「未来投資欄：脳の『もうひとつの自分』が市場を変えた日」 （科学解説委員・内藤悠介）

── 発行日：2042年11月12日。朝刊経済面、連載『技術と市場の境界線』より

二〇四二年の秋、われわれはある統計に震えた。国内の成人のうち、個人用仮想脳（Virtual Brain Twin、以後VBTと表記）を日常的に利用している人の割合が五十パーセントを超えたという調査である。かつては医療や研究向けの限定技術と見なされていたVBTが、投資、保険、労働、娯楽──ほとんどすべての経済領域に深く入り込みつつある。

VBTとは何か。簡潔に言えば、個人の構造的脳画像（高分解能MRI、拡散テンソル像）と機能データ（短期的な脳波・fMRI相当の動的記録）を統合した計算モデルである。これは単なる“シミュレーション”ではない。設計思想は「仮想の自分が現実の自分と同等の判断をシミュレートできる」ことにある。医療用途では、抗てんかん手術のリスク評価や精神療法の試行をVBT上で事前検証することで合併症や失敗率が激減した。だが二〇三五年以降、保険会社や雇用主、個人消費の場面でVBTが採用されると、普及速度は指数的に加速した。

経済的な理由は明瞭だ。VBTは不確実性を可視化する。ある製薬企業は新薬の副作用を被験者のVBTで数千通りシミュレートし、臨床試験のデザインを最適化して開発期間を二年短縮した。保険業界は契約者のVBTを用いた個別化リスク評価で保険料設定を精緻化し、結果として資本効率を向上させた。人材募集では、VBTを使った事前評価で配属先の適合性を高精度で推定できるため、離職率と採用コストが低下した。こうした「予測精度の向上」が、企業収益の底上げにつながったのである。

では、なぜ五十パーセントという閾値が早期に達したのか。端的には三つの技術的・社会的ブレークスルーが揃ったからだ。第一に、個々人の脳結線図と機能データを結び付けるための計測技術が実用域に入り、ミクロ単位の構造情報と同時活動のマッピングが大量に得られるようになった。研究コミュニティが十年前に達成したマウス視覚皮質の大規模マップは、その方向性を示した試金石であった。第二に、AIを利用したモデル圧縮とニューロモルフィック推論により、かつて天文学的だった計算コストが現実的水準にまで低下した。第三に、規制と法整備が整い、プライバシーとデータ所有権に関する標準契約が普及したことで、企業と消費者の信頼回路が確立された。

とはいえ「普及」には影の側面もある。まず経済的不平等である。初期の数年、VBTの高機能版は富裕層に集中し、「最適化された医療・教育・投資機会」が格差を拡大した。政策当局は補助プログラムで基礎VBTアクセスを国民に保障したが、プレミアム機能は依然として購買力に左右される。次に市場の同質化リスクだ。企業がVBT上の最適行動を基準に雇用や融資を決めると、多様な意思決定が収斂し、適応力の低下やシステム脆弱性が生じうる。金融市場でその兆候が見られたのは、あるヘッジファンドがVBTシミュレーションに基づく戦略で一斉に取引した直後の大きな価格変動だ。自律的に動く「仮想自己」が多数存在する市場は、局所合理性が全体不安定を生むことを教えてくれた。

倫理面はより根深い。VBTは「あなたの意思決定を高忠実度で模倣する」ため、人格と同一性の境界が曖昧になる。家族が亡くなった後、残されたVBTをどこまで“本人”として扱うか。法律は段階的に追いついたが、文化的コンセンサスは各国で分かれる。保険契約の条項に「VBTを用いた後の意思は契約条件に影響する」と明記されたケースがあるが、これが人々の選択を無意識に制約することを懸念する声が消えない。