今日の親切
「ぷえっ……!」
裏拳を頬に受け、咄嗟に止めた息を強引に絞り出されるように丑光は息を吐き出した。
拳を当てたのは総一。丑光のストレートパンチの途中でその手首を左手で掴み、引きながら右での裏拳。
登竜学園の放課後。ここは武道場。
二日目の総一による『しごき』は、一日目と比べるとこなれてきて少しばかり緩いものだった。
頬に受けた衝撃だが丑光は意識も失わず、ただ痛みだけを覚える。それも骨や歯には異常はないだろう。自分の動きが止まる程度の軽い衝撃、突き。
本来頭部へのクリーンヒットというのは簡単に意識すら奪えるもの。
自分を甘く見ているのか、と少しばかり腹も立とうが、けれどもそれは単なる手加減なのだと理解していた丑光は文句を言う気もなかった。
それに、たった今の総一の一連の動きも、理解してみるとやはり、と。
行われたのは引き手により補助されたカウンター。更にその引き手はカウンターを行う右手の加速も担う。
当然ながら神業だ。通常パンチというのは相手の動きを見計らって繰り出すものであり、パンチの拳のほとんど先に相手がいるはずのもの。そんなパンチに対して総一のように動くためには、相手が予備動作に入ったと同時に横から相手の懐に入り込まなければならない。
左での引き手はこちらの体勢を崩し、また頭部を勢いよく総一に対して近づける意図がある。更にその腕に合わせて自分の身体を開くことにより、右腕から右手の加速を補助している。
全ての動きが右腕、攻撃の補助。結果行われたのは全身を複合させて動作させることによる神速の打撃。
(居合いもそんな感じだって聞いたっけな。動きはそれっぽくなくてもやっぱ日本武道ってことか)
頭の中で総一の動きを整理し、自分なりの理屈を付けて丑光は呻く。
手加減をされていなければ、恐らく既にまた自分は意識を失っていただろう。
飲み込んだ唾は血の味がした。
ピピピ、とアラームが鳴る。
それは今回、ボクシング班から借りてきた備品だった。
「あい、じゃあ休憩ー」
総一が二の腕で顎の汗を拭き取りながら丑光に背中を向ける。
それと同時に丑光は倒れ込むように尻餅をついて天井を見上げた。
「まどろっこしいのう。続けてやりゃあいいのに」
「どうせ拳道の試合なら三分もあれば決着着くんですし」
端で見ていた学園長が嘆くように言うが、総一としては一応理屈があって提案したものだった。
今日のスパーリングは時間を区切ることにした。
時間は四分。その度に三十秒の休憩を設ける。
昨日は何時間も続けて行っていたスパーリングをそのようにしたのは、まず第一に総一が楽をしたいからだ。少しでも気を張り詰めている時間を減らしたい。少しでも動いている時間を減らしたい。そう思っての提案ということは学園長以下皆が気がついている総一の第一の目的だ。
けれども、そんな名目だけで押し通せるわけがない。
故に総一はきちんと用意してきた。その方法の利点、目的を。
俯いた丑光が、大きく息を吐いて、荒い息を強引に整える。
三十秒という短い時間だが、けれども一時的な休息としては効果がないわけではない。
そもそも拳道の試合では、どちらかが一本を取った後に三十秒の休憩が認められている。互いに相手に向かうまで、試合の進行が一時止まるという形で。
この休憩はそれの模倣だ。
そして、拳道の試合時間は休憩を含めて十分間。その間にどちらかが二本先取しない場合はサドンデスとなる。
大抵の場合はその時間内に決着がつくのだから、一試合三本分を戦うとしても、一本にかかる時間は十分を三で割った三分間。ならばそれから少し長めの四分間を全力で努められればそれでいいだろう、というのが総一の主張だ。
単純に『強く』なりたいというのであれば学園長のやり方、時間無制限のしごきも効果があるのかもしれない。
けれども『拳道で強く』なりたいというのであれば、少しはその試合のルールに沿うようにしたほうがいい、というのも総一の主張だ。
もともとスタミナは充分だ。決着のつかない数時間の試合をノンストップで続けられた丑光には、長時間を戦う力はある。故に、ならば積まなければいけないのはむしろ短時間を全力で戦う訓練。
そう進言された学園長は、不承不承ながらも頷いた。こちらは頼んでいる身。そしてされたのは生徒からの戯れや半分怠慢からではない改善提案。ならばやってみろというのが教育者としての慈悲だった。
(まあたしかに、……良い影響もあるのかもしれんのう)
時間が経ち、始めるよー、と開始のアラームを待つ位置に着く総一。その声に応え、のろのろと立ち上がった丑光を見て、学園長は内心呟く。
丑光の目に力がある。それはまだ体力が残っている、ということだけではない。だが、体力が残っているからこそ。
見えるのは以前のしごきの後半では見られなかった意気。学園長に対し、『立ち向かっていく』というだけの意気ではない。
休憩時間の間に、先ほどの自分の動きの振り返りや検討も済んだのだろう。学園長の気のせいかもしれないが、丑光の目に『倒してやる』という意気が感じられる。無我夢中に我武者羅に向かうのではなく、総一の動きを見定め、どうにかしてそこに通用するよう何かを試そうとしている。
総一だけが意識して、そして学園長が考えてもいない『PDCAサイクル』という言葉がある。
プランを立てて、実行し、それを評価し改善する。そしてそれを繰り返すことで、物事を上達させ精度を高めていくというもの。
総一も、学園長の『しごき』に意味がないとは言わない。長時間の苦痛を与えられ、それでもそれを乗り越える、ということ。メリットとデメリットが釣り合っていないとしても、きっと長い歴史の中で行われてきたからには何かしら得るものがあるのだろう。
しかし今の丑光の鍛錬には、きっとそれよりも必要なものがある。
アラームが鳴り、試合が始まる。
それと同時に二人共がフットワークを用い居場所を入れ替えた。
今だ、と見計らい放たれた丑光の突き。常人相手ならば必中に近い経験者のジャブ。
けれども総一には通じない。同時にしゃがみ込み、懐に入って反転し、その伸びた戻す前の腕を抱えるように取った。
「よいしょ」
「ぐ、でっ……!」
背中から受け身を取れるように、丑光を畳に叩きつける。
一本背負い。柔道では比較的ポピュラーな投げ技。試合で見かけることなどそうそうない綺麗な形で。
拳道でもこれで一本だ。本来ならば三十秒のインターバルを取れるのだが。
咳き込みつつ跳ね起きて、総一から離れて丑光がまた構える。まだ目の光は消えていない。
(そうそう)
ワン、ツー、とボクシングのごく基本的なコンビネーションを放たれ、二つともパリングで叩き落として総一はその動きを吟味する。
(付き合わなくなってきたな)
いい傾向だ、と総一は内心丑光を褒めた。
元々打撃中心の選手ではあったようだが、どうやら丑光はボクシングに光明を見い出したらしい。蹴りを打つことも少なくなり、関節技を使おうとする頻度も極端に減った。
総一が投げても投げようとしてこず、蹴ってもそれに対するのは警戒だけ。
そして手技中心の打撃も、一つ一つが丁寧になってきた。ほぼ同時に放たれるワンツーに、教科書通りの肩からまっすぐに伸びてくるジャブ。
元々、ボクシングとて優れたスポーツ競技だ。
全打撃競技中最速とも呼ばれるジャブを中心に、巧みな拳撃で相手の急所を的確に狙い、相手を制圧する。蝶のように舞い蜂のように刺す、というキャッチフレーズは有名だが、その言葉通り華麗な足捌きとて他の競技に劣るものではない。
蹴り技も絞め技も投げ技もない競技ということで格闘技としては一段低く見られることもあるが、けれどもたとえば総合格闘家の多くが学んでいるといえばその有用性が見て取れるだろう。
無論、拳道でも有効。
蹴り技も絞め技も投げ技もないが、けれどもそれを使わなくとも構わないのだから。
(持ってる技術は使わなくちゃね)
まだ未熟。総一は昨日糸子にそう言った。
しかし丑光にとってはその技術は大きな武器だ。
『しごき』は鍛錬だ。その身を鍛えて練り上げる。
持っている技術を無意識に繰り出せるように身体に叩き込み、また無意識でも動きが乱れぬように粘土を捏ねるように思考に練り混ぜてゆく。
けれどもそこに思考はない。無意識を鍛えているが故に。
だが丑光に今必要なのは、『思考』だ。
相手と自分の現在を思い、どうすればよいかと考える。
試合ではたしかに無意識も重要だろう。一瞬一瞬のミスが命取りとなる緊張した場。自然と身体が動き、最善の行動を取るというのが最も望ましい。
けれども今は練習中の身。ならば、今はその最善を探すという行為を繰り返すべきだ。
自分が行った試合を検討し、足りなかったものを自覚する。次はこうしようと考える。
今はそれがもっとも丑光の上達に必要なものだ、と総一は考える。
しごきの相手に自分は向いていないだろう。
スパーリングパートナーとしてはよいものではないだろう。
けれども、頼まれたからには強くする。その方法を一緒に考える。
糸子に問われた『辰美理織の倒しかた』。その答えは結局強くなるしかない。そして拳道の上達法としては今はこれがベスト。総一はそう感じ、そして実行する。
それが今日の親切だ。




