待つ者たち
男は、朝に起きて、湯を沸かし、茶を飲む。
それだけが一日のはじまりであり終わりでもあった。
彼にはもう職がない。退職したのではなく、ただやめたのだ。
理由は聞かれても説明できなかった。
「もう無理になった」とだけ言った。
それは怠惰の告白でも敗北の弁でもない。
彼にとって、それは一つの“決断”だった。
世界が高速で回転していくのを見ていた。
数字が、評価が、善悪が、消費が――
すべてが目に見えぬ歯車となって自分を噛み砕くような日々。
朝、電車に押し込まれ、誰かの靴のかかとを見ながら、
「これが生かされているということか」と何度も思った。
ある朝、彼は駅へ行かなかった。
それが始まりだった。
以来、彼は「寝そべり族」と呼ばれる存在になった。
だが男はその呼称を侮辱とは感じなかった。
むしろ、名づけられることによってようやく自分の輪郭を持った気がした。
寝そべる――それは社会の速度に対する最も穏やかな抵抗の形だ。
走ることを強制される者たちの中で、走らないという選択をする。
それは怠けではなく、拒絶であり、祈りに近いものだった。
男は金をためた。
贅沢をせず、ただ「籠るための資金」として積み上げた。
草を食み、安物のパンを噛み、冷たい水を飲む。
だがそこに貧しさの悲鳴はない。
彼の中では、それはむしろ贅沢の一形態だった。
「搾取されない貧乏」――それは彼が見出した唯一の自由だった。
昼、彼は小さなベランダに出て、
生ぬるい風に頬をさらす。
世界のどこかで人が競い、争い、叫びながら進んでいる。
彼はその音を遠くから聞いている。
時に笑い、時にうたた寝しながら。
――「己の運命の日」を待っているのだ。
彼にはそれが何の日か分からない。
死の日かもしれないし、突然の啓示の日かもしれない。
だがそれを知らぬまま待つこと、
その「待機」こそが彼にとって生の本質だった。
彼の部屋には、時々、女が来た。
女は働いている。
小さな企業で事務をし、給料をもらい、時に同僚とカフェに行く。
特に野心もなければ絶望もない。
彼女の生は、まるで静かな湖のように、波風がない。
「何かしたいことはないの?」と男が聞くと、
「別に」と彼女は笑って言った。
その笑みはあまりに軽く、あまりに透明だった。
女の中には「将来」という観念がなかった。
未来は彼女にとって、ただの“延長”でしかない。
今日と明日の間に差異を設けない。
それは愚かでも賢くもない、ただの無関心だった。
男はその無関心に奇妙な敬意を抱いていた。
社会に抵抗するのではなく、社会を透過してしまうような存在。
反抗の代わりに、無反応。
それは、彼の「拒絶」とはまったく異なる方向から、
同じ自由の領域に達しているように思えた。
女は、男の籠もる部屋で静かに茶を飲み、
「あなたって、幸せなの?」と尋ねた。
男は少し考えてから答えた。
「幸せではない。けれど、不幸でもない。」
「じゃあ、何なの?」
「静かだ。」
その言葉に、女はしばらく黙っていた。
そして、窓の外の風の音を聞いた。
二人は何も話さなかった。
沈黙の中に、ある共通の理解があった。
それは、何かを得るでも失うでもなく、
ただ“待つ”ことの同意だった。
社会は前へ進めと叫ぶ。
経済は動けと命じ、教育は夢を描けと諭す。
だが、夢を描くことすら拒否する者がいたとき、
その者を誰が裁けるだろうか。
「寝そべり」は、怠惰ではない。
それは、魂の姿勢である。
立つことを強いられる社会の中で、
あえて横たわる者の静謐な革命だ。
彼は、待つ。
女もまた、ゆるやかに生きながら、待っている。
何かが起こることを望んでいない。
だが、それでも時は流れる。
そして、流れることを止められないからこそ、
彼らは「動かない」という方法で時と向き合う。
夕方、空が茜色に染まる。
男は部屋の中で影を見る。
自分の影が、壁に溶け、輪郭を失っていく。
それを見ながら、ふと思う。
――自由とは、動かないことの中にも存在するのではないか。
人は行動をもって自由を語る。
選択をもって生を定義する。
だが、もしすべての選択が社会的装置の中にあらかじめ用意されているのなら、
「選ばないこと」こそが最も純粋な意志ではないか。
女が帰ったあと、男は机に向かい、
何も書かないノートを開いた。
白紙のままのそのページを見つめる。
言葉を刻まず、ただ空白を味わう。
彼にとって、空白こそが最高の表現だった。
そこには強制も、期待も、目的もない。
世界が意味を押し付けるたびに、
彼は白紙を広げて受け流した。
夜、静けさが訪れる。
遠くの高速道路の音が微かに響く。
彼は布団に入り、目を閉じる。
その瞬間、彼は「生きる」という動詞から解放される。
ただ「存在する」。
その無名の幸福の中で、
彼はまた、明日を待つ。
いや、待つこと自体を生きるのだ。
寝そべり族や専業子供。対岸の大陸でも日本と同じような問題は起きているようで
過度な競争社会、雇用不足等が原因であり、共感できる。
一方このような考え方を拡散することが向こうでは規制対象らしい。
確かに個人的にこの生き方を実践するだけなら問題ないが、
社会にこの考え方が広がるとそれは社会のブレーキとなる。
規制したくなる気持ちもわかる。




