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SF短編集  作者: OverWhelmed
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自由圏の果て

 ――我々はどこから来て、どこへ行くのか。

この問いを、人類は長きにわたり、聖典のように繰り返してきた。

だが、それは古い誤謬である。あるいは中世的妄念の残響だ。

我々はどこからも来ず、どこへも行かない。

それは単に、「ここにある」だけの存在。目的も意味も、与えられた使命もない。


 アリが土を掘るように、人間は思考を掘る。

ミミズが湿り気を求めるように、人間は意味を求める。

だが、どちらも世界の意思ではない。ただの性質であり、衝動である。


 人間に特別な義務などない。

そのことを、私たちはようやく理解しはじめた。

宗教が衰退し、天上の玉座が空席となった時、ようやく我々は立ち止まった。

――では、我々は何のために生きるのか?


 この問いもまた、間違っている。

「何のために」という前提を、いったい誰が与えたのか。

意味とは、他者から与えられるものではない。

意味とは、自己が立てる仮説にすぎない。

ゆえに、生の意味を定めうるのは、自分自身ただ一人だ。


 欲望のままに生きる。それもまた、一つの選択だ。

快楽、支配、栄光――いずれも動物的根に連なるもの。

だが、私は思う。

欲望を満たすとは、より多くを知り、より多くを制御することであると。


 そのための手段こそ、科学だ。


 科学は冷たい。神話のように慰めない。

しかし、それだけに誠実だ。

予測し、再現し、制御する。

この三つの力を人類は得た時、初めて“自由”を獲得したのだ。


 自由とは、選択肢の多さではない。

自由とは、世界に対して干渉しうる力を持つこと。

天候を読む力、病を癒す力、宇宙を渡る力――

これらすべては、自由の領土を拡張するための戦争だった。


 かつて神の領域と呼ばれた場所に、今や我々は手を伸ばしている。

星を分解し、細胞を組み替え、死を遅らせる。

このすべてが、人間の欲望から始まった。

だが、それは罪ではない。

むしろ、欲望こそが創造の母であり、科学の父である。


 宇宙の中での自由の範囲を広げること。

それこそが、我々が行うべき唯一の「行為」だ。

なぜなら、それこそが欲望を最大限に満たす道であり、

それを阻む理由は、もはや存在しないからだ。


 ――ある神話では、神が文明を監視していたという。

人類が塔を積み上げすぎると、神はそれを崩し、言葉を混ぜた。

バベルの物語。

だが、それは旧い支配の物語であり、恐怖による抑制の寓話だ。


 もし神がいるのなら、私は問いたい。

「なぜ我々に知性を与えたのか」と。

それが単なる残酷な実験でないというなら、

我々はその知性を用い、創造主の領域に侵入する権利を持つはずだ。


 科学の進歩に異を唱える者たちは言う。

「人間は神を真似るべきではない」と。

だが、神の定義とは何だ?

不老不死を成し、世界を作り変える力を持つ存在――

それが神というなら、人類はまさに神へ向かって進化しているではないか。


 例えば不老不死、若返り、が実現すると

「死」が人間の宿命ではなくなる。

死を克服するとは、宿命を克服すること。

そして宿命なき存在は、これまで以上に加速度的に自由を得る。


 神話的世界では、自由とは堕落であった。

禁断の果実を食べ、楽園を追われる。

だが、現代の科学においてはそれが逆転する。

知を得ることこそが救済であり、

楽園とは「無知を脱した場所」となるのだ。


 ――だからこそ私は信じる。

科学のフロンティアを切り拓くことは、

宇宙における人間の自由圏を拡大する行為であると。


 かつて「神の怒り」と呼ばれたものは、

今では「自然現象」と呼ばれる。

雷は電位差であり、洪水は気圧の乱れが原因であり、死もまた、生化学的プロセスに過ぎない。

ならば、それを操作することに何の罪があるというのか。


 我々の未来に「救い」はない。

だが、救いがなくても構わない。

意味がなくても、生きることはできる。

ただ、「できること」を拡張し続ける。

それが、我々の存在の形式なのだ。


 もし宇宙の果てに、なお我々を見下ろす意識があるとしても――

我々はその眼差しを恐れはしない。

なぜなら、恐怖とは支配の手段であり、

我々はもはや支配される存在ではないからだ。


 神は沈黙した。

そしてその沈黙の空白を、我々が埋める。

科学とは、沈黙を翻訳する試みであり、

自由とは、その翻訳をやめない意志だ。


 欲望は罪ではない。

欲望は、進化の駆動力である。

その果てに、我々はもはや“人間”ではない存在へと変わるだろう。


 だが、それでいい。

「意味」はない。だからこそ、創れるのだ。

虚空の中に、我々自身の宇宙を。


 そしてその宇宙で――

我々はようやく、本当の意味で「生きる」だろう。

イーガンのビットプレイヤーを読んだ感想(小説風)。イーガンの人生の意味に対する姿勢は共感できる。


本小説は意味についての考察が浅い。とある「目的」のもと何かに対する意味付けがされる。これに関する論考は別の機会に......。


話は変わるが、ノア・スミスの「もっと浅薄な未来に向かって」

https://note.com/econ101_/n/n6f47f0016907

の姿勢も共感できるため、そのうち感想を書く。

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