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+第二十二話+ 欠けたもの

 遅くなって、申し訳ありません……。

「ああもう、集中できないよ……」


 池に釣り竿を垂らす老人の後ろを、難しそうな顔をして通り過ぎる。


「うら若いおなごが暗い面をして、一体どうしたというのじゃ」 


 突然声をかけられ、小春はピタリと足を止めた。

 白髯白眉はくぜんはくびの老人は、振り返ることなく正面を向いて釣り竿を垂らすのみ。体を包む深緑色の朝服は、官位をすでに退いているということを意味した。


「そう恐れるな。水面にお主の思い詰めたような顔が映って、気になっただけじゃよ、壕春厳」


 振り返った老人の顔は、どちらかといえば霞の中の仙人を思わせるほど、とても穏やかな相貌であった。


「なぜ私の名前を?」


「そりゃ存知とるとも。初の女官吏、紹輝の部下じゃな? 申し遅れた。儂は姓は鉄、名は幽玄。かつては紹輝の師であったが、今はただのしがない老人じゃ」


「局長の……」


 紹輝の知り合いならと安心し、そう尋ねながら老人の隣に腰掛ける。


 しがない老人というのは単なる謙遜であろう。

 でなければ、退官後も宮廷内においてもらえるはずがない。


「何のお師匠様なのですか」


「ふむ、紹輝には色々教えたのう。オナゴのお前さんには言えぬこととか」


「え、あ……そ……そうですか」

 

 聞けば、紹輝が入官後からの知り合いではなく、どうやら紹輝が幼い頃からの知り合いらしい。

 今も頻繁に茶や酒を酌み交わし、まるで親子のような、かなり親しい仲らしかった。


 この尊老は知っているだろうか――


「あの、ご隠居様……」


「鉄じいでよい」


「鉄じいさま、鏡紹輝様という人は、一体どういう方なのでしょう。とても優秀なのに今の地位に甘んじ、飄々として、でもどこか寂しげなものを感じます」


 こちらには手を差し伸べてくれるのに、逆にこちらが手を伸ばせば彼は距離を置こうとする。そんな気がした。


「……紹輝は実直な男じゃ。素直で、有能で。ただ一つ、大きなものが欠落しておる」


「それは、なんですか……?」


 僅かに花の甘さを含んだ風が、ザッと水面を撫でる。


「お前さん、今好いておる男はおるか?」


「え……。いえ、特に」


「紹輝はどうじゃ? 性格はともかく、なかなかいい面構えをしておろう」


「結構です」


 即答すると、鉄じいはがっくりと項垂れた。確かにこの間、庇うように抱きしめられたときはドキドキもしたが、別段そういう対象として見ているつもりはない。

 とはいえ少々言い方が直球すぎたろうかと、小春は本を抱き直す。


「ど、どうして突然話題を変えるんです?」


「いや、ちゃんと繋がっておるよ。……紹輝には執着心がない。執着心がないということは、恋もせぬということ」


「……恋を、しない?」


 彼の存在感に、人間味や実体を感じられないのは、それがゆえなのか。他の黄金世代たちと違って儚げで、ある日突然消えてしまいそうな淡さを感じるのも。

 たくさん眼鏡を集めていても、真に大切に思っているわけではないのか。


「じゃから小春……お主が」


「え!? わ、私にお願いされても困ります。鏡局長は私になんて微塵も興味ないみたいですし」


 今まで散々そう感じるようなことを言われてきた。小春が雪姫みたいな美人だったらいいのにとか、太っちょの豆豆とお似合いだとか。


 第一上司の紹輝と恋仲になるなど、想像もできない。


「そうでもない。儂の所へ来るときは、いつもそなたの話ばかりしておる。今日はああした、昨日はこうしたと、楽しそうにな」


 鉄じいに訳あり顔で微笑まれ、小春は妙に顔が熱くなるのを感じた。


「私がドジばかり踏むから、それをおもしろがっているだけです。絶対……。私なんかより、雪姫の方が局長も好みみたいですし」


「ほほほ、随分と謙遜するんじゃの。ん――? お、かかりおった!」


 ピクピクとしなる釣り竿をヒョイとあげると、何とも美しい銀色の体をくねらせる魚が水面から飛び出した。

 ただ掌に乗るほどの大きさであったが。


「やれやれ、朝から粘ってこれとは情けないの」


 まだ成魚には程遠い小さな魚を、鉄じいは針から取るなりポチャンと池に戻した。


「……紹輝の目のこと、雪姫は未だ気に掛けておられるか?」


「どうしてそれを……」


 白眉の下の、まだ鋭さを失っていない瞳が小春を見つめる。

 この尊老の目は何でも見通し、耳は何でも拾うらしい。常人はとうてい敵わない。


「……はい。だから、このままでいいのかなって思うんです。鏡局長は手柄を奪われて、視力を失って。雪姫のことだって知らされないままで……」


「誰がそう指示したのかは、知っておるのか?」


 風がざぁっ、とざわめく。


――林太保リンたいほ直々のお達しで……


 雪姫の言葉が脳裏を反響する。


「……はい」


 鉄じいの白髯が、流れる雲のようになびき、乾いた唇がそっと動いた。


「ならば一つ忠告しておく。――林家系に関わるな」


 鉄じいは再び、ポチャンと針を池に沈める。

 波紋が穏やかに広がっていった。


「李影も含めて。林太保はとんでもなく冷徹で欲にまみれた自己愛の強い男。お前さんのような者は関わらぬのが無難じゃ」


 林太保――

 太保とは大師、太傅と並び、三大公と呼ばれる絶大な権力を保持する国政の補佐人。

 官吏の頂点たる宰相と同列の権限を持ち、王の代弁者とも言われた。


 武官出身の林太保は、特に軍に対する全てを掌握していた。


 朱閃が政を放棄していたのをいいことに、先帝の死後はまるで軍を自分のもののように扱い、各地で辺境防衛と称して国境付近の街や村を襲わせ、食物や金品の強奪させて自分に献上させて大儲けしていた。


 もちろんそれを咎める者はいる。 

 だが、軍ぐるみで隠蔽を行うおかげで、証拠が一切出てこないのである。

 

 兵部省の官吏や将校らは、林太保のおかげで甘い汁を吸えている。彼らが林太保を裏切ることはない。

 それに、もし証拠を掴んだとしても、彼を敵に回すということは、すなわち国軍を敵に回すことにも値した。


 つまり――誰もあの男を止める事も罰することもできない。


「林太保の悪名は存じています。でも鉄じい様……李侍長はいい方だと思います」


「いいや。李影は林太保の傀儡かいらいじゃ。己の意志がどうであれ、李影は林太保の命には絶対服従する」


 先ほど、紹輝に剣を突きつけた、鬼気迫る李影の双眸を思い出す。


「どうして……、黄金世代筆頭のお一人ともあろう方が、悪名高い太保の言うことなんて」


「李一族は林家系の流れを汲む者。そして林家系は未だに鉄の掟として、古き習慣を強く残しておる。『宗家に逆らうべからず』と……」


「それは聞いたことがあります、でも、逆らっちゃいけないという決まりがある、ただそれだけのことで?」


「ただそれだけのことであり、それが彼らの全てなのじゃ。林家系の者たちは、幼き頃から宗家たる林家に従うよう色濃い教育を受けておる。林家系の者に死を命じられれば、彼らは嬉々としてそれに従うじゃろう。そんな彼らにとっては、宗家に逆らうことこそ悪。人として恥ずべき行為なのじゃ」


「まるで洗脳だわ」


「その通り。……良いな、小春。もう紹輝と雪姫のことには関わるな。雪姫に、紹輝の記憶喪失のことは言ってはならぬ。紹輝があの事件のことを覚えておらぬからこそ、林太保は紹輝を窓際へ追いやるだけで済ませておるのじゃ。お前さんがあの二人を近づけ、真実に触れようとすれば、林太保を筆頭に、李影や林家系まるごとがお前さんを潰そうとするじゃろう。御上すら、自由にできぬ男。お前さんも、折角官吏になれたというのに、こんなところで潰えたくはあるまい。お前さんは、お前さんのやるべきことをやりなされ」


 鉄じいの言葉が、重く小春にのしかかった。



◆……◆……◆



「何でみんなして、そんな複雑な事情を抱えてるんですか……」


 特務局の執務室で、小春は立てた本に顔を埋めた。紹輝にしろ、雪姫にしろ、李影にしろ、自分が今まで想像したこともないほど深い『裏事情』を心に宿している。

 平々凡々に育ってきた自分が関わるには、あまりに重い話であった。


「あれ、戻ってたんだ。春」


「局長……」


 扉を開けて入ってきた紹輝は、首に包帯を巻いていた。鉄じいとのやりとりの中での話を思い出し、少々居心地の悪さを感じる。


「大丈夫ですか……首の怪我」


「まあね」と微笑むと、紹輝は真新しい、美しい刺繍の手巾を小春へ差し出した。


「あの……?」


「高価な物を汚して悪かったね。今業者に洗濯して貰っているから、代わりに使って」


「いえ、でもこれ、結構高いんじゃ……」


 刺繍は銀糸だろうか。手巾自体の柔らかな手触りから言っても、相当値の張るものに違いない。

 紹輝は気にするなと言って手巾を渡すと、部屋の端に座って眼鏡を磨き始めた。

 本当に貰ってもいいものか。


「春は、ここから出て行きたいの?」


「え?」


「炎龍に引き抜かれたら、そっちへ行くんだろう?」


「……まあ、官吏として色々学びたいことはありますから」


「そうか」


 淡々とした口調だが、どこか引っかかりを覚えた。


「あ、もしかして局長、私にここから出て行かれたくないんですか」


 おどけて尋ねてみる。

『別にどうでもいいけどね』

 そんな答えを期待した。


「できれば……いて欲しい」


「――――っ!?」


 想定外の答えに、小春の心臓はあり得ないほど強く鼓動した。


「君の作る料理は最高だから」


 こちらを見つめ、綺麗だと思わず言ってしまいそうになるほど美しい笑みを浮かべる紹輝に、小春は頭が混乱にぐるぐる渦を巻くのを感じていた。


 女として興味は無いが、自分の作る料理は捨てがたいというのか。それとも別の意図が――

 もしかしたら、下っ端がいなくなることで雑用を担う物がいなくなることを懸念しているだけかもしれない。いや、きっとそうだ。


 相手は狐と呼ばれる男……色々ややこしい男だ。彼の発したその言葉をどう捉えるべきなのか、まるで見当もつかない。


(私は立派な官吏になりたいだけなのに。もうー……勘弁してください……よ)


 とはいえ小春も年頃の少女。まるで告白まがいのことをされれば、巻き起こる動揺に打ち勝てない。


 炎龍との勝負に、ますます手がつかなくなっていた。



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