理想的な教育
S氏は頭にコネクタをつなげた。
カチリ。軽い音とともに視界が白く霞む。
——学習内容の転送を開始します。
S氏の脳内に光が走る。知識が脳の皺に沿って流れ込み、記憶の谷間を埋めていく。
彼は数秒後、静かに目を開けた。
理解した。
かつて数年かけて学ぶはずだった高等量子統計が、今や心臓の鼓動ひとつの間に完了していた。
指導者も試験もいらない。
これこそ「理想的な教育」だと誰もが言った。
———
二週間後、S氏はもう一度コネクタをつなげた。
今度は「感情理論上級課程」。
だが転送が始まるや否や、白い光が濁り、警告音が鳴り響いた。
《対象の神経構造は、当該データの格納に適していません》
S氏の視界に浮かぶ赤い文字。
理解できなかった。
脳の構造が、限界を超えていたのだ。
彼はただ知った。
自分には理解できない領域がある、ということだけを。
———
三日後、S氏は「理想的な試験」を受けた。
コネクタをつなげば、結果は即座に表示される。
《合格》
S氏は安堵した。
自分の脳は正しく、社会に価値をもたらす構造をしている。
だが彼は疑問を持った。
——なぜ、自分の脳はこの構造をしているのか?
——もし教育が「構造に合わせる」ものなら、構造そのものを作り変えることは、教育とは呼ばれないのか?
———
翌年。
神経構造の編集技術が発表された。
学習ではなく、再設計による教育。
「個人の限界を超える教育」が、理論上は可能になった。
倫理委員会は即座に審議を開始した。
人を「学ばせる」ことと「作り変える」ことの境界はどこにあるのか。
S氏は思った。
——教育とは、理解することではなく、理解できる存在になることではないか。
———
十年後、S氏の子どもが生まれた。
出生時に神経設計スキャンが行われ、最適な知識構造が事前に組み込まれた。
コネクタをつなぐ必要すらない。
教育も試験も、すでに終わっていた。
子どもは生まれながらにして「合格」だった。
S氏は微笑んだ。
それは人類が求めた「理想的な教育」の最終形だった。
だがふと、思った。
——では、学ぶとは何だったのだろう。
子どもは無垢な目で言った。
「お父さん、なんでこんな事も分かんないの!」
構造的に理解できない概念は身の回りに溢れていると思う。
人は何かをモデル化をすることにより理解する。モデル化が十分でなく、モデルのパラメーターが多ければ多いほど理解できなくなる。モデル化していない生の状態をそのまま理解することはできないだろう。




