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+第二十話+ 李影の闇

「……はあ、全然進まない……」


 ほこりっぽい府庫に、小春の苦痛を滲ませたうめき声が響く。


 開いた辞書を山のように積み上げ、文献という文献を読みあさっているというのに、一頁半を終わらせるのでやっと。

 炎龍がどれほど片付けているのかは見当もつかないが、日暮れまであと四刻ほど。それまでに、できる限りのことはせねば――


 特務局という窓際へ追いやられた以上、上の誰かさんは、おそらく自分が辞めるまでずっとあそこへ閉じ込めておくつもりだろう。


 この好機を逃せば、もう二度と抜けられないかも知れないという焦燥感に駆られる。


「くじけるな、小春っ……。いけいけドンドンっ」


 小春は謎のまじないを吐き、筆を握り直す。


「ついに職を変える気になったのか?」


 この低い美声は――と小春は座ったまま顔を上げる。


「李侍長……」


 腰に金色の剣を差した李影が、左腕に本の詰まった箱を抱えて佇んでいた。

 相変わらず、少し陰のある目元が美しい。


「いえ……そういうわけではないのですが」


 武官にしては細い指先で、李影は卓に広げていた紙を拾い上げる。

 途端に彼の柳眉がくしゃりとひそめられた。


「…………貴様は一体、三百席中、第何席合格だったんだ」


 軽くさげすむような、いや、どちらかといえば哀れむような目で見下ろされる。

 おそらく訳は間違いだらけで、目も当てられない出来なのであろう。


 小春は気恥ずかしさに、オホンと咳払いした。

 確かに彼女は上位合格ではない。合格することが目的だったのだから、別に順位などとりたてて気にするようなものでもないのだ。


 頭ではそう思っても、やけに喉がカラカラと乾いていく。


「…………――だ、第二百九十七席です……」


「……」


「ぜ、絶句しないでくださいっ。受かればこっちのもんなんです!」


「そうだな。だが、それであんな肥溜めに押しやられていれば、意味はない」


 李影は、そっと小春が訳を綴った紙を卓に置く。


「私だって、現状に甘えてばかりいるつもりはありません。今だってこうして炎侍中と訳の勝負に勝って、異動の機会を与えてもらおうと」


「炎龍に勝つ? 貴様は目を開けながら眠る癖でもあるのか」


「あーりーまーすぇーん!」


 失礼な一言に、小春は思わず立ち上がって、鼻の穴から牛のように息を吐き出す。


「おっほん……」


 遠くから聞こえる咳払い。

 思いの外大きな声が出すぎたらしい。戸口の図書寮の使部や他の官吏が迷惑そうな視線を小春に向けていた。


「ごめんなさ……あの、すみません」


 彼らに向かって何度も頭を下げる。

 そんな時だと言うのに、頭上からクツクツと喉を鳴らすような声が聞こえ、小春ははて、と顔を上げた。


「何笑ってるんです」


「いや……、さっきのお前の顔が……っ」


 李影がこんな風に笑っている所は初めて見た。

 口元を手の甲で押さえ、笑いを堪えるように肩を震わせている。普段は年齢以上に大人びて見えるのに、笑うと意外と幼くて、目尻の皺が可愛い。


 小春も、ポッと頬を染めながら仰ぎ見てしまうほどであった。


「女なのだから……少しは自重しろ」


 黒い瞳に涙を浮かべて微笑む李影はとても美麗で、腹立たしいことを言っているにもかかわらず許せてしまう。

 そんな自分はなんとゲンキンなのかと、小春は笑って頭をかいた。


「李侍長、今日もあそこで、二胡を? 雪姫も喜ばれるでしょうね。綺麗な旋律が聞けて」


 スッと潮が引くように、彼から表情が失われていった。


「……あれを弾いているのが、オレだとお気づきにさえならなければな」


 小春はその一言にドキリとした。


 彼が言いいたいのは、おそらくあの雪姫の襲撃事件のことであろう。

 世間を欺いている張本人を、あのお優しい雪姫は快く思っていないだろうと――


「いっそ……お前にでも話したいくらいだ」


 自嘲ぎみな笑み。

 李影の、失望に満ちた視線が空を漂う。


 あの事件は、李影の心にも暗い影を落としている。


 軍や武官の全てを掌握している林太保の命とあらば、逆らうことはできない。


 胸を刺す痛みも、喉を締め付けられるような苦しみも、それを吐き出すことは、決して許されない。


「あの……李侍長……」


「あれ、珍しい組み合わせだね」


 重々しいこの場にそぐわない、明るい声。

 小脇に本を抱えた紹輝だった。


 彼が挨拶に上げた手が下りるか下りないかのうちに、紹輝の視線が李影の持つ木箱へ向けられる。


「……もうやめれば、李影。そういうことは」


 「そういうこと」が一体何を指すのか、小春には分からなかった。

 だが、じっと睨みあうように立ち竦む二人に、聞けるような雰囲気ではないことは確かである。


「貴様に指図される覚えはない。黙って他局からの命令に従っていろ」


 李影が紹輝を見るその瞳からは、どこか氷のような冷たさを感じた。

 本の入った箱を持って、李影は踵を返す。


「君は言われたことしかしないもんねぇ……」


 李影がピタリと足を止める。


「……何だと?」


 紹輝はポケットに手を突っ込み、天井を仰いだ。

 

「君を見てると、哀れな操り人形が頭に浮かぶ。意志はなく、意味を求めず……。靴の裏を舐めろって言われても、無表情で従いそうだよねぇ。キミって心とかなさそうだし。ハハハ」


 カチッという金属音と何かがドサリと落ちる音が同時にしたかと思うと、小春が瞬きをしたその一瞬で、李影が紹輝に剣を突きけていた。

 本棚に背を押しつけ、喉元に剣先を食い込ませている。


「……っ!」


 ゾッとするような光景であったのに、当の紹輝は平然としていた。


 むしろ、剣を突きつける李影の表情の方が苦悶に歪み、汗が滲んでいる。


 ツと、鮮血が紹輝の首を汚し、小春はハッと我に返った。


「やっ、止めて下さい李侍長! 智の宝庫たる、神聖な府庫ですよ!? 剣は、不要ですっ」


 小春が二人の間に割って入ると、李影は忌々しげに手を離した。

 紹輝を睨み据えたまま剣を仕舞い、無言でその場を後にした。


 図書寮の使部も、その場に居合わせた官吏も、皆汗まみれで、ひたすら俯いて騒動に見てみないふりに徹する。

 異様な光景であった。


「大丈夫……ですか」


「大したことはないよ。ごめんごめん、びっくりしたろ?」


 傷は深くないようだが、まだ流血は止まっていないらしい。紹輝の掌で受けきれなかった赤い滴がじんわり漏れていた。


 そっと、懐から刺繍入りの白い手巾を取り出して手渡す。

 祖父に誕生日の贈り物にと貰った少々高価なものだが、見て見ぬ振りはできない。


「どうぞ」


「いいよ、こんな綺麗なもの。汚れる」


 紹輝は眉をひそめて、微笑みながら断りの言葉を口にする。

 普段は心ないことを平気で言うくせに、いざというとき妙に気を遣って距離を置こうとするのは何なのか。


「手巾くらい、何枚でも持っていますから」


 紹輝は礼を言うと、大人しく首に当てた。


「どうして、李侍長にあんな酷いことを言ったんですか……」


「……それより何話してたの、李影と。仲良しだったなんて意外」


「別に大したことではありません」


「じゃあ質問を変えるよ。ここで何をしてるの?」


 紹輝の眼鏡の奥の瞳が、どこかランランとして見えた。

 怖いわけではないが、妙に居心地が悪い。


「ですから……別に大したことでは」


「はあ……。君さぁ、ホウレンソウって習わなかった? 報告、連絡、そ……そ……早退?」


「『相談』っ。……分かってますが、あくまで私的なことですから」


「私的なことを、執務時間中にやっちゃだめだよね?」


「う……っ」


 そう言われては、ぐうの音も出ない。

 自分だって本ばかり読んでいるではないかと言いたいが、相手は一応上司。


 俯いて嘆息する。


「分かりました、言います。炎侍中から申し出があったんです。この古書の訳の質と量を競って、勝ったら自分の部下にしてくれるって。ですから」


 言い終わる前に顔を上げると、紹輝は小春が書いた訳文を手にしていた。


「ブ……っ、ダッハハハハ! こんな訳しかできないのに、よく科試通ったね。何これ、子供でももうちょっとマシなこと書くでしょ!」


 紹輝は体を仰け反るように大笑いし、怪我をしていたんだと慌てて体勢を戻す。


(爺爺……この人、上司だけど殴って良いですか……っ。良いですよねぇ!?)

 

 小春はワナワナと拳を震わせる。


「そう言う鏡局長は、第何席合格なんですか? まさか私と良い勝負だなんて言いませんよね?」


「忘れたよ。たいしたこと、なかったから」


 肩を竦める紹輝に、小春は「ずるい」と唇を尖らせた。



◆……◆……◆


 静かな執務室に、バンと机を叩く音が響く。


「ち、ちょっと待ってください、私が国王書記官を兼務って……。殺す気ですか? そうなんですか!?」


 いつも毅然とした大師書記官たる涼牙の、相当焦った様子に蘇大師も申し訳なさそうにこめかみを指で掻く。


「そう申すな。御上は今までまともに政をせなんだせいで、国王書記官の座が長く空位になっておったのじゃ。急ごしらえで用意するにも人手が足らん。黄金世代、第四席合格のそなたならできるはずじゃ。……何となく」


「なら……紹輝に就かせればよいのでは。第三席合格・・・・・の彼に!」


 蘇大師は机の上に両肘をついて顎を乗せると、細い息を吐いた。


「あれはダメじゃ。あの男は…………」


 蘇大師は垂れ下がった瞼の瞳を伏せた。


「オホン、とにかく頼んだぞ涼牙。良いか、政のことはもちろん、恋愛とはなんたるかをビシビシとお教えするのじゃぞ。全く……折角同じ屋根の下で寝泊まりできる環境を整えてやったというのに、接吻すらさせてもらっておらぬとはどういうことじゃ……っ」


 紹輝のことに言葉を濁した蘇大師に、涼牙も不審を抱かないわけではない。

 ただ、蘇大師も長く官吏に身を置いている。言う必要のあることなら、言ってくれているはずだろう。


「恋愛指南などは、私より炎侍中の方が適任かと」


 炎龍の名前が出た瞬間、蘇大師の眉がおそろしいほど素早く反応した。

 彼ともあろうものが、たった一人の若者をまるで蛇蝎の如く嫌っているらしい。


「あんなチャラチャラしたイケメン、儂は大、大、だぁいっ嫌いじゃ! 儂の娘どころか、嫁さんまで骨抜きにしおってぇー」


 官吏の妻や娘、女官の間で、炎龍の似せ絵が大流行していた。いつも持ち歩ける瓦版大のものから、壁に貼れるような巨大なものまで。

 果ては衣に顔が刺繍されたものやら、焼き物に彼の顔を描きつけたものなど、その人気はとどまることを知らない。


 当然大勢の官吏らの嫉妬の的であったが、侍中たる炎龍にもの申せる者など、ただの一人もいなかった。


 この蘇大師ですら、今を時めく若き才人を前にすれば、嫉妬にまみれた情けない悪口など吹き飛んでしまう。

 せいぜいこうして陰口を叩くのが関の山であった。


「これは未確認情報ですが、最近では壕女史にまで手を出し始めているとの噂もございますしね」


「何じゃとぉ!? いかん! 一刻も早く何とかするのじゃ涼牙! よその男に好いた女を取られたとあらば、御上がまた荒れる! 馬鹿が大馬鹿になるっ!」


「……承知いたしました。何としてでも、御上を恋愛上手に成長させてみせます」


 涼牙の瞳がキラリと輝き、遠くで朱閃がくしゃみをした。

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