第33話 恋人ごっこの終わり
「お義兄さんは、お姉ちゃんのこと女の子として好きですか」
ある日のこと。レインは外に洗濯物を干しに行っていてスノウとリビングに二人きりでいる時。スノウは何気ない調子でそんな質問を口にしてきた。
レインと会ったばかりの頃。フウカと娘のことが忘れられず、レインのことを恋愛対象とは切り分けて「手を差し伸べて上げなくちゃいけない対象」としてしか見ていなかった時の俺だったら即答できたはずの質問。それに、その時の俺は即答することができなかった。
そんな俺に、スノウは追及してくるようなことはなかった。そして、さっき口にした疑問はまるでなかったかのように次の話題を振ってくる。そこでその話は終わった、かのように見えたのだけれど……。
◇◇◇
「お姉ちゃん。お義兄さんと別れてよ。お義兄さんはわたしのものにするから」
フウカの一件から三か月ほど経ったある日のお昼過ぎ。スノウの寝耳に水な宣言に俺とレインの中に衝撃が走った。
「そ、それってどういう……」
震えた声で尋ねるレイン。
「言葉通りの意味だよ。別にいいでしょ。だって、お姉ちゃんとお義兄さんは本当に付き合ってるわけじゃないんだから」
スノウの言葉にレインが息を飲む音が俺にも聞こえてくる。それも仕方ない。だってレインはこの3年間、ずっとスノウの前では俺とラブラブカップルを演じられてると信じてたから。
まあ実際は付き合い始めたときから、俺とレインが恋人のふりをしているのだってことくらいスノウはお見通しだったんだけれど。でも、そうまでしてスノウは俺とレインに恋人のふりをさせようとした。自分ではなれない、レインが心から信頼して頼れる相手に俺をするために。いわばスノウはレインのためを思って、半ば強引に俺のことを巻き込みさえした。そのはずなのに。
――そんなスノウがなんで俺とレインを別れさせようとするんだよ。スノウらしくもないじゃないか。訳が分からない……。
レインとは違う理由で俺も頭を抱えてしまう。そんな俺たちを前にして、スノウは告白を続ける。
「3年間も一緒にいてお義兄さんのいろんなかっこいい面を見せられてきたのはお姉ちゃんだけじゃない。そんなお義兄さん――うんうん、ケインさんとお姉ちゃんがイチャイチャしてるのを最初の頃は微笑ましく思ってた。わたしのお義兄さんはこんなにかっこいいんだよ、ってむしろ誇りに思うくらい。
でも……いつからか、幸せそうにしている二人を見ていると胸が苦しくなるようになった。イチャイチャしている二人に比べて孤独な自分のことが惨めに思える日が増えた。そこでわたしは気付いた。あー、わたし、ケインさんに恋しちゃったんだな、って」
「「……」」
「自分の恋愛感情を自覚した時。わたしはこの気持ちを必死に抑え込もうって努力した。ケインさんはお姉ちゃんの彼氏だから。人の彼氏を奪おうとするなんてイケナイことだってわかってたから。そんな思いを抱えながら二人を見るのがどんなに辛かったか、お姉ちゃんにはわかる? 大好きな人が手の届くところにいるのに、一生お預けを食らわなくちゃいけないなんて。でも」
そこでスノウは妖艶な笑みを浮かべる。どことなくレインの面影のあるスノウの顔。でもそんなスノウが浮かべた笑みはレインだったら絶対に浮かべない、意地悪な大人の女性の笑みだった。その微笑に、俺はぞっとしてしまった。
「ケインさんとお姉ちゃんが本当は愛し合っていないなら、わたしがケインさんのことを狙っても誰も傷ついたりしないよね。イケナイことでもなんでもないよね。だから――お姉ちゃん、ケインさんと別れて。そして、フリーになったケインさんをわたしが、絶対に振り向かせてみせる。絶対にケインさんのことを女の子として意識させて、ケインさんの彼女になって見せるから」
スノウの要求にレインは俯いてしまう。そんなレインが見ていられなくて俺はつい
「……スノウ、流石にそれはやりすぎだ。スノウだってわかってるはずだろ。レインがこれまでどんな気持ちで俺との恋人のふりを続けてきたか。それも全て、スノウのことを一途に思って」
と口を挟むが、それはスノウに遮られてしまう。
「ごめんなさいお兄さん。ちょっと黙っててくれませんか? これはわたしとお姉ちゃん、姉妹の話なんです。――お兄さんがお姉ちゃんのことを女の子として好きじゃない限り」
「それは……」
『レインのことを女の子として好きじゃない限り』、その言葉にまた、俺はすぐに反論できなかった。そんな俺に追い打ちをかけるようにスノウは言葉を続ける。
「それとも、お兄さんはわたしには幸せになるチャンスさえ与えてもらえないんですか? お姉ちゃんに譲って、一生我慢し続けなくちゃいけないんですか?」
スノウのその言葉は俺の心にぐさりと突き刺さった。確かにそうだ。ここでスノウを止めるのは、究極的にはレインに対して俺が願っていること――妹の幸せと同じくらい自分の幸せを大事にして、我慢したりしないこと、をスノウに対して否定してしまうことになるから。スノウに自分の幸せを諦めることを強いることになってしまうから。
スノウの言葉に押し黙ってしまう俺。それを確認してからスノウはレインのことをまっすぐ見つめ、話しかける。
「だからお姉ちゃん。お義兄さんをわたしに譲ってよ。わたしのことが大好きで、わたしに負い目があるお姉ちゃんだったら当然、かわいい妹の願いを聞いてくれるよね?」
甘えるような声音で言うスノウ。レインに対してこれはずる過ぎる。こんなのただの恐喝だ。そう思ったけれど、俺は口を挟むような資格がなかった。そして。
「いいよ」
喉から絞り出すようなレインの声に、俺はつい彼女の顔を見つめてしまう。そんな彼女は無理やり作ったようなぎこちない笑みを浮かべていた。
「スノウの言う通り。私とケインは本当にお付き合いしているわけじゃない。うんうん、たとえ本当に私達が愛し合っていたとしても、スノウがケインのことを本気で好きになって、ケインの彼女になりたい、って言ってくれるなら、お姉ちゃんはケインのことを自分から振って、スノウが幸せになれるのを全力で応援するよ。だってスノウの幸せは私にとって何よりの幸せだから」
「……レイン、それ、本気で言ってるのか?」
「あはは、本気ってなにかな。ケインだって私がこの世界の何よりもスノウのことが大切だってことぐらい、よく知ってるでしょ。他の全てのものがどうでもよくなるくらい。だから、これまで散々振り回してきておいてなんだけど……今この瞬間をもって、私との恋人ごっこはやめにしてくれない? だって私達、どっちも相手のことを異性として意識なんてしないんだもの」
レインからの婚約破棄宣言に、俺の中でいろいろなものが崩れ去るような音がした。
俺もレインのことを女の子として見てるわけではきっとなくて、そしてレインだって当然、俺のことを男子として意識なんてしていない。そんな偽りの恋人関係・恋人ごっこはいつか終わりがくる。そんなことわかり切っていたはず。わかり切っていたはずなのになぜだろう、ものすごく胸が苦しくなる。
それと同時に、何とも言えない寂寥感が俺の心にじわじわと広がる。最初は断っていたレインとの恋人ごっこ。それを引き受けたのは偏に、スノウのことばかりで自分の気持ちをないがしろにしてばっかりのレインを変えてやりたかったからだ。なのに、3年間も一緒にいながら俺はレインのことを何も変えてやれなかったんだな。そう思うと、自分の無力さに情けなさで心がいっぱいになる。
「だから……偽りの恋人関係なんて終わりにしよ? そして、もしできるならケインもスノウのことを女の子として好きになるように努力をしてくれたら嬉しいかな。ケインにだったら、大切なスノウのことを任せても大丈夫、って思えるし」
無理に笑顔を浮かべて言うレイン。そんなレインの笑みは見てられなかったけれど、俺はそんなレインを否定することができなかった。
こうして――――――――――――――――3年間続いた俺とレインの偽りの恋人生活は唐突に終わりを告げた。




