BLACK CHERRY
あなたはだあれ?
わたしはだあれ?
「こんにちは」
まるでチェロの音色のように低く深く響くような声が、座り込んで雑草を必死でもぎ取るマリカの頭上から落ちて来る。
びくりと身体を揺らした後そっと見上げればすぐ傍に、相変わらず青白い顔をした美貌の男が微かに笑みを浮かべて立っていた。
雑草を毟ることにあまりに必死で気付かなかった。
いつから居たのだろう。
「こんにちは、テアさま」
土に汚れてしまった手を軽くはたき、マリカはぺこりと頭を下げた。
「マリカ、休憩にしよう。土産を持って来たんだ。マリカの好きな“ブラックチェリー”だよ」
低い声と共に差し出されたのは木で作られた可愛らしい籠。中には赤黒い果実が沢山詰まっていた。
マリカは若干戸惑いながらも、こくりと頷いた。
「“ブラックチェリー”」
そう言いながらも、マリカはそれが本物の“ブラックチェリー”ではないことを知っている。
この果実の名はロタール。
この世界には“ブラックチェリー”という果物は存在しない。
それは自分も同じ。
この世界にいるはずの人間ではない。
「“ブラックチェリー”」
もう一度繰り返す。
帰る手段がないのなら。
この世界のものにならなければ。
この世界に自分を認識してもらわなければ。
気が付いた時には小さな湖の脇の草むらの中だった。
なぜこんなところにと思ったが、いくら考えても思い出せなかった。
そう、自分が誰なのかさえも。
自身に関してわかっていることはたった二つ。
神道真理歌という名前と二十三という年齢だけだった。
テアと共に修道院の裏口からの中に入り一つの扉の前で立ち止まった。
軽くノックをすると、中から年配の女性の声が返ってくる。
「ガブリエレさま、テアさまがいらっしゃいました」
扉の中に聞こえるように少し大きな声で告げる。
すると、すぐに扉が開いた。
「まあ、アロイスさま。どうぞ、お入り下さいませ」
顔を出したのはこの修道院の修道長、ガブリエレ。
彼女がマリカを拾ってくれた命の恩人。
この世界で生きる権利を与えてくれた人。
あの日、草の中に蹲る真理歌を、何かの使いで外出中だったガブリエレが見つけ保護してくれたのは奇跡としか言いようがない。
それでも、最初は恐ろしかった。
彼女の口から出たのは、聞いたこともない異国の言葉。
戸惑うマリカに、ガブリエレは慈しみ深い微笑みを浮かべ自分を指で示した。
そしてゆっくり「ガブリエレ」と言った。
と、今度は真理歌を指差す。
真理歌は一瞬考え「マリカ」と告げた。
敢えて名前だけ。
ガブリエレはそれを聞き一度小さく「マリカ」と呟くと、しゃがみ込む真理歌を立たせ手を引いて歩きだした。
そして向かった先は古く小さな修道院だった。
テアと共にガブリエレの執務室に入る。
長椅子には先客がいた。
「リヒャルト」
目の前にあるテーブルの上の書類を片付けている若い男。
この修道院の修道士の一人。
この国の修道院は男女の区別をしない。
宿舎を分けるのみで、地位も仕事も性別による差別はない。
よって、この修道院にも男女合わせて二十五人ほどの男女が仕えている。
下は十二歳の少年から、最年長の修道長のガブリエレまで。
「マリカ、その手でロタールを食べるのかい?」
リヒャルトが苦笑する。
言われて思い出した。
草を素手で毟り泥にまみれている自分の手を。
「あ……手、洗ってきます」
恥ずかしさで少し俯き、そのまま勢いよく扉から飛び出した。
「マリカは随分言葉が理解出来るようになったな」
低い声で囁くような言葉を吐き出すテア。
リヒャルトがその眼前で跪き礼をとった。
「アロイシウスさま。どうやら周辺でマリカの様子を窺っていると思われる者の姿が目撃されておりますが」
リヒャルトがテアに静かに告げる。
「殺せ」
「ですが、どこの手の者かまだはっきりしておりま―――――――」
「拷問にかけた後切り刻んで捨てろ」
淡々と命じるその低い声も、その美しい顔からも何の感情も読み取ることは出来ない。
「御意」
リヒャルトは短く返し、黒の修道服を翻しその場を立ち去った。
息苦しさからマリカは目覚めた。
見覚えのない天井が目に入り、数回瞬きを繰り返す。
そうだ、今日修道女に拾われたんだ。
ようやく現状を思い出す。
ガブリエレに拾われて修道院に来た。
その後、混乱の内に疲れ果て、宛がわれた部屋で眠ってしまったようだ。
ベッドの横にある小さな窓から差し込む光は酷く希薄で。
既に陽はとうに落ち、夜になってしまっていた。
月の光は儚げで、疲弊したマリカの心をより一層不安にさせる。
マリカは小さく息を吐き出した。
その時。
マリカは人の視線を感じて身震いする。
恐る恐る上体を起こすと、足元近くに佇む人影。
月光しか照らすもののない暗闇ではその姿は窺えない。
ふいにその影がマリカの方へ動き出す。
マリカは自分を覆うシーツを力一杯握りしめた。
一歩ずつ近づいてくる黒い塊。
その姿がマリカのすぐ傍でぴたりと止まる。
月明かりに晒されたその姿を見て、マリカは息を呑んだ。
まるで美しい魔の化身。
青白いシミ一つない肌。
頬に掛かる髪は黒く。
前髪の奥に見え隠れするその瞳も黒かった。
切れ長で二重瞼の大きな瞳は若干つり上がり気味で。
その上の眉もそれに沿うように上に向かって線を描いている。
その中で、薄く色づく唇だけが妙に艶めかしく映えていた。
はじめは女性だと思った。
それも、とてつもなく目つきの悪い。
それでもふと我に返り、今度は冷静に見る。
そうしてみると女性でないのは一目瞭然。
彫りの深い顔のその骨格は明らかに男性のもので。
身長も驚くほど高く、麗容な顔を支える首は太い。
肩幅も広く、外国人のアスリートのように逞しい。
「それほど見つめられると、流石にわたしも恥ずかしいのだが……」
目の前の人物は低い声で何事か呟いて微かに笑った。
けれども、言葉は通じない。
マリカは呆けたように首を上に向けたまま動けなかった。
恐ろしいほどに美しく、触れたら切れてしまいそうに鋭敏で、男神のように逞しい人。
こんな人がこの世に存在することに純粋に驚きを隠せない。
「あら、アロイスさま。ここにいらっしゃったのですか」
マリカの視線をその男から外させたのはガブリエレだった。
ランプのようなものを持って部屋に入ってきたガブリエレは、マリカを拾った時と同じ笑顔を作る。
「アロイシウス・ローレンツさま。アロイシウスさま」
ガブリエレの指は目の前の男に向いている。
二度繰り返されたのが男の名前だと理解した。
「アロ…イ…シウスさま」
「いや、テアだ。マリカ、テア」
今度は自身の指を向け繰り返す。
「テア…さま?」
拙く紡がれる言葉を聞き、テアは頷く。
「宜しいのですか?そのお名前は……」
「構わない。マリカだけだ」
話す内容は解らずとも自分の名前が出てきたことに、マリカは首を傾げる。
その様子に、テアはマリカのいる寝台に腰を落とした。
「マリカ」
じわじわと沁み込むような低い声。
香るのはスパイシーな香水のような芳しい匂い。
マリカはすぐ目の前のテアの黒い瞳を見つめた。
「マリカ、わたしの花嫁」
自分と同じ色のはずなのに、それは引き込まれそうに深い。
引き摺り込まれて、囚われて、どろどろに溶けてしまうかも。
テアはマリカの細い手を口元に引き寄せた。
「マリカ、わたしの生贄よ」
そして、そのまま指先に口づける。
溶けてしまったら、この人と同化してしまうだろうか。
自分の身体はこの美しい人の一部となり、死して肉体が朽ち果ててもなお囚われ続けるだろうか。
「マリカ。ようこそ、この世界へ」
それがテアとの出会いだった。
閉じられた目の前の扉を軽く叩く。
「マリカです」
「お入り」
すぐさま返ってきた言葉に、マリカは静かに扉を開く。
長椅子には美しい人。
「おいで、マリカ」
長い脚を組んで座るテアの隣に腰を下ろすと、目の前に差し出されるのは甘い香りを醸し出す赤黒い果実。
定期的に修道院を訪問するテアは、必ず手に土産を携えてやってくる。
数回目の訪問時に、渡された果実を食べて思わず大きな声を出した。
「ブラックチェリー!」と。
プラムほどの大きさの、赤黒く艶のある果実。
齧った途端、口の中に広がる味と食感はチェリーと酷似していた。
「マリカの住んでいたところでは“ブラックチェリー”と言うんだね」
そう言って、テアはいつもと同じ微かな笑みを浮かべた。
それ以来、彼の手土産は三度に一度ほど“ブラックチェリー”になった。
“ブラックチェリー”を頬張るマリカ。
それを隣で眺めて微かに笑むテア。
覚えのあるチェリーよりも果汁が多いその果実。
時折マリカの口の端に零れるそれを、テアはマリカの顔を引き寄せゆっくりと舐める。
まるでマリカを味わうように。
まるで何かを確かめるように。
今日もマリカは引き込まれる。
その微かな笑みに。
深く黒い瞳に。
スパイシーな香りに。
舌の生温かい感触に。
ねえ、このまま溶けてしまうの?
マリカ。
君はどんな味がするの?
その細い首にナイフを突き立てて溢れ出る血は――――――――。
“ブラックチェリー”のような闇色をしているのかい?
“ブラックチェリー”のように甘いのかい?
“ブラックチェリー”のような芳しい香りが漂うのかい?
ねえ、マリカ。
君を味わいたいよ。
いつか来るそのときには。
君が泣いて叫んで乞い願っても放さないよ。
だって君はわたしの贄だから。
わたしの“ブラックチェリー”。
いつか貪り喰らうそのときまで。
君を生かしておくと約束するよ。
わたしの可愛い”ブラックチェリー”。




