〈閑話〉母さん、娘を見守る(1)
――私の職場はいわゆるブラック企業だ。
入院した十五歳の娘の退院に、親が付き添えないとはどういうことだろう。
急な休みをどうしても取れず、その日出張を外せなかった夫の航くんも行けず、十二歳の息子に付き添ってもらったことは、母親としてもう情けない、としか言えない。しかし、正社員でもなく、クビをちらつかせられればどうしても、とは言い出せなかった。高卒のアラフォー女が、次の就職口を探すのはなかなか厳しい。この先二人の子どもの将来のことを考えると簡単に辞める、とも言えなかった。
息子の凌久は、おかげでどんどんしっかりしてきてしまっている。まだ無邪気に遊んでいていい年なのに。
夫が高卒とはいえ、市役所勤務の公務員なのに、なぜそんなにお金に困っているかは、実は私たちには借金があるからなのだが――その辺りはまた別の話になるので割愛する。
とにかく、私が情けない母親である、ということに変わりはない。
その日も当然定時では帰れず、サービス残業をこなして家路へ急ぐ帰り道、携帯電話のメールに、千代さんから「連絡が欲しい」と入っていたので、駅から自宅への道すがら電話をしてみた。
「アルバイト?」
『そうなのよ、澪さん。円華ちゃんが、やりたいって。こっちは助かるんだけど、どうかな?』
蛍ちゃんの母親である千代さんは、長女の円華が保育園に入った時からの付き合いだ。千代さんは蛍ちゃんそっくりの細身の美人で、お好み焼き屋を切り盛りする女将さんらしく、豪快でさばさばした人だ。お兄ちゃんの純くんがいる分、子育ての先輩として頼りにしている。両親が早くに亡くなり、頼れる人がいない私にとって、少し年上の千代さんは本当に頼りになる姉のようなお友達だった。
「円華がそんなことを?」
驚いて問い返せば、千代さんは少し困ったように電話の向こうで笑った。
『円華ちゃん、中学卒業したら、なんだか急に大人びちゃったわね。うちでお夕飯食べたりするの申し訳なくなっちゃったみたいで。何か手伝うことはできないか、って言われて……。そしたらホラ、うちのバカ息子が余計なこと言うから。『じゃあ、バイトすればいんじゃね?』とかなんとか。気にしなくていいのにねぇ。なんだかちょっと寂しくなっちゃったわ』
高校生にもなったらお小遣いだけではいろいろと足りなくなるだろう。ましてやクリストフォロスだ。友人同士の付き合いにお金がかかるようになることは予想がついていた。アルバイトをしたい、と言われればクリストフォロスの校則が許すならば構わない、とは航くんとも話はしていた。私だって、高校一年生の頃からアルバイトはしていたし、それに関しては問題ないと思っている。
むしろ、どんなところかわからないところでやるより、千代さんのところでやってくれるならそれは安心だ。
『ただねえ、うちお酒も出したりしてるからね。常連客は良い人ばかりだし、変な客はうちのが叩き出すからその辺はあんまり心配しなくても大丈夫だとは思うんだけど、航さんともよく話し合ってみてくれる?』
「ええ、連絡ありがとう。航くんとも話してまたお返事するわ」
『うん、よろしく。本当、うちとしたら来てくれたら助かっちゃうんだけど。円華ちゃんの学校の負担にならない程度で良ければ。円華ちゃんともよく相談してね』
「ええ、そうしてみる」
『あ、それと、なんだかうちの子が好き放題したみたいでごめんね』
「え?」
『蛍よ、蛍。円華ちゃんの髪切ったり、いろいろ。でも、こうして見ると円華ちゃん、やっぱり航さんにそっくりねぇ。血は争えないわね」
「円華の髪、切ってくれたの? 蛍ちゃんにもお礼を言っておいてくれる?」
『いいのよう、そんなの。あれがあの子の趣味なんだから。また切らせてやってよ』
「本当、お世話になっちゃって。また、お礼するわね」
家に戻ると、確かにびっくりするほど綺麗になった娘がいた。
「母さん、お帰りなさい」
凌久が『ちよ』のお好み焼きを温め直したものや、昨日の夕飯のおかずの残りなどを食卓に並べてくれる。
航さんも一足先に帰っていたようで着替えて食卓についたところだった。
とりあえず手を洗い着替えると、私もそのまま夕食にすることになった。
凌久と円華は『ちよ』で先にご飯をいただいてきたから、お茶だけ卓袱台に並べ、二人して私たちの前でにこにこしている。
「ねえねえ、父さん母さん、姉ちゃんどうどう? すげぇよな!?」
わくわくしたように凌久が言うので、私も頷く。
「ええ、円華。綺麗にしてもらったわねぇ。蛍ちゃんがやってくれたんでしょう?」
「いや、さすが僕と澪さんの娘。美人さんになったなぁ……」
円華は、はにかむように微笑んでいた。
こんな円華はいつ以来だろう。いつからか、お洒落に興味を失ったかのように――いや、それらの一切を拒否するように髪を伸ばし、眼鏡をかけ始めたのは。理由を問い質しても、頑として言おうとはしなかった。
私は本人がそうしたいなら、それでいいと思っていた。それは何かしらの防衛手段だったのだろうから。
円華には一度こう、と決めたことは何があっても覆さない頑固なところがあった。それはただの我が儘ではなく、円華なりの一本芯の通った理屈に基づいていたから、円華が決めたことなら反対はしない。
頑なだった円華が、どこか変わったように思う。……まるで、別人にでもなってしまったように。
こうして改めて見ると、円華は本当に航くんによく似ている。実は、航くんには内緒だが、彼の古い友人に一度だけ高校時代の学園祭の写真を見せてもらったことがあった。出し物で女装した航くんだ。――絶世の美少女だった。あの写真をふと思い出す。あの美少女にそっくりだった。
上品に微笑む円華が、聖クリストフォロス学院の制服を身にまとったら、本物のお嬢様に見えてしまうだろう。
――見えて、しまう?
ふとよぎった不安に、私は娘がどこか遠くに行ってしまったような気になった。
……おかしい。私の娘は、すぐ目の前にいるのに。
「父さん、母さん。私、アルバイトしてもいいかしら?」
微笑んだまま、円華はそう訊いてきた。
「アルバイト?」
航くんが聞き返した。
話しておく暇がなかったので、航くんは知らなかったのだ。この場で千代さんからされた話をかいつまんでする。
「私は構わないと思うけれど、航くんはどう思う?」
「円華はどうしてアルバイトしたいの? そこをまずちゃんと聞きたいね」
航くんは円華にそう訊く。
「蛍のお家にはお世話になってばかりなのに、何もお礼ができないから。アルバイトでお礼ができるか、わからないけれど」
「うーん、円華の家事能力でお好み焼き屋さんで役立つのかどうかだけど……。仕事としてちゃんと教われば何とかなるのかなぁ。どう? 澪さん」
「そうねぇ」
円華は家事の才能が一切ない。だが、やればできる子なので、航くんの言う通り、仕事としてならうまくやれるのかもしれない。……たとえ最初はこなせなくても、執念でやり遂げてしまうようなところがこの子にはあった。クリストフォロスにしてもそうだ。奨学金を受けられる特別特待生の枠は僅からしいのだが、本当にやり遂げてしまったのだから。あの難関校の試験を潜り抜けて。
「それに、お金はいざと言う時、必要だから。少しづつでも、自分で自分のお金は稼いでおきたいの」
円華は当たり前のように言うと、綺麗に微笑んで小首を傾げた。サラリと、髪が揺れる。
――確かに。千代さんの言うように、こんなに大人っぽい子だったろうか……?
「若いうちから働くことはいいことだとは思うよ。だけど、入学して落ち着いて、きちんと学校に確認してからにするんだよ。クリストフォロスの校則だと、アルバイトは学校の許可がいるんじゃないかな?」
「ええ、それは、もちろん。きちんと確認します」
「うん。あとね、クリストフォロスは学費免除の特別特待生で入っているからね。成績が維持できないと、特待生を外されてしまう。それはわかっているね?」
「はい。成績は落としません」
「学業優先ってことだね。その上で円華が自分で判断して、アルバイトも千代さんたちにきちんと迷惑をかけずできる、って言うなら僕は反対しない。……どう? 澪さん」
「うん。私もそれでいいと思う」
「ありがとう、父さん、母さん」
「じゃあ、私、千代さんに連絡しとくから。円華も自分で改めて挨拶しときなさいね」
「はい」
夕食も終わり、私がお茶を淹れている間に凌久が手早く片付けをしてくれる。
凌久、という子は昔から手がかからない子で、それだけでなく、とてもしっかりした器用な子だ。うるさく言わなくても自分から手伝いをしてくれて、今では私のかわりにずいぶんたくさんの家事を引き受けてくれている。円華がまったくそういうことをしない子だから、なおさらやるようになってしまったようだ。仕事の忙しさにかまけて、つい頼ってしまう。
さっさと片付けると子どもたちは部屋へと引き上げていった。何やらこそこそ相談している。別に今までも仲が悪かったわけではないが、円華が退院してからというもの、ずいぶんと話している姿を見かける。何かあったのだろうか。
深夜、眠る前に子ども部屋を覗くと、二段ベッドの上下で、娘と息子は静かに眠っていた。下の段に眠る円華にそっと近づいた。
髪を切って眉を整え、長年はっきりと見せていなかった航くん似の素顔が穏やかに眠っている。白い額にかかる髪をそっと撫でた。
円華が意識不明で救急車で運ばれた、と連絡を受けた時、本当に心臓が止まりそうになった。居てもたってもいられない気持ちでじりじりと数日過ごし、無事に目覚めた我が子に、おかしなものだが、時折違和感を覚える。
――まるで、別人になってしまったかのような。
円華と凌久がまだ小さかった頃、寝物語に読み聞かせた西洋のおとぎ話をふと思い出してしまう。妖精に取り替えられてしまった子どもの話。
――どうかしている。そんな話を思い出すなんて。
「澪さん……? そろそろ寝ないと」
部屋の襖をそっと開け、囁きながら航くんが部屋に入ってくる。私の後ろから子どもたちを覗きこんで、ふっと笑った。
「なぁに?」
私も囁くように航くんを振り返ると、彼はくすり、と笑う。
「うん、僕らの子どもはいくつになっても相変わらずかわいいなぁ」
二段ベッドの上の段の凌久にキスし、下の段の円華の額にもキスした。
「起きちゃうわよ」
ちょっと彼を睨めば、悪びれずそっと髪を撫でている。
「……ん? 円華、泣いてる?」
航くんの囁きに円華を見れば、その閉じた目からつ、と涙が零れ落ちていた。
そっと拭うと、円華がぼんやり目を開ける。
「かあ、さん……?」
「円華、怖い夢でも見た?」
焦点の合わない眼差しがベッドサイドの私たちに向けられた。
私たちを認めると、はっきりと目を開ける。
「……母さん。大丈夫、心配しなくても。私、ちゃんと、やるから」
思いのほかはっきりとそう言って、すっとまた目を閉じた。
「……円華?」
そのまま、すぅっと寝息が響く。
「アルバイトのことかな……?」
不思議そうに呟いて首を捻りながら、航くんは隣の部屋に戻っていく。
私もその後に立って、そっと子ども部屋を出た。
航くんが敷いてくれた布団の隣に潜り込むと、航くんが隣の布団から手を伸ばして私の手を握ってくれる。
「澪さん、何か不安?」
隣を向けば、夜目にも航くんの微笑んだ顔が見えた。
「……円華。……本当に、クリストフォロスで大丈夫かしら?」
一瞬、円華が別人になってしまったような気がする、と口走りかけたが、別の不安だけ口にした。
私の手を握る航くんの手に、キュッと力が入る。
「……大丈夫。円華なら、うまくやれるよ。だって、僕らの子だよ?」
そっと引き寄せられたので、航くんの布団に潜り込むと、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「澪さんは心配性だなあ。大丈夫だよ、何があっても僕が守るからね」
「うん……」
優しい暖かさと香りに、安心感が出て眠りに落ちた。




