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+第十九話+ 炎龍との勝負

「……完璧だ」


 感嘆の息を漏らし、炎龍は資料から顔を上げた。両足ははしたなくも机の上に乗せてあるが、その表情は真剣そのものであった。

 

「それ、小春ちゃんの作った資料ですよね。そんなにすごいんですか?」


 侍中付きの永世エイセイは、驚き入った表情をする炎龍にお茶を出しながら、そう確かめる。

 黄金世代筆頭の彼が太鼓判を押すほどとは、余程なのだろう。


 折角永世が淹れてくれた茶にも目を向けず、炎龍はひたすらに資料を見つめていた。


 炎龍が小春に官吏らしい仕事を依頼してやるようになって二週間。

 最初こそぎこちなく、失敗ばかり目立っていた小春も、今ではまるで水を得た魚のような働きぶりであった。


 いつもは気だるそうに書類に目を通している炎龍が、小春の作った書類だけは目を見開き、熱心に読み進めるほどである。


「ああ。依頼してから完成まで早ぇし、誤字脱字も一切ねぇ。字は丁寧で読みやすいし、内容もよくまとまってて、そんじょそこらの在職年数だけ長いオッサン官吏の作ったもんよりよっぽど使える。しかも……」


 挟み込まれた薄桃色のしおりには、資料中の達筆さからは少し崩された可愛らしい文字で「いつもお疲れ様です」とねぎらいの言葉が書かれてあった。


 それを見つめながら、炎龍はやけに表情を和らげる。


「こういうのってあれか? 女の気配りってやつか?」


「ええまあ、男はやらないことでしょう。そんなものは、無駄としか思えませんから」


「こういう無駄が、案外……。なあ永世、女の官吏がいるってのも、結構いいかもしれねぇな。殺伐とした男社会の中の癒やしっつうか」


「あなたの仰る『いい』や『癒やし』は、よこしまな匂いしかしませんよ……。ですが最近、彼女の顔つきが変わってきましたよね。一端の官吏らしくなってきたというか。動きが機敏になってきたというか。そこは素直に炎侍中のおかげでしょう」


「別にオレは何もしてねぇよ。官吏として学ぶべき事を学べるようにしてやっただけだ」


「とか言いつつ、嬉しそうにして。前にも申し上げましたが、絶対にダメですからね」


「は? 何が」


「あの方は御上の恋人です。手出しダメ、絶対!」


 炎龍は小春からのしおりを形の良い唇に当て、ハンと鼻で笑う。

 それがまた画になる色男なのだから、憎さや悔しさは倍増した。


「女に不器用な御上より、女慣れしたオレの方が気持ちよくさせてやれると思うけどな」


「ち、ちょっ、日の高いうちから何を……」


「いや、一緒にいて心地良いってことだ。女の好む物も言葉も態度も分かってるし。お前は一体、ナニ想像してんだよ」


 炎龍は『そういう意味』で言ったわけではなかった。永世は自分のふしだらな勘違いに顔を真っ赤にして咳払いする。


 それにしても――と、小春からの栞を引き出しにしまいこむ炎龍を見つめながら、永世は小春に感謝していた。


 いつも午後にはこの文麗殿からフラフラと外へ出て行く上司を、こうして執務室の椅子に座らせてくれている。


 それは炎龍が小春に依頼した資料を彼女が持ってくるのが、大体午後が多いからであろう。


 しかも、以前は「やるべきことさえやれば良いんだろ」というのが口癖であったというのに、最近は真面目に担当業務外のことも興味を持って勉強し、おかげで殺風景だった執務室にも、たくさんの書物が並び始めているのだ。


「……顔つきが変わったのは、小春ちゃんだけじゃないですけどね」


「ああ、御上のことか? ま、確かに突然政を始めた時はびっくりしたけどな」


「それもそうですが、もうお一方いらっしゃるじゃないですか」


 炎龍がなんのことだと眉をひそめる。


「感謝されていましたよ、民部省の渓民部卿。まさかあなたの方から長年の懸案事項に関わる協力を申し出てくださると思っていなかったと。お陰で解決できそうだと。治部省の紘治部卿だって同様のことを」


「……オレはゆくゆくは宰相になる身だからな。後々のために、あっちこっち恩を売ってるだけだ」


 頬を掻きながら憎まれ口を叩いているが、柄にもなく炎龍は照れているのだろう。

 珍しいものを見た、と永世は小さく笑った。


――「あのー、失礼いたします」


 扉の向こうから、女の声が聞こえてくる。侍女でないなら、この声の主は一人しかいない。


「小春か。入れ」


 炎龍は机から脚を下ろして椅子に座り直した。

 一瞬、炎龍が髪を直すような仕草をみせたのを、永世は見逃してはいなかった。


――「はい……って、あの、入りたいのはやまやまなんですが……」

 

 困ったような彼女の声に、炎龍が永世に顎で合図し、永世が慌てて扉を開けてやる。


「どうぞ。って、すごい書類の量ですね」

「ええ、まあ。レン様、ありがとうございます」


 入ってきた小春は、両手にたくさんの書簡を抱えていた。

 それを全て、ドサリと炎龍の机の上に乗せる。


「これ、依頼されていたものができたので、持って参りました。確認お願いします」


 ふう、と小春は額の汗をぬぐって、手で顔を扇ぐ。


 依頼したのは昨日だ。

 なのに、もうこれほどの量の資料を作成してしまうとは、と永世も炎龍も舌を巻いていた。


「小春、別に急ぎじゃなかったんだ。焦って持ってこなくても良かったんだぞ?」


「いえ、案外すんなり終わったので。また依頼があれば、引き受けますよ。例の如く暇ですし」


 すんなり終わるような物を頼んだ覚えはない――


 積み上がった書類の山を真摯に見つめながら、炎龍は口を開いた。


「なあ、小春……オレと勝負しねぇか?」


 扇いでいた小春の手がピタリと止まる。


「え? し、勝負……ですか!?」


「ああ。お前が勝ったら、お前を正式にオレの直属の部下にしてやる。特務局に追いやられてたお前も、一気に出世街道まっしぐらだ」


「や……やります! 是非ともやらせてくださいっ!」


 小春にとって、願ってもない申し出であった。

 あんな仕事のない窓際局からおさらばして、黄金世代、憧れの炎龍の部下となって、バリバリ官吏として働くことができる。


 無謀と分かりつつ、断るなどあり得ない。


 炎龍はニッと笑っておもむろに立ち上がると、近くの書棚から一冊の古く分厚い本を抜き取り、表紙を小春に見せた。


「勝負の内容は、この古文書の訳を、今日の夕暮れまでに作成することだ。より多く、より正確に訳せた方が勝ち。判定はそうだな……このオレにも遠慮しねぇ、あの太っちょの豆野郎にでも任せる。どうだ?」


 科試でもよく採用されるその古文書は、千年以上昔の偉大な政治家、白嵐はくらんの書いた最初で最後の書である。


 古文の素養だけでなく政治的、歴史的、文学的な知識も問われる超がつくほど難解な書物。


 学者の出した訳本がいくつか出回ってはいるが、そのどれもが訳が不十分で内容が支離滅裂になるほど読者泣かせの書物であった。

 科試でこの古文書の訳を問う問題が出たら、諦めて次へ行くべし、すこぶる時間の無駄! と教える学校もあるほどである。


 豆豆はどうしてか、大の得意らしいが……。


「わ、分かりました。私は今日他にすることありませんけど、炎侍中はそんなお時間あるんですか?」


 机の上にはたくさんの資料やら書類が置いてあるし、彼に意見を求めたいと相談にくる官吏も多いと聞く。


「それくらいのワリは食う。その代わり、オレをがっかりさせんなよ」


「もちろんです。炎侍中こそ、私を甘く見て手を抜いたりしたら許しません」


「上等だ」


 さっそく書庫へ行って借りてきます、と小春は急ぎ足で出て行った。


 そんな小春の健気な後ろ姿に、永世はため息をつく。


「あんな勝負ふっかけて。時間の制約はあるとはいえ、科試を首席で通ったあなたに、小春ちゃんが勝てるわけないじゃないですか」


 さっそく古文書を広げ、炎龍は仰け反るように座り、足を組みながら目を通し始めた。

 なにせ通常業務もあって、本当に時間に余裕がない。


「オレはあいつをかなり見込んでる。でき次第じゃ、勝ち負けにかかわらずあいつをオレの下に引っ張るつもりだ」


「え……そうなんですか」


 炎龍ともあろう男が、それほどまで彼女に期待しているとは。

 女を射殺すためにあると言われるような炎龍の視線が、今は古めかしい書物に食い入るように向けられている。


「あいつだけだ。真っ向からオレに挑んで、オレを本気で追い抜かそうとしてくれるのは。だから……手元に、置きたくなっちまった」


 炎龍は座り直して筆を取り、さっそく訳を書き付け始める。

 難解な書物の訳だというのに、迷いなど見受けられない。


 これが黄金世代首席の実力かと永世は目を見張りつつ、同時にとある疑念が浮かんだ。


「あの、まさかと思いますけど、惚れてませんよね……? 小春ちゃんに」


 頼むから否と言ってくれ! 面倒事はゴメンだ!

 永世はじっとり汗ばんだ拳を握りしめる。


「ああ。気持ちは今んとこ、僅差で雪姫の方が勝ってんな」


「そうですか、良かった……って、ちょ、それほとんど惚れてんじゃないですか!」


「煩ぇな。まだ完全じゃねぇんだからいいだろが」


 手を止め、永世に煩わしいと言いたげな顔を向ける。


「別にあなたが恋に迷おうが、絶望して変な恋の歌を詠もうが関係ありませんが、小春ちゃんだけはいいわけないでしょうがっ! あなた、ほとんど惚れそうになってる御上の恋人を自分の元に引っ張ってきてどうしたいんですかっ」


 永世のいうことは尤も。歌の下りは意味がよく分からないが。


 炎龍は、しばらく考え込むように天井を見つめる。


「そうだなぁ……。いつも頑張ってますね、って優しく慰めてもらうか」


 不敵な笑みを浮かべながら、サラリととんでもないことを言ってのけるモテ上司の言葉に、永世はひどい頭痛を覚えた。


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