第19話 暗躍
アンナ編、急展開です。
◇◆◇の前後でケイン視点→アンナ視点に切り替わります。
ある日の朝。目覚めた瞬間、俺は手足が動かないことに気付いた。金縛りにあったかのように一切動かせない。
――いったい、何が起きてるんだ?
半ばパニックになっていると。
「目覚めましたか」
そう言って動けずにいる俺のことを覗き込んでくる人物が誰か、俺にはぱっと分からなかった。だって今の彼女の空虚な瞳は、いつもの彼女――アンナのイメージとあまりにもかけ離れていたから。今の彼女は言葉にできないうすら寒ささえ感じさせる。
「アンナ、これは一体……?」
俺の疑問に答えずアンナは徐に注射器を取り出し、銀色に光る極細の針を細い指で撫でる。
「ケイン様自体に恨みはないんです。でも、もう時間がないからなりふり構ってられない。遅かれ早かれ、こうするべきだったんです。だから――恨むなら教会を恨んで下さい」
そう言ったかと思うと、俺の腕に注射気が差し込まれ、そして……俺は意識を喪った。
◇◆◇
ケイン様の体はその後幾度かぴくぴくと痙攣した後、動かなくなった。苦渋の表情を浮かべながら制止した彼を見るとずっと前にどこかに置いてきたはずの「申し訳ないな」と言う気持ちが頭をもたげそうになって、私は慌ててその考えを追い出す。”彼女”を助け出す、そのためなら私は非情で冷徹な女に徹しよう、そう誓ったはずなのに。
と、言っても私だってむやみやたらに暴力で解決したいわけじゃない。巻き戻る前の世界のレイン様に対してだって、今回のケイン様にだって、私は十分に時間を与えてきた。ケイン様に対しては1ヵ月の猶予を与えた。
なのに、ケイン様が自分から私の言いなりになってくれないから悪いんだ。そう思いこもうとするけれど、それは上手くいかなかった。それは多分、この前の夜のことがあったから。
ケイン様と泡沫の禁書庫を訪れたあの日。本当は1人で行くつもりだった。泡沫の禁書庫で特定の記憶を探し当てるのは簡単じゃない。それでも、どこかしらには"彼女"に関する記憶が眠っている場所で"彼女"に関しての記憶を改めて思い出し、自分の決意を固める、そういうつもりだったのに、あの人とすれ違って、成り行きで彼に第三次世界大戦の記録を見せることにした。そうすれば、今のレイン様に対する態度を改め、時空の大聖女を管理しようと言う気になってくれるんじゃないか、って思ったから。
でも結論としてケイン様はそこまで性急に変わらなかった。変わらなかったけれど、こともあろうか私のことを心配してきた。相手のことを捨て駒としか考えていない私のことを。非情になる決意を固めるつもりだったのにあの日、すごく久しぶりに他人から優しくされて、かえって私の気持ちは揺らいでしまったんだと思う。
「そう思うと、ケイン様はほんと罪作りな男ですよね」
気を失ったままのケイン様の顔の輪郭を指でなぞる。どこかあどけなさが残る15歳の少年の顔。そして、本の一時でも私の心を惑わせた魅惑の存在。でも。
次に目覚めた時、彼は私の”操り人形”になっている。時空の大聖女に無理矢理魔法を使わせ、”彼女”を助け出すためのマリオネットに。もう、私のことを惑わす彼は何処にもいない。私が罪悪感を、前の晩の彼の姿を忘れさえすれば。
ケイン様が目を覚ましたのはそれから12時間後のことだった。私がケイン様に注射を打ったのが夜明け前だったのに、ケイン様が気絶している間に日が昇って、また沈んでしまった。本来ならば5,6時間の昏睡の末に目覚める、と聞いていたから死んじゃったんじゃないかって少し肝を冷やしていたけれど、ちゃんと目を覚ましてくれてほっとする。ケイン様にはこれから働いてもらわないと困る。
私の太ももの上で目覚めたケイン様は虚ろな瞳をしていた。そこにはお節介焼きの活発なケイン様はいない。ただ補佐官である私に従順な羊飼いがいるだけ。
「アンナ様、俺は何をしたらアンナ様のお役に立てますか」
普段のケイン様だったら絶対出さないような甘えた声で言ってくる。期待以上の薬の効果につい焦りそうになる感情を抑えながら、私は「そうねぇ」と考え込んだふりをする。
「まず手始めにあなたの私への忠誠を試すために……時空の大聖女に世界を10年前に巻き戻させなさい。そのためなら時空の大聖女をどんな風に扱ってもいいわ。あなたならできるでしょ」
「もちろんです! だって俺は時空の大聖女の羊飼いで――アンナ様の僕なのですから。では早速大聖女の元に行きましょう」
「ええ」
うなづいて私は立ちあがる。そしてケイン様に悟られないように懐中時計をちらっと見る。時空の大聖女の魔法を受け付けないその小型霊装はタイムリミットが”彼女”を救い出すタイムリミットが残り72時間を切ったことを示していた。
――もう時間がない、でも、大丈夫。焦ったりしなければ、きっとうまくいく。だから待っててね、シオリ。
そう内心で思ってから、なかなかやってこない私を心配そうに見つめるケインに慌てて追いついた。
ケイン様がレイン様の屋敷に来ると、レイン様は何の疑いもなく扉を開けて出てくる。この1カ月以上ケイン様を野放しにしていたのは今では時間の無駄だと思うけれど、この時間の浪費の中で唯一の成果はケイン様がレイン様の信頼を勝ち取ったことだよね。そんなことを考えながら、私は2人のやり取りを木陰から見守っていた。
「今日一日なにしてたのよ。もう日が暮れちゃったじゃない」
顔を出てくるなりケイン様に呆れたように言うレイン様。その次の瞬間。
不意にレイン様の首を締め上げ始めるケイン様。突然のケイン様の暴挙に、当然レイン様は何が起きているのか困惑した様子だった。でも段々と顔が赤くなって、窒息しかける直前でようやくレイン様は解放され、地面に投げ出される。
「げほっ、げほっ。な、なにするのよいきなり……」
「今すぐ10年前に時間を巻き戻せ。そうじゃないと俺は……君を殺してしまうかもしれない」
レイン様の疑問に答えずケイン様は冷たいトーンで言い放つ。その瞬間、レイン様の顔から血の気が引いた。
じりじりと後ずさりするけれど四肢が震えて逃げ出すことが出来ないレイン様。そんなレイン様にお構いなくケイン様は何処から取り出したのか抜き身のナイフを構え、じりじりとレイン様との距離を縮めていく。
その様子を眺めながら、最初からこうすればよかったんだ、と私は思った。私の10年間、いやそれ以上の時間追い求めた悲願の達成はもうすぐそこまで来ている。これまで自分を幾らでも偽って、したくないことを自分を押し殺してし続けてきたけれど、それも今日で終わり。ここで時間が10年前に巻き戻れさえすれば、私はシオリを取り戻すことができる。ようやく、10年前のあの日の続きが出来る。そう確信した時だった。
「演技はこれくらいでいいか」
そのケイン様の言葉に私は耳を疑う。
恐る恐る声のした方を見ると……そこには瞳に自然なハイライトを取り戻したケイン様と、いつの間にか立ち上がっていたレイン様が私のことを可愛そうなものでも見るかのような目で見つめていた。




