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+第二十三話+ 行列

「ああもう……全然進まないんだからこれ……」

 

 もう日暮れまで一刻ほどであろうか。

 府庫では李影に会うし、執務室には紹輝がいる。最後の追い込みに、小春は自室として与えられている後宮の一室で頭を抱えていた。

 炎龍に引き抜いてもらうためにしている古書の訳文は、どうにか十頁にまで達していたが、炎龍に勝つには、まだまだこれでは不十分であろう。

 

 集中したい。なのに――

 

 スリスリスリスリ。スリスリスリスリ。

 

 さきほどから部屋の前の廊下をウロウロとしているらしい『誰か』の衣擦れの音に、気が散ってしかたなかった。

 一体そこで何をしているというのか。それも別の誰かと一緒らしく、ヒソヒソ話も聞こえてくる。

 余計に訳に没頭できなかった。

 

 足音が、意を決したように立ち止まる。

 

 ――「あの、小春……、いるか?」

 

「いない」

 

「そうか、では出直――、いるではないか! なぜ嘘をつくっ」

 

 スパンと戸を開けて入ってきた朱閃に、小春は小さく嘆息した。

 

「今はあなたに構ってあげられないの。あっち行って、一生のお願い」

 

「……」

 

 自分の出世が掛かった……いや、官吏としての人生が掛かった大勝負をしているのだ。

  この勝負に負ければ、自分は退官するまであの仕事のない窓際局で過ごすことになるだろう。

 朱閃の戯れ言に付き合っている暇はなかった。

 

「少しだけでもだめか?」

 

「だめ」

 

「………………わかった……」

 

 小春に強く言われたせいなのか、朱閃はあからさまに声の調子を落とし、とぼとぼと重い足取りで背中を向ける。

 同情してはならない。そうは思っても、そこまで露骨に落ち込まれるとなけなしの良心が痛んだ。

 

「分かりましたっ。もう、何の用なの?」

 

 手早く済ませてねと言うと、出て行きかけていた朱閃が、元気よく振り返る。その様は、大国の王と言うよりまるで子犬のそれであった。

 尻のあたりに、激しく振られている尻尾が見える気がする。

 

「ああいや……用というか」

 

 小春と目が合うと、朱閃の頬はみるみるうちに赤くなってゆく。

 何を企んでいるのかと、小春は眉間に皺を寄せた。

 

「これ……を」

 

 花束を差し出され、小春は自然と頬が緩んだ。

 

「わぁ、ありがとう。何? どうしたの、急に」

 

 花を贈るなど、彼らしくない。誰かの入れ知恵なのだろうが、嬉しいことに変わりは無かった。

 

「えっとその……」

 

 未だソワソワしている彼に、どうやら花はついでに持ってきただけらしいと悟った。

 

「字、字が少しいびつだ」

 

「え?」

 

 突如小春の手元を見てそう言うと、後ろから抱きつくように小春の筆を持つ手に自分の手を添えた。

 

「何? 急に……」

 

「涼牙が少しずつ肌のふれあいを増やせばいいと……で、ではなく、いいから……このように書くと上手くいく」

 

  朱閃の動きに導かれ、まるで流れるように筆先が動き、次々と美しい文字が生まれる。その光景に小春は目を丸くした。

 意外だった。勉強も武道も苦手な彼にも、どうやら他の者より秀でているものがあったらしい。

 文字の美しさだけなら、きっと黄金世代とも肩を並べるだろう。

 

「すごいわ朱閃、見直し――」

 

 褒めようと肩越しに振り返ろうとすると、朱閃は小春の肩に細いあごを乗せ、彼女の匂いを嗅ぐように髪に鼻先をすりつけていた。

 おまけに手に添えられていた方の手も、小春を抱きしめるように腹に回っているし、彼の息がだんだん上がっている。

 

 これは明らかに、良からぬ方向へ向かっているときの行動だった。

 

「……ねぇ」

 

「ん?」

 

 小春の髪のしなやかさに埋もれてにやけながら、朱閃が生返事をする。

 

「朱閃……あなたもしかして、また欲情してる?」

 

「――っ」

 

 面白いほど大きく、朱閃の肩が跳ね上がった。

 

 彼以上に考えが頭から漏れ出ている者もいないだろう。

 

「やっぱり! 突然来るからおかしいと思ったら……! 私をそういう対象にしないでって何度も言ったでしょ? こんなに広くて立派な後宮があるんだから、遊ばせていないで何人でも妾さんを入れればいいじゃない」

 

 後宮には自分しかいないから、彼は自分に女を求めるのだろう。

 

「だ、誰でもいいというわけではない!」

 

「だからってなんで私なのっ」

 

「そなたは……その、ちょっとだけ余の好みだ」

 

 顔を近づけてくる彼から逃れるように、体をせいいっぱい仰け反る。

 

「ちょっとじゃなくて、もっと好みの人を探してちょうだい」

 

「いい加減……一度くらい、いいではないか」

 

「いーやーでーすっ! ちょっと、なに帯を解こうとしてるのっ! 放しなさいっ」

 

「余は……上手いと言われるから大丈夫だ。そなたもきっと満足する」

 

「な、な、な、何が上手くて満足するのよ、バカ!」

 

 真剣な表情で放たれたあり得ない発言に、小春は顔を真っ赤にした。

 

「余はもう十分堪えた! 小春……今日こそ余のものにっ」

 

「ちょ、どこを触ってるの……っ!」

 

 いい加減にして! という小春の怒声と、パチンという乾いた音が響き、部屋の前の廊下では、涼牙が両手で頭を抱えていた。

 

 

 

 ◆……◆……◆

 

 

「全く……。どうやったらあんな助平王に育つのかしら」

 

 小春は訳した文を手に、怒り肩で炎龍の元へと向かっていた。

 

 陽は先ほど山の向こうに姿を隠し、ただ光の帯だけが山の背中から扇のように広がっていた。

 どうにかこうにか、訳してはみたが、黄金世代首席の炎龍が相手。彼には足元にもきっと及ばない出来だろう。数々の邪魔者たちがいなくとも、結果はおそらく同じ。

 

 それでも、自分の力を出し切って作ったものに、小春は満足感を覚えていた。

 

 

「道をあけよッ! 道をあけよッ!」

 

 大声で叫ぶ先払いの男の声に、小春はそちらを見やった。

 

「何――?」

 

 小柄で卑しそうな男が振り回す、細い枝のような鞭から空を切り裂く音が聞こえてくる。あんなものを振り回して、当たったらどうするんだと小春は眉をひそめた。

 

「林太保がお通りになられるぞッ! 道をあけよ!」

 

(林太保……!)

 

 先払いの男の後ろから、ぞろぞろと列をなし、何十名もの男らが石畳を歩く様子が見えた。どうやらあの中に、林太保がいるらしい。


 紹輝の手柄を奪い、窓際へ追いやった男がすぐそこに。

 

 大勢の屈強そうな武官らに囲まれ、彼の姿は見えない。しかし、高級官吏のみが頭に戴く、青紫の官冠がゆっくりと遠くを移動していくのが見えた。

 兵は国や王を守るためにあるというのに、まるで林太保の私兵である。

 

 まるでコバンザメのように追従する、文官系の高級官吏らも多く見られた。

 

「朱閃ですら、廷内は一人で出歩いているのに……」

 

 宮廷内にさしたる危険などない。なのにご大層にあのような列を成して闊歩するのは、単なる権力の誇示に過ぎない。

 

 あれでは、どちらが王か分からない。どちらがこの国の統率者なのか。

 林太保に付き従う誰もが、陰のある不穏な目つきをして見えた。

 

 あれほどいかにも『悪代官です』と顔に書いてあるような男らがこの国を牛耳り、手が出せないなんて。

 いや、ならば自分が宰相になって、きっと正しい道を……。

 

 小春のまだまだ未熟な心に、そんな強い思いが芽生えていた。

 

 トンと背中からぶつかられ、小春は手にしていた訳文を落とした。

 

「何を呆けたように突っ立っている」

 

 屈もうとする小春より早く、李影がそれを拾い上げて手渡してくれた。

 

「ありがとうございます、李侍長……」

 

 ――李影は林太保の傀儡じゃ

 

 先ほどの行列と、鉄じいに言われたばかりのことが頭をよぎった。彼もあの行列を構成している紛れもない一員。

 そのせいなのか、彼の双眸がやけに鋭く自分を貫いてくるように感じた。

 

 ――君は言われたことしかしないもんねぇ

 

 今更ながら、同期とはいえ紹輝はよくこの男にあんなことを言ってのけたものだ、と肩を竦めた。

 

(局長には怖いものってないのかしら……)

 

 まあ実際無いのだろう。でなければ、あんな態度には出られまい。

 斜陽の光に目を細めながら、李影は山の方を見つめながら口を開いた。

 

「貴様はなぜ、官吏などになろうと思った。傍系とはいえ壕家の端くれ。いくらでも苦労せず暮らしてゆく道があったはずだ。なのになぜ、わざわざ面倒な道を選ぶ……」

 

「もちろん……民のためになりたいと思ったからです。『あんな風に』権力を私腹を肥やすために使っている人たちを、ここから一掃もしたいですし」

 

 ピクリと李影の眉間が動き、瞳がこちらを鋭く見据える。

 さきほど紹輝はよくあんなことを言ったものだと思っていたというのに、気づけば自分も同じ事をしていた。

 

 上司と部下。同じ窓際部署。もしかして似たもの同士だったのだろうか。

 

「李侍長……あなただって本当は――っ」

 

 小春の言葉は、李影に胸ぐらを掴み上げられて止まった。

 顔を近づけられ、耳元に唇を寄せられる。

 

「壕春厳……貴様はいずれ、官吏となったことを後悔するだろう」

 

 恐怖に、背中がゾワリとした。

 李影は乱暴に手を放すと、林太保らの列が向かった同じ方向へと歩いて行く。

 その真っ直ぐな背中からは、強い覚悟すら窺えた。

 

「はあぁ……び、びっくりした……」

 

 斬り捨てられる。一瞬そう思ってしまうほど、彼の目は残忍さを湛えていた。

 膝がガクガクと震えて笑っている。

 

 やはり、林家系とは関わらない方が良い。

 

 それでも――彼の二胡の音の優しさは本物である。

 

 そう信じたいという思いは、なぜか消えることはなかった。


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