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15 お嬢様、迷う

「――そっちじゃない」


 びくりとして、掴んだ手の主を振り返った。

 ――こんなに近づくまで、気配に気づかなかった。

 足音さえ聞こえなかったのは、どういうことだろう。

 円華が鈍感なのか、それとも動転していたからか。

 女性のものとは違う、大きな手に腕を掴まれていることに困惑した。

 そこにいたのは、ひとりの男子生徒だった。

 不審そうに顰められた眉の下に、漆黒の瞳があった。こちらを訝しげに、苛立たしげに見つめていた。


「どこへ行こうとしてるんだ? 君、新入生だろう?」


 そういう相手もたぶん、新入生だ。

 聖クリストフォロス学院は幼稚園から大学まであるエスカレーター式の学校だが、高校までは制服があり、学校ごとに微妙にデザインが違う。目の前の男子生徒が着ているのは高校の制服だった。女子と同じ勝色かちいろで、ボタンではなくホックで留める詰め襟の制服。校章と並んで襟元に付いているバッジは一年生を表す『F』がデザインされたもの。

 同級生だ。


「外部生か。こんなところで何をしている?」


 私は人に出会えたことに安堵しつつ、なぜ知らない男の子に腕を掴まれたままなのだろう、と不思議な気持ちになった。


「――迷いました」


 正直に言えば、彼はやっと溜め息をつくように頷いた。


「気になって追いかけてきてみれば……、なんで、校内で迷子になるなんて器用なことができるんだい?」


 これだけ広ければ、迷うのは当たり前だ。ただ、そんなことより。


「あの……、離してもらえませんか?」

「え?」

「手を」

 

 私が言うと、相手は自分の手を見下ろして、少しだけ迷うような目をした。

 ――なぜ、迷うの?


「――この学校は、初めて会った女の子の腕を了承もなしに掴むような非礼を許しているのですか? 紳士ばかりが通うのだと誤解しておりました」


 なるべく毅然として言えば、彼は苦笑して手を離してくれた。


「……ああ、すまない。なんだか、捕まえておかないと、君がどこかに行ってしまう気がして。……どうして、だろうな」


 彼自身、自分の行動の意味がわからない、と少し首を傾げている。

 とりあえず、手を離してもらえたことにほっとした。

 彼は不思議そうに自分の掌を見つめた。


「校舎がどこだかわからなくなってしまったのです。教えていただけませんか?」


 私が尋ねると、彼ははっとしたように頷く。


「ホームルームが始まってしまう。急ごう。案内するよ」


 こっち、と言って先に立ち、道ではない草地に足を向ける。躊躇する私に彼は振り返ると少し笑った。


「普通に歩いてたら間に合わない。近道を教えるよ」


 今はこの人しか頼る人がいない。仕方なく頷いて、私も道の外に足を踏み出した。


「こっち。今なら近道を通れば、間に合うよ」


 私を安心させるように彼が微笑むと、それまでずっと厳しく見えた顔がふわりと優しくなった。

 私は、小走りに近づいて、その隣に並んだ。


「申し訳ございません。よろしくお願いします」

「うん」


 急ぎ足で歩きながらも、彼はさりげなく私の歩みに合わせてくれる。

 ――足の長さが違うから、彼が本気になったらたぶん私はあっという間にぽつん、と置いてけぼりになってしまうだろう。

 こちらも必死だ。遅れまいと鬼気迫る表情の私をどことなく面白そうに見下ろしてくる彼と、道中世間話をする。


「中学で生徒会役員だった者が、高校の入学式も手伝うことになっていてね。――ほら、中学・高校は共同で入学式だから。僕は中学で生徒会役員だったから片付けを手伝っていたんだけど、終わって戻ろうとしたら林の方へどんどん向かおうとする子がいて気になって」

「ああ……、それはお手数をおかけしました……」


 見つけてくれて良かった。

 でなければ今頃私は校内で遭難する、という初日に大目立ちなことになっていただろう。――平穏無事な学校生活が、目下の目標なのに。

 彼はくすり、と笑う。

 ――笑うと、十五歳らしい雰囲気になった。最初、厳しい表情をしていたので、もっと年上に見えたのだ。私にとったら十五歳は年下だ。その笑顔を可愛らしい、と思ってしまう。

 ……うん、この人、笑っていてくれる方が安心する。


「自信を持って歩いているように見えたから、何かの目的があるのかと思った。ただ、初日からホームルームをさぼられても困るからね。つい引き止めてしまったよ」


 そんなに自信満々に見えただろうか。……ああ、いや、オスカーにもよく言われたわ。迷いなく目的地へ向かっているように見えるから、声をかけそびれるところだった、と。

 ――成長していないわね、私。

 恥ずかしくなって、うっすら赤くなると、彼はさらに面白そうに笑った。


「――そういう人をひとり知っているよ。なんで、方向音痴の人って、そんなどんどん歩いちゃうんだろうね?」

「本人は迷っているつもりがないからです」


 私がきっぱり言えば、彼はその返答に軽く吹き出した。


「なるほど……」


 そんな風に歩いていたら、急に目の前が開けた。

 いつの間にか林を抜けて、中庭、という風情の広場に出ていた。


「ほら、あの赤い屋根が高校の校舎。……見える?」

「はい」


 入口も見えているから、さすがに私も迷いそうにない。

 ほっと、息を吐いた。


「間に合いそうだね。――中も案内しようか? 校舎は複雑とは言い難いけど、いくつか曲がるポイントがある」


 心配そうに言われたが、入学式前に一度立ち入っているので、たぶん間違えないと思う。


「大丈夫です。ありがとうございました」


 私はぺこりと頭を下げた。


「どういたしまして」


 靴を履き替え、そこで別れようと思ったら彼も同じ方向に足を向ける。


「あの……ひとりでも大丈夫ですわよ?」


 すると、彼は少し肩を竦めた。


「どうやら、同じクラスらしい」

「……え」

「靴箱が」

「ああ……」


 彼は歩き出しながら、くすりと笑った。


「教室までご案内しよう、方向音痴さん」

「……できれば、その呼び方は」

「じゃあ、名前を訊いてもいいかな? ――僕は久遠(くおん)(ゆずる)

「私は紫野円華と申します」


 私が名前を告げると、彼は驚いた目で私を見た。


「ああ……、君が紫野くんか」


 私は少し首を傾げてしまう。


「私の名前をご存知なのですか?」

「うん。生徒会役員なら」


 その返答の意味がわからず、私はさらに首を傾げた。

 だが、彼は軽く笑うだけだった。

 そのまま、私がこれから一年過ごす教室の前まで来た。

 教室の外にもまだ生徒が幾人かおり、鐘も鳴っていない。

 ――どうやら、ホームルームに遅刻することなく間に合ったようだ。

 彼が開けてくれたドアを会釈して通る時、彼が尋ねた。


「――放課後、時間あるかな? もしよければ、少し話したいことがある」


 今日は、ホームルームが終われば終了だ。午前中のうちに家に帰ることになる。

 特に用事もなかったから、不思議には思ったが頷いた。


「……特に用事はございませんから、構いませんが……」


 ただ、初対面の相手になんの用だろう。――と言っても、向こうは私の名前を知っていたようだった。

 ――なんの話なのだろう。

 私が頷くと彼は心なしか安堵したように息を吐いた。


「そう、良かった。なら、後で」

「えぇ」


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