〈閑話〉凌久、姉を信じる
夕食の後、風呂に入り、上がってきたところで、姉ちゃんが待ち構えるように仁王立ちになっていた。
「凌久、書いたわよ」
姉ちゃんから、一冊のノートをばさり、と渡された。
「は? 何これ?」
「何って。あなたが小説にでも書けって、言ったのでしょう?」
「……小説?」
中をぱらぱら見ると、びっしりと字が書き連ねられている。
ノート一冊分だ。
確かに、昨日今日と、大好きな『胸キュン』も読まずに延々と机に向かっている、とは思っていたけど。てっきり、高校の予習をしているのかと思っていた。まさか、小説を書いていたとは。
そして、たった二日でこの超大作。
――ウチの姉は、なんなのだろう。
頭の部分を読んでみた。
「うーん、姉ちゃん……。これは、小説じゃなくて、日記か自伝とも言うべきものだよ」
「……そう? まあ、せっかく書いたから凌久にあげるわ。好きにして。読めば、私がどういう人間なのか、少しはわかると思うから」
「う、うーん、ならもらっとく。読んでみるよ」
そして俺は波乱万丈なヴァイオレット・フローレンス・ピアモントという公爵令嬢の数奇な人生を知ることになった。
ヴァイオレットという人は一言で言うなら高潔、かな。
裕福なことをただ享受しないで、それに伴う意味や重責をよく理解している人だ。自分の望みなんて、誰にも口にしない。ただ、やるべきことをやる。なんというか、男らしいのだ。いやこれはもう漢、だ。
……俺は、読みながら泣いた。
日記か自伝、とは言ったけど、その文体は客観的で冷静な、まるで何かの報告書のようにも読める。辛い、とか悲しい、とかの感情はほとんど出てこない。ただ、淡々と起こったことを書いている。
なのに、俺は泣いてしまった。
「な、何泣いてるのよ、凌久」
風呂から上がって部屋に戻ってきた姉ちゃんが俺を見てぎょっとしたように言った。
「だ、だって姉ちゃん……いや、ヴァイオレット様……! オスカーがオスカーが……!」
「あ、あぁ……うん、そうよね……そこだけは私も冷静には書けなかった」
「オスカルの家にはちゃんと、アンドレが……!」
「? 誰? オスカルとアンドレって。そんな人出てこないでしょう?」
「いや、ヴァイオレット様がオスカルで、オスカーがアンドレだよ……!」
「オスカーがオスカル?」
「ちがうッ……けど、もういいよ、それはどっちでも!」
「うぅん……?」
不思議そうに首を傾げる姉の髪はびしょびしょのままだ。
この人は髪を洗ったらドライヤーをかける、という行為も忘れてしまっているらしい。
読んでみてわかったが、ヴァイオレットという人はものすごいお金持ちだ。
かしずく人がわんさかいるのだ。髪を洗うのも乾かすのもすべて周りの人がやってくれるらしい。
とりあえず泣きながら、俺は洗面所からドライヤーを持ってきて、姉ちゃんの髪を乾かしてやった。
ぶおおぉ……という音にはビクリとしていた仕草をしたが、まるで大型犬みたいに穏やかな顔で気持ち良さそうに髪を乾かされている。
目覚めてからというもの、日常のあれこれにいちいち姉は驚いているようだ。
そして、ひとつひとつ常識を身につけているように見える。
「り、凌久! で、電子レンジとは魔術ですか!?」
とか。
「り、凌久! テレビすごい! いろいろなところが映ってる!」
とか。
「り、凌久! パン! このパン、ふわっふわ……ふわっふわだわ! どうして!? どうして固くないの!?」
とか。
いちいち驚いては訊いてくる。特に食べ物に対しては何を食べても美味しいと言って恍惚とした表情をする。
……大丈夫だろうか、と少し心配になったが、だんだん現代日本の生活にも慣れてきたらしい。すごい勢いで日常生活の仕方を吸収しているように見える。
まだひとりで外に出すのは少し不安だけど。
一応、クリストフォロスまでの道順は一緒に歩いて教えた。
さすが、姉ちゃんだけあって記憶力もすごい。一度で覚えた、と自信満々で胸を張っていた。
だいぶ、普通の人っぽくはなってきたのだ。
話していると所々、忘れているところもまだあるようだったけど。
これなら入学式までにはなんとかなりそうだ、と思った。
大型犬みたいな姉の髪を乾かし終わる頃、俺もやっと少し冷静になった。
ヴァイオレットの人生は常に婚約者の王子に振り回される日々だった。
婚約者だった頃は、怠惰で浪費しがちな王子に王とは何かを説き続け、浮気性でふらふらしがちな王子の後始末をして回り、近づく不届きな令嬢たちを圧倒的な知識や振る舞いで黙らせ、周囲に油断なく目を光らせる――そんな、日々。
すごいお金持ちのお嬢様だった人が、婚約破棄されて、それだけじゃなく、いろいろな犯してもいない罪を着せられ、貧しい農婦に身を扮して逃亡するあたりは本当に泣ける。……ヴァイオレットは断罪されることを恐れて逃げたんじゃない。少しでも残される国民に救いの手を伸ばすために最期まで足掻いたんだ。自分の望みなんかひとつも口に出さないで。それなのに、あの最期。
毅然として、顔を上げて。
――言い訳をせず、真っ直ぐ笑う姿がなぜだか目に浮かんだ。
自分の辛いことなんて、少しも話さず、さっさとひとりでなんでも決めてしまう。
その姿は、なんだか姉ちゃんに似ていた。
姉ちゃんという人は辛い、というのを口に出さない人だった。
ある日突然、伊達眼鏡をかけて髪を伸ばし始めた時も、きっと何かあったはずなんだ。高校だって、ひとりでクリストフォロスに行くって決めてしまって、猛烈に勉強して本当に実現してしまった。
冷たいように見えて、俺の頼みごとは結局聞いてくれるし、失敗もフォローしてくれる。
どこか、ヴァイオレットに似ていた。
……当たり前か。だって、この人姉ちゃんなんだもんな。
ヴァイオレットの記憶がなくたって、ヴァイオレットの魂は姉ちゃんとして生きてきたんだ。別の人であって、別の人ではない。
それが、やっと読んでいてわかったような気がした。
これがたとえ、全部姉ちゃんの痛い妄想なんだとしても。
それを「全部妄想だったわ」と姉ちゃんが言わない限り、俺はこの人を信じようと思う。他の人が「頭がおかしくなった」と思ったとしても。
俺だけは全面的に味方で、最後まで信じる、と決めた。
それはヴァイオレットの人生に敬意を抱いたためでもあるし、単にファンになったからでもあった。
だけど、一番はやっぱり、この人が俺のたったひとりの姉だから、だ。
――俺だけは、誰がなんと言おうと、姉ちゃんを信じる。
「ねえ、姉ちゃん。あれ、俺が小説にしてもいい?」
「うん? あれって?」
「姉ちゃんがくれた、ヴァイオレットの人生」
「ああ……。いいわよ。あれは凌久にあげたものだから。好きにして」
「うん、じゃあ、そうする」
「ただし、もし出版されたりしたらアイデア料としていくらかもらうわよ」
「え!? 何それ!? それ、好きにしていいって言わない!」
「えぇ? 当たり前でしょう? 内容には口出ししないけど、もらうものはきちんともらうわよ。だいたい凌久は私に借金が……」
「わー!」
毅然と言い放った姉は、お嬢様のくせに金にがめついです……。
で、でも、そんなことでは幻滅したりしないし、お、俺は姉ちゃんをし、信じる……! 心は折れてるけど……!
いつか、名作書いて姉ちゃんに贅沢させてやるんだ……!




