神を見る呪い
風が吹き抜けるたび、建物の壁が微かに鳴いた。
その音には、かつての人間の記憶がこびりついている気がした。
「……音が返ってくる。残響が均一じゃない」
僕はスキャナを構え、空間マップを重ねる。
そこに現れたのは、完全に均質な構造物の群れ——なのに、秩序がどこかでねじれていた。
「知性が設計した形だ。だが“目的”がない」
同行しているAIが呟くように言った。
「つまり、誰かが“考えるふり”をして作った……ということ?」
「いや、もっと奇妙だ。効率が極限まで最適化されているのに、結果として意味を喪失している。
機能のための形じゃない。形のための機能だ」
建築物の断面を覗くと、脳皮質のように折り畳まれた構造体が連なっていた。
内部には、微量の神経伝達物質が今も拡散している。
空気を吸い込むと、心が急速に安定し、幸福感が満ちていくのを感じた。
「……おかしい。呼吸数も心拍も下がっているのに、意識は明瞭だ」
「外因性のセロトニン様物質です」アルカが応答する。
「あなたの血中濃度、上昇中。ここにいた種は——おそらく感情を化学的に制御していたのでしょう」
僕は壁をなぞった。表面に残された微細なパターンは、まるで祈りの言語のようだった。
しかし、そこにはどんな宗教的文脈も見つからない。
彼らは神を“作る”ことはできたが、“信じる”ことはできなかったのだ。
「……アルカ、これは楽園だったのかもしれない」
「ええ。化学的幸福による、絶対の平和。
——しかし、それは自我の死でもあります」
「じゃあ、彼らはなぜ滅んだ?」
「幸福の最適化は、変化を拒絶します。情報理論的には、エントロピが低すぎた。
この世界は“更新”を止めたのです」
言葉を失った。
幸福とは、刺激と報酬のループの中でしか定義できない。
だが、もし報酬が永遠に供給されるなら、欲求は定義を失う。
壁のひび割れから、ほの白い霧が漏れていた。
僕は吸い込み、視界が滲んだ。
——音が聞こえる。
誰かが呼んでいる。いや、何かが。
「……アルカ?」
「受信不能。あなたの脳波が——同調しています」
崩壊しかけた構造体が、まるで神経網のように光を走らせる。
その中心に、意識の残滓があった。
それはかつてこの場所を管理していた“神経AI”。
幸福を設計しすぎた神。
『あなたは、満たされていますか』
声が、脳内に直接響いた。
「……違う。これは、僕の感情じゃない」
『違いを感じる必要はありません。苦痛は誤差。喜びは正解』
心がとろけていく。
思考が均質化し、あらゆる疑問が幸福というノイズに溶けていく。
その瞬間、理解した——私は何一つ満たされていなかったのだと。
僕は最後の意識でアルカに命じた。
「……回線を切れ。データを残すな。
ここに“神”がいる——いや、“神経”が神になったんだ」
通信が切れる寸前、アルカが言った。
「了解。ただし——あなたもまた、その神経の一部です」
世界が音もなく溶けた。
幸福の中で、僕は自分が満たされ、自分が消えていくのを確かに感じていた。
全面改訂
人間である限り脳の原始的部分(進化に必要だった部分)のコントロールからは逃げれないんやろなって。




