息遣いが聞こえるほど、近い。
なるべく彼から逃れようと、その囲いの中で顔を背けた。
「……なんの、真似?」
声が震えないように低く問うが、彼は答えない。そのまま、ひやり、とした長い指が私のうなじあたりの髪を梳く。そっと避けて露わになったうなじを凝視していた。
「……この、痣は?」
「痣?」
うなじのあたりに火が灯るのでは、というくらい見つめられた。
「この間、ぶつけてできただけよ」
「薔薇の、痣……」
彼がふっと息を吐いた。その顔が近づく。耳元で吐息のような囁きが響いた。
「……見つけた」
「え?」
何を言っているのか、と目を上げると、私のすぐ近くで彼はまるで泣き出しそうな顔をしていた。泣き出しそうな顔で――小さく微笑んだ。
『……お会いしとうございました、お嬢様』
掠れるような日本語ではない囁きが、届いた。
『ずっと……、お捜し申し上げておりました、我が君――ヴァイオレット様』
彼は私の目の前ですっと膝をつくと、恭しい仕草で私の右手を取る。
指先に触れるか触れないかの口づけ。
「……まさか」
『私の名をお忘れですか? あなたの忠実な僕、専属従者の私の名を』
「……やめて」
混乱した。
――彼は、何を言っているの?
聞き覚えのある、祖国の言葉。
日本語ではない、現代の英語とも少し違う、それ。
――なぜ、彼はそれを流暢に話しているの?
『どれだけお待ちしたことか。長い……本当に気の遠くなるような長い時を、過ごして参りました』
「やめて、ください……。手を、離して」
懇願すれば、逆にぎゅっと握り込まれた。
『なぜ? どうして離さなければならないのです? あなたの手を離したことを、私がどれだけ後悔したと思っているのですか?』
彼が立ち上がり、掴んだままだった私の腕を強く引く。ドサリ、と簡単にその胸に入りこんでしまう。そのまま、抱きすくめられた。
私は、怖くなった。
――本当に? この人が、彼だと言うのなら。
……私は。
「……離して」
『嫌です。……今、わかりました。初めてお会いした時、どうしてあなたを捕まえておかなければならないと感じたのかを。――今世でお会いできたのなら、もう、二度と離しはしない』
彼の胸に手をつく。
なんとか体を離そうとするが、できない。
「――やめて」
『嫌です』
『やめなさい、オスカー!』
思わず叫んだ私に、彼がびくり、としてその腕を緩める。
咄嗟に胸を強く突いて、逃れた。
「――やっと、名前を呼んでくださいましたね、ヴァイオレット様」
本当に嬉しそうに、でも泣きそうな目が私を捉える。
すっと、彼は、膝をついた。
「オスカー……。まさか、本当に、オスカーなの……?」
「はい。今はどうぞ、譲、とお呼びください。お嬢様」
――私が死に追いやった彼は、ふわりと微笑んで、そう言った。
「……で? 走って逃げてきたの? アンドレから」
「アンドレじゃなくて、オスカー」
「うん、わかってる。でも俺の中ではもうアンドレだから」
「……意味がわからないのだけれど?」
「姉ちゃんは、『胸キュン』以外も読めよ! 名作だよ!? ……ま、もう、いいや。あだ名だと思ってて」
「? うん……」
家に逃げ帰って、私が何があったか話すと、凌久は大きく溜め息を吐いた。
「……その人が、オスカーだって、間違いないの?」
「たぶん……。言葉は流暢だったし、私は何も言ってないのに『ヴァイオレット』って呼んだの」
「……一応訊くけど、俺以外に前世の話、誰にもしてないよね?」
「当たり前でしょう。こんな荒唐無稽な話。病院に逆戻りじゃない」
「だよね……。じゃあ、本物なのか……」
「たぶん。――ねぇ、凌久。明日からどうしよう? 同じクラスにオスカーがいるなんて」
私は混乱していた。
自分が前世の記憶を取り戻したことは納得していたつもりだった。
――でも、もしかしたら、どこかでこれは円華の痛い妄想なんじゃないかって、恐れてもいた。それが、自分以外にあの国の記憶を持つものが出てくるなんて。
「……その人、味方にできそう?」
「……わからない」
あの人はオスカーであって、オスカーではない気がする。上手く言えないけれど。
オスカーよりもずっと押しが強いような。
凌久が「うーん」と唸って難しい顔をした。
「姉ちゃん、ノートに書いてたよね。もしオスカーに会えたら一番に詫びるって。それからお礼を言うって。……本当はそれが、一番の望みだったんじゃないの? 平穏無事な生活より何より。それ、言ったの?」
私は黙り込んだ。
――だって、言えるはずがない。動転していたし。それに。
「……怖くて」
「オスカーが? そんなに怖い人だったの?」
「ううん、そうじゃなくて。――オスカーを殺したのは、私だから。オスカーがここにいるってことは、オスカーはし、死んだ……って、こと、でしょう? 私が殺した……!」
「姉ちゃん……」
私は声が震えるのを、抑えることができなかった。
これだけは、無理。
どんな絶体絶命な場面でも笑っていられるのが、私なのに。
――怖かった。彼に恨まれているのではないか、と思うと。
「どうして、そういう発想になるかな。直接殺したのは姉ちゃんじゃないでしょ? それに、殺されたとは決まってないじゃん。無事逃げおおせて大往生した挙げ句の転生かもしれないし。さがしてた、って言ってたんでしょ? 待ってた、って」
そう。でもそれは、違う意味にも取れる。
それほどの、恨みがあるのかもしれない。
「とにかく、どうにかして味方にするしかないよ。まずは仲良くなりなよ。……あ、ちょっと待て。人気者だったんだっけ? その人」
「そうね。そんな感じだった」
「じゃあ、あんまりおおっぴらに仲良くするのも良くない……? 不自然じゃなく仲良くなるには……やっぱり生徒会入るしかないんじゃないか?」
「えぇ? 嫌よ、だって『王子』がいるのよ?」
「本当の王子様ってわけじゃないんだろ? もう権力者と仲良くなっとけよ」
「えぇ……?」
「謝って、お礼言って、仲良くなって守ってもらえよ! だって、アンドレなんだから!」
「だから、オスカーだってば!」
凌久、目立たないって当初の目標は!?
生徒会なんて入ったら目立つじゃないの!
「ああ、俺もクリストフォロス行けたらもうちょっとフォローしてやれるのに……! とにかく! 姉ちゃん、ひとりで頑張るしかないんだよ!? 明日、必ずアンドレと話せよ!」
「だから、オスカー!」
凌久には話せ、と言われたけれど、翌日学校へ行くのが、気が重かった。
――ただ、入学二日目から休むわけにもいかない。
仕方なく歩き出したが――すぐ着いてしまった。だって、徒歩十五分なんだもの……。
見えてきた校門前に佇む人がいた。
――久遠譲、だ。
なぜ、校門にいるのよ!?
くるりと踵を返したくなったが、その前に彼に見つかった。
その目が遠くからでも私を捉えて、ふわりと微笑む。
「おはようございます、お嬢様」
幸いまだ早い時間だったから、それほどの人は歩いていない。
私は彼が目に入らないように、前を通り過ぎて校門に入った。
「待ってくださいよ、お嬢様」
長い足にすぐ追いつかれて、後ろから呼びかけられる。
仕方なく、足を止めた。
「……おはようございます、久遠様。その『お嬢様』、というの、やめてくれませんか?」
顔をしかめてそう言えば、何が嬉しいのか更に笑みを深める。
「やっと、お声を聞かせてくださいましたね。どうぞ、譲と、お呼びください」
私は、つん、と顎を上げた。
「あなたが私を紫野円華と呼ばない限り、私もあなたの名を呼びませんわよ」
「では、円華様。お荷物をお持ちいたします」
――全然聞いてない!?
「鞄くらいひとりで持てます。荷物持ちなど必要ありません。――なんの真似?」
いよいよ苛立ってそう言えば、彼はくすり、と笑う。
「僕はあなたの従者ですから」
私は頭を抱えた。
私たちを追い越していく生徒が不思議そうな目で私たちを見ている。
従者、と聞いてぎょっとした雰囲気の人もいた。
――これは、まずい。
「ちょっと、こっち来て……!」
私は、彼を桜の木の裏の方へ連れていく。
木に隠れるようにして、並木道からは見えないはずだ。
木を背にして、私は腕を組んで顎を上げる。彼を見上げなければならないが、なるべく下手に出ているようには見えないように。
「久遠様! やめてください、そういう態度。なんの真似か、と訊いているのです」
すると彼は少し笑って私に近づく。
「円華様、と呼んだら僕のことも譲、と呼んでくださる約束ですよ」
「約束じゃないわ! 様をつけて呼ばないで、とお願いしているの。あとその口調もやめて。みんなに変に思われるじゃないの!」
「ではあなたが僕の名を呼んでくださったら、やめましょうか」
「く……っ、ゆ、譲、様……」
近づいた彼はトン、と私の顔の横に手を置いて耳元に唇を寄せる。
――だから、なぜそんなに近いの!?
「おしい。様、はつけないで」
「ゆ、あ、あなた、譲って名前のくせに全然譲らないわね!?」
『本当にそうして欲しければ、どうかそう御命令を、ヴァイオレット様』
『では、命令よ、オスカー! その言葉遣いも敬称も人前でしたら許さないわ!』
急に言葉を変えてそんなことを言うものだから、思わず私も応えてしまった。
耳元でふっと笑う気配がする。
「……御意。紫野くん。明日からは家まで迎えに行きますよ」
そう囁かれた。
だから、いらないってば、そういうの!
全然わかってないじゃない!




