9 お嬢様、お宅訪問する
雑誌の研究を終えて、おいしいお弁当を堪能し、お弁当箱を洗った。
スポンジに食器用洗剤を少しつけて……って、この食器用洗剤というもの、なんなのですか……!
ま、魔術のように汚れが取れる……!
油汚れも、キュキュッとしちゃう!?
怖い……、なぜ、こんなに汚れが落ちるのですか……!?
こんなものを人間が作り出せるのですか……!?
……なんて、驚愕しながら、洗った。
――ふふふ。さすが、私。ちゃんと、洗い物もできたわ。
凌久は三時くらいには帰ると言っていたので、それまで『胸キュン』をもう一周読み直して、また号泣していたら、帰って来た凌久に呆れられた。
手早く洗濯物を取り込んだ凌久が、自分の弁当箱を洗おうと台所に行って、驚いたように声を上げた。
「ね、姉ちゃんが洗い物をしてある……!?」
「ふふふふ。優秀なわたくしならそれくらいできて当然よ。さあ、存分に褒めなさい、凌久!」
「急に悪役令嬢らしくなったな? これなら、家事少しずつ覚えさせられるかも……? あ、俺の負担が減る……!? すげぇ、姉ちゃん! いや、ヴァイオレット様!」
「おーほほほほっ! 敬うがいいわ!」
なんていう悪役令嬢ごっこを一通り楽しむと、蛍の家へ向かった。
蛍の家はアパートから歩いて五分もしないくらいの場所のはずだった。雑誌の袋を抱えた凌久と一緒にてくてく歩いていく。道順を思い出しながら、忘れないように覚えていく。
「……ここ、家?」
私は思わず呟いてしまった。辿り着いたのは一軒のお店だった。
暖簾がひらひらと揺れている。和風の店構え。ひらがなで『ちよ』と暖簾にある。店名だ。
「そう。覚えてない? 蛍ちゃんちは、お好み焼き屋さんだから」
言いながら、凌久が店の入り口の引き戸に手をかけ、ガラガラガラ、と開いた。
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ! ……おう、凌久ちゃん!」
野太い声が響いた。
凌久がぺこり、と頭を下げる。私もその後に続いて入った。
「あ、円華ちゃん!? 退院したんだってな! もう、出歩いて大丈夫なのかい!?」
「こんにちは。大丈夫です。もう、すっかり。昨日はお好み焼き、ありがとうございました。とても美味しかったです」
出てきた中年男性――蛍のお父さんは、私がそう言うと一瞬、不思議そうな顔をした。
「……なんか、円華ちゃん雰囲気変わったな? おしとやかになったっていうか……」
凌久が慌てて私の前に出た。
「おじさん! 姉ちゃん、お金持ち学校に入るから、今、言葉遣いとかそれっぽく練習してんの! よ、良かったな、姉ちゃん、『おしとやか』だって!」
「そ、そうね……おほほ」
円華ー! 本当に普段どんな娘だったの!?
今のが駄目って! 割と普通っぽくしたつもりだけれど!?
……庶民って難しいわね。
「そうかー、さすが円華ちゃんだなぁ。ちょっと待ってて、今、蛍呼ぶから。――おーい、蛍ー! 円華ちゃんと凌久ちゃん来たぞー!」
おじさんは、店の奥から二階に向かって大声で蛍を呼ぶ。
お好み焼き屋『ちよ』は一階が店舗で、二階が住居スペースになっている。
おじさんが呼んですぐ、蛍が二階から降りてきた。
「円華ちゃん、凌久くん、いらっしゃい! 二階でやろう。上がって」
笑顔で手招きされて、私と凌久はおじさんに会釈して店の奥に向かう。
「お邪魔します」
「おう、ゆっくりしてけよ!」
靴を脱いで上がり、すぐのところにある狭い階段を上って、二階へ行く。
階段を上がると、すぐにキッチン付きのリビングダイニングがあり、店舗の真上に当たる南側には二部屋あった。住居部分の間取りは、うちとそれほど変わらないが、広いリビングと続きの和室がある分、あの狭いアパートよりもずっと広く感じた。
「凌久くん、重かったでしょう? 荷物は私の部屋に置いてね」
ふたつ並んだ部屋の左手のドアは開け放たれていた。蛍は閉まっていた右手のドアを開ける。
蛍の机はすぐにわかった。凌久が持ってきた雑誌と似たような雑誌が積み上げられ、可愛らしいたくさんのコスメが並べられている。
円華の殺風景な実用重視の勉強机とだいぶ違う、女の子らしい机だった。……ファッション以外の勉強はあまりしていなそうだけれど。
部屋に入る時に、ちらりと隣の部屋が見えた。
そちらも作りは同じだったが、置いてある洋服や暗めの色合いのベッドなどから、どうやら男性の部屋のようだった。――兄弟がいるのだろう。
部屋の隅に荷物を置かせてもらうと、中央に置いてあったガラステーブルに案内される。クッションが四つあり、好きなところに座るよう言われた。
私は黄色いクッション、凌久は水色のクッションに座る。
蛍がお盆にジュースを注いだグラスを三つ乗せて戻ってくる。
「円華ちゃん、具合どう? 出歩いて大丈夫?」
私の前にジュースを置いてくれながら、蛍は心配そうに言った。
「少し疲れていただけみたい。よく寝たから大丈夫よ」
ほっとしたように蛍が笑う。
「そうなの? 良かった~。もう、昨日はびっくりして。みんなが『大丈夫』って言ってくれてたけど、やっと安心したよー。――じゃあ、思う存分、今日はやって大丈夫だね!?」
「うちの姉をよろしくお願いします」
私より先に凌久がぺこり、と頭を下げた。
「よーし! 楽しみー! やっと、円華ちゃんの髪が切れるよ! それで、どんな感じにしたいか、決めてきた?」
「あ、蛍ちゃん、清楚なお嬢様系にしてね」
だから、なぜ凌久が先に答えるの。
「もちろんだよ! 聖クリストフォロスっぽくするよ! 円華ちゃん、長さはどうする?」
私は雑誌の中から、目についた女の子の写真を指差す。
「これくらい、かしら」
ストレートで、背の中ほどくらいまで流れる長さだ。
短いのも可愛いとは思うが、貴族令嬢というものは髪を長く伸ばすものだったから、いきなり短いのは落ち着かない。
「ふんふん。毛先揃えるくらいね。――前髪は切っていい?」
「ええ。前がよく見えないから」
「おおー! やっと! やっと切れる……!」
蛍が喜びに打ち震えるように、ふるふると肩を震わせた。
「蛍ちゃん、パーマもカラーリングもダメだからね。クリストフォロスの校則で禁止されてるから」
私が指さしたのが、明るめの色合いの女の子だったので、凌久が横から口を出した。
凌久、なぜ人の学校の校則まで把握しているのよ。
しかし、蛍は気にしていないようで、大きく頷いた。
「ん、わかってる! 清楚なお嬢様はやっぱ黒髪だよね! おお、わくわくしてきたぞー! じゃあ、まずはシャンプーからね!」
「シャンプー?」
「……姉ちゃん、シャンプーは髪を洗う石鹸だよ」
こそっと凌久が耳打ちするが、私は苦笑した。
「……さすがにそれくらいはわかってるわよ」
ただ髪を切るだけだと思っていたから、そんなことまでやるのか、とびっくりしただけだ。
「ふふふ。円華ちゃん、まだあのどこで売ってるかわかんないような、やっすいリンスインシャンプー使ってるんでしょう? その、バッサバサの髪を真のヘアケアでしっとりサラサラ、うる艶にしてあげるわ! カットはその後よ!」
「うるつや……?」
うるつやとはなんぞや、と思ったが、ケアしてくれるというならお願いしたい。このパサパサの髪がシャンプーの質のせいなら、なんとかなるのだろうか。
「じゃ、洗面所にお願いします!」
リビングの奥にあった、洗面所に連れて行かれ、その前に設置された椅子に座るよう指示される。
首回りにタオルとつるりとした――これは、たぶん、ビニール素材のものを、濡れないように巻いてくれる。
「蛍ちゃん、本格的だよね、その首に巻くやつ。俺、切る時もやってくれるよね」
凌久は蛍に髪を切ってもらっていたようだ。興味津々で覗き込んでくる。
「ネックシャッターね。安いのだとネットで千円ちょっとで買えるよ?」
「へー」
「専用の椅子も洗髪台もないから、ちょっと大変だと思うけど、我慢してね。はい、洗面台に背を向けて座ってー。首、ここに乗せてね」
洗面台の縁に頭を乗せるようにして寄りかかる。ヴァイオレットだった頃、風呂で侍女に髪を洗ってもらっていたことを思い出す。よく、広い浴槽に浸かりながら、その縁に頭を凭れさせて、長い髪を洗ってもらったものだ。
この家の洗面台は蛇口を引っ張ると、それが伸びる仕組みになっているようだ。
「その、伸びるやつ、いいよね。掃除楽そうで」
「これ、割と普通みたいだよ? うち、ほら、ちょっと前にリフォームしたじゃない? あの時お願いしてつけてもらったんだよねー」
「蛇口伸びると洗面台の端っことか流すの楽そうだよね。うちのアパート、古いからなー。そういうの、ついてなくて」
凌久が主婦のようなことを言う。十二歳の少年の発言として、正解なのだろうか?
「リフォーム前のうちも大概だけどさ、円華ちゃんちのアパート築四十年? 五十年だっけ? 平成通り越して昭和だもんね……。レトロっていうかなんというか……」
蛍がぬるめのお湯で、優しく髪を流してくれる。……気持ちがいい。
「凌久くん、そこのシャンプーとってー」
「はい。……おお? これは、見たことない銘柄だけど、いかにも高級そうなシャンプー! 美容院のヤツ!? も、もしかしなくても千円以上するよね!? 豪華、蛍ちゃん!」
「ふふふ、凌久くん。お金というものは使う時は使うものなのよ! 代わりに家で延々働かされるけど!」
蛍がポンプのボトルからシャンプーを出し、濡らした髪を優しく泡立てていく。
ゆっくり洗うと流して、今度はコンディショナーというものをじっくり馴染ませてから、洗い流した。
――少し、首がくたびれてきましたよ、蛍……。
「まだまだ、ここからが本番よ、円華ちゃん! 次は、私もめったに使わない、美容院で手に入れた、トリートメントを投入!」
じゃーん、と言って、私の目の前にクリームの容器のようなものを見せる。
――あ、円華の頭が理解することを拒否している。
いえ、わたくしはわかりますよ。髪のケアに良いというクリームも使ったことがありますわ。女性の美容に果てがないことは充分、理解しております。
……でも、もう疲れてきちゃったの、本音は。
ぐったりしてきたが、おとなしく蛍のやりたいようにやってもらうことにした。
「強力補修トリートメントを馴染ませてー、はいこのまま十分待ってね」
え、待って! この体勢で十分!?
「我慢してよー、綺麗になるためよ?」
わかってる……わかってるけど、ツライ!
ああ、美をサボるとこういうことになるのよ、円華!
凌久と蛍は楽しそうに髪の話などして飲み物を飲みながら、ひと休みしている。
わ、私はほったらかし!?
悲しい気持ちになりながら、十分待った。……頭、冷えちゃったわよ、蛍……ねえ、ほんとにこれ、正解?
「はい、お待たせー。流すよー。おお……手触り変わってきたねぇ」
流し終わると蛍が軽く水気を絞り、頭をタオルで巻いてくれて、首を起こすのを手伝ってくれた。
く、首が痛い。ぐったりしてその場に座り込んでいると、蛍が手を引いて、リビングに連れて行った。
トリートメントをしている間に準備したらしく、リビングには広く場所を空けて、新聞紙が敷き詰められており、その真ん中に、椅子が置かれていた。
「はい、円華ちゃん、そこ座って」
椅子に座ると、ビニールの覆いのようなものを着せられる。
頭のタオルを外して軽く髪の水分を取ってくれる。
「濡れたまま切って、もう一度軽く流したら、乾かしてから仕上げするね」
そして、カット用のはさみを取り出すと、私の髪を切り始めた。
鏡がないから、どんな風になっているかわからない。
私の前の方、後ろの方を凌久がわくわくした顔でちょろちょろしている。
蛍越しに凌久がちょろちょろするのが気になって思わず訊く。
「……どうなの、凌久」
「え、うまいよ、蛍ちゃん。プロみたい」
「ふふふ、ありがとう、凌久くん! 可愛くしてるぞー!」
シャキシャキ、というはさみの音が耳の側で響く。
私は疲れてだんだんうとうとしてきた。
「あ、円華ちゃん、そのまま目閉じててね。前髪切るから」
「ん……」
「あ、でもこっくりこっくりしちゃだめ! 動かないで!」
「う……」
びくっとして、慌てて首を固定した。それでも、目を閉じていると眠くなる。
なるべく頭を動かさないよう、少しだけうたた寝をいたしました。
……公爵令嬢たるもの、寝てないフリはお手のものですよ。
「円華ちゃん! 首動いてるって!」
「は、はい……ごめんなさい」
そうして、自分がどんな風になっているのか、見えないまま、しばらく切られ続けたのだった。




