第29話 無かったことになった思い出
「今日は何をしようか」
フウカにそう言われてはっとする。いつの間にかぼうっとしてしまっていたらしい。そんな俺のことを、フウカは心配そうに見つめてくる。
嵐のようなアンナの襲来があった翌日。俺の心の中をずっとアンナの言葉がぐるぐると渦巻いていた。俺は今この瞬間のフウカのことをちゃんと見れているのだろうか。今のフウカに1周目のフウカの記憶を勝手に重ね合わせて勝手に期待してるだけじゃないのか。そう一度考え込むと何もわからなくなってくる。
――俺は今のフウカのことをどう思っているんだろうか。
今日になってから何度も反復している自問自答。でもその答えに、俺ははっきりとした回答を見いだせないでいる。
「ケインくん、なんだか今日は調子が悪い? ベッドに入って休む?」
しまいにはフウカにそんな風に気を遣わせてしまっている始末。
――いったん、このことを考えるのはやめよう。
そうきっぱりと決めて、俺はフウカに対して自分の顔に笑顔の仮面を貼り付けて言う。
「うんうん、大丈夫。心配してくれてありがとう」
そしてその日も結局、いつもと変わり映えの無い一日がはじまる。どんよりと曇って今にも雨が降りそうな曇り空の下、2人で市場に赴き、その日の入荷状況に合わせて今日の献立を考えつつ買い物をし、帰ったら調理する。なるべくフウカに余計な心配をかけないようにいつも通りを装いながら市場の露店を眺めている時だった。
「テリヤ地方の海産物が入ってきてるのか!」
目に飛び込んできた海産物に懐かしさを覚え、俺は思わず足を止める。
テリヤ地方は海に面した漁業が盛んな地域。澄み切った美しい海で育ったエビやムール貝は全国的に有名で、俺達の出身の村から一番近い市場にもたまに流通するくらい。1周目の世界でも時々フウカと一緒に買い物に出かけてはテリヤ地方の魚介類を見つけてよく買っていってたっけ。
そんな思い出話に花を咲かせようとフウカの方を振り向いてはっとする。テリヤ地方の海産物を見たフウカの反応は俺とはだいぶ温度差があった。
それにフウカの方も気づいたのだろう。
「あ、えっと、ごめん。そんなにケインくんが興奮するなんてそんな美味しいの、ここで売ってるお魚って」
聞いておいた方がいいのかな、というフウカの心が垣間見えるぎこちないフウカの言葉に、俺もぎこちなく答える。
「あ、ああ」
たぶん、フウカは市場で食材を買うというの自体、俺との共同生活が始まった数日前まではなかった経験。だからテリヤ地方の魚介類を意識するのはこれがはじめて。当然だけど、1周目の世界で5年間俺と一緒に買い物に出かけた記憶も無ければ、テリヤ地方の海産物を見つけては2人でテンション爆上がりだったことなんて覚えているわけがない。
――やっちゃったな。"今のフウカ"を見ている以上、慣れなくちゃいけないのに。
そう、自分の中で反省した。
テリヤ地方の海産物が手に入った、と言うことで今日の昼食はパエリアにすることになった。いつものように「手伝うよ」とフウカが言ってくれたので、キッチンに2人並んで立つ。
改めて考えるとパエリアを2人で作る、なんていうことは1周目の世界ではなかったよなと思うと苦笑してしまう。1周目の世界での俺の妻だったフウカは結局、キッチンに立つことは殆どなかった。だから、炊事はいつも俺の仕事。でもそれがイヤだと思ったことはない。料理は好きだし、何よりフウカは俺の料理をいつも美味しそうに食べてくれる。
でも2周目のフウカは違う。料理が苦手なことを自覚しながらも、いつも何かしら手伝おうとしてくれていた。そのことを改めて意識すると少しくすぐったい気持ちになる。もちろん1周目と2周目でフウカが違うのは立場が違うからと言うのもあると思う。1周目のフウカは俺と対等な"妻"という立場だったけれど、今のフウカはふわふわした立ち位置だから。でも、キッチンに立つフウカ自身からいやいややってるという雰囲気は感じられなくて、彼女も楽しんで料理をしてくれているように俺からは見えていた。
このことはどっちがいいというものでもないんだと思う。料理に参加しないでじっと待っていて、いざ口にした途端愛くるしい笑顔を見せてくれるのも、一緒に楽しく料理できるのも、俺にとっては愛おしくて、かけがえのない時間。
そしてパエリアは完成し、2人でのお昼ご飯となる。
「「いただきます」」
いつものように2人で声を重ねて食前の挨拶をする。そしてそれを言ったかと思うといつもならフウカは何かに追い立てられたかのように黙々と食べ始めるのに、その時だけは何故か、パエリアの盛られたプレートをじっと見つめたまま、暫く動かない。
「……具合でも悪いのか?」
俺がそう尋ねると、フウカははっとして
「あ、ごめん。ちょっと考え事しちゃってただけで。別に体調が悪いとかそう言うんじゃないから」
と作り笑いを浮かべて言うと「うわぁ、おいしそう」とわざとらしく言ってパエリアを口に運んだ瞬間。
一瞬だけフウカは顔を顰め、でもすぐにまた貼り付けたような笑みを浮かべて「うん、実際美味しいね」と思ってもないことを口にする。
そんなフウカを見た途端。俺は音を立てて席から立ち上がってしまう。
その時になって俺はあることをようやく思い出していた。――そう、フウカはもともと海老や貝が嫌いだった。でもあの日以来、魚介類を好きになって、家でもよくパエリアを作るようになって、その時のフウカの笑顔が記憶を上塗りしていたから忘れていただけで。
それは1周目の世界で、俺達が結婚してから1年ほど経ったときのこと。俺とフウカは新婚旅行としてテリヤ地方に訪れていた。そこに行くまでもフウカが行くことを渋って大変だったのを覚えてる。「あたし、海産物も海も興味ないし」と、いつもの興味がないことにはとことんやる気を出さないムーブ全開だったフウカを「まあ、実際行ってみたら興味持てるかもしれないよ。なにより、せっかくの新婚旅行ならいつもとは違う景色を見に行こうよ」と、なんとかなだめすかしながらテリヤ地方へと向かったのだった。
そして実際にテリヤ地方に着くと、フウカの反応は掌返しだった。澄み切った深碧の海にどこまでも広がる白い砂浜。そんな俺達の村では見ることのない非日常にフウカはついた途端から興奮気味だった。
そしてそんな美しい砂浜を眺めながら食べたのがテリヤ地方の海産物をふんだんに使ったパエリアだった。それまでも村の近くの市場に出回った海産物を使って一度だけ家でパエリアを自作して見たことがあったんだけど、その時はフウカから不評を買ったのでそれ以来家では作らないようにしていたんだけど、その時のフウカの感想は……。
「改めて食べてみるとパエリアってこんなにおいしかったんだね」
「まあ観光地のレストランで出されてるものだからな。――と、いうか、フウカって海老とか貝とか食べられないんじゃなかったっけ」
「これまでは、ね。でも、こんな綺麗な海辺を見せられて、このエビ達がそこからの贈り物だと思うと、なんだかおいしく感じられてね。あたし、パエリアのこと好きになっちゃったかも。だから」
そこでフウカは楽しそうにくるんと一回転して、俺の方を見て言ってくる。
「これからもお家でパエリア、作ってね。この日の、ケインくんとのこんな幸せな気持ちを、たびたび思い出せるように」
浜辺の太陽の下で微笑むフウカは、いつもに増して綺麗だった。
そんな風に俺と1周目のフウカにとってテリヤ地方で獲れた海産物を使ったパエリアは特別な料理だった。でも、今のフウカにはそんな記憶なんてない。今のフウカにとって目の前のパエリアは「嫌いなものがゴロゴロ入った不味い料理」以外の何物でもない。
「嫌いなら無理に食べる必要はないよ」
感情を押し殺そうとしたけど、ショックでどうしても乱暴な言い方になってしまう。それを聞いてフウカは何を思ったのか
「べ、べつに嫌いじゃないよ。あたし、海老とか好きだし」
と無理に笑って言ってくる。でも、そんなフウカは今の俺の悲しみにさらに拍車をかけてくるだけだった。俺の愛したフウカは好きでもないもののことを好きだなんて言わない。どこまでも好きに対してまっすぐで、自分の興味に嘘をつかない。そんな彼女に、俺は惹かれたんだ。だから、今のフウカはフウカであっても俺が愛したフウカとは違う。俺達が3年間積み上げてきた時間の重みもなければ、俺が好きだったまっすぐさも持っていない、フウカと同じ容姿と声を持っただけの別人だ。それが今更になって、ようやくはっきりとしてきた。
「……もう無理しないでくれ。残した分は俺が食べるし、フウカには何か他の物を今から作るから。フウカの好き嫌いを把握してないで献立を決めちゃって悪かったな」
「そ、そんなこと少しも気にしてないよ! ほんとに食べられるから。えびも貝も美味しく食べられるようにするから! だから、あたしのことをそんなに嫌わないでよ……」
嫌っているわけでもないし、今の俺が欲しい言葉はそれでもないんだよ……。
そう心の中で思いつつも、その胸の内を今のフウカに打ち明けられるわけもなく俺達は生まれてから最も気まずい食事の時間をなんとかやり過ごした。




