顔の美醜という概念の必要性(投稿テスト)
ある朝、目覚めたとき、私は顔を識別できなくなっていた。
鏡の中にいる人物が誰なのか、理解できない。目鼻立ちはある。だが、それが私自身であるという確信が持てない。
これは病ではなかった。政府の「調和促進法」に基づく新たな社会実験の一環として、私を含む数千人の被験者が人工的な「相貌失認状態」に処されていたのだ。目的は、外見による差別の根絶。──つまり、顔の美醜という概念を社会から消去することだった。
この制度の始まりは、十年前のSNS炎上事件からだ。顔の美しい者ばかりが可視化され、フォロワー数を競い、広告価値を持ち、政治的影響力さえ握るようになった時代。
それに対して、「美とは暴力である」という主張が広がった。顔が他者の評価を先取りし、思想や人格の価値を歪める。だからこそ、視覚情報そのものを制限すべきだ──それが、当時の「正義」だった。
初期段階では、AIが顔をモザイク化し、プロフィール写真が抽象画に置き換えられた。だが、やがてそれでは不十分だとされた。
人間の脳は、わずかな輪郭や影からでも美を再構築してしまう。つまり、美的判断は意識以前の、神経の階層に潜んでいる。
ゆえに、最終的には脳の側を変えねばならなかった。
そして私たちは、倫理委員会の承認を経て、「視覚的優越の削除」を受けた。
最初の一週間、私は混乱した。
街を歩いても、誰もが同じように見える。表情の変化も、眉の動きも意味を持たない。親しい同僚に挨拶しても、声を聞くまで誰か分からない。
しかし同時に、驚くほど穏やかな安心感もあった。嫉妬が消え、比較が消えた。目に映るすべての人間が「ただの存在」になった。
2ヶ月ほど経ったある日、私はふと気づいた。
風景が、以前ほど美しく見えない。
かつて私は朝焼けを愛していた。薄橙の光がビルの硝子に反射し、空気を震わせる瞬間。だが今は、その色の変化に感動できない。
なぜだろう。
人の顔を美しいと思う力と、自然の秩序を感じ取る力が、どこかで繋がっていたのではないか。
人の顔に「調和」を見いだす感覚。それは、生命に潜む秩序の名残なのだ。顔の美は、単なる外観ではなく、進化の記憶──生きるべきものを選び取る本能の痕跡である。
その力を削ぎ落とすことは、つまり、世界の構造を感じ取る力を去勢することだった。
研究センターで同じ処置を受けた被験者の一人、ナオミという女性がいた。
彼女は静かで、いつも白衣のポケットにペンを三本入れていた。
ある日、休憩室で彼女が言った。
「ねえ、最近ね、夢の中でだけ人の顔が見えるの。起きるとすぐ消えるけど、夢の中ではちゃんと“誰か”ってわかるのよ。」
その声に、私は妙な懐かしさを覚えた。顔が見えないのに、声の調子だけで心が震えた。
もしかすると、これが失われた美の代替なのかもしれないと思った。
だが同時に、声すらも標準化される計画があると聞いた。トーンや響きの違いが感情的優劣を生むからだという。
次に削られるのは、声、香り、姿勢──。
やがて、人間は「ただの輪郭」になるのだろうか。
その後、私は密かに研究記録を読み漁った。そこには驚くべき記述があった。
この処置を受けた者たちは、意思決定能力が低下する傾向を示していた。
食事の選択、服の好み、恋愛対象の判断。すべての選択に時間がかかり、結果として「判断しない人間」が増えたという。
つまり、美的判断を失うことは、価値の優先順位をつける能力を失うことでもあった。
「良い」と「悪い」を感じる前段階には、「好き」と「嫌い」がある。
だが、その“好き”を生むのは、美的な引力だ。
人間は理性だけではなく、美によっても方向を知る生き物なのだ。
ナオミはやがて姿を消した。
噂では、地下の実験棟で「逆刺激実験」に志願したらしい。
失われた美的認識を取り戻す試み──電磁刺激による神経の再接続。
危険を伴うが、成功すれば「顔を見分ける」だけでなく、「美しいと感じる力」まで戻る可能性があるという。
私は夜、夢の中で彼女に会った。
ぼやけた輪郭の中で、確かに笑っていた。
その笑みを見た瞬間、世界が急に彩りを取り戻した気がした。だが、目覚めると何も残っていなかった。
ただ、胸の奥に焦げつくような痛みだけがあった。
それはたぶん、美を喪った人間の幻肢痛だ。
数週間後、ニュースが流れた。
「美的刺激回復プログラムは倫理的理由により凍結」と。
ナオミの名前は出なかった。
いま、私は報告書を書いている。
タイトルは「感覚の去勢と倫理的廃墟」。
私たちは確かに差別を消した。だが、同時に人間らしさを消した。
美を削除するということは、世界から“良い”を抜き取ることだ。
善悪の判断もまた、結局は美の派生だからだ。
調和を見抜く目を閉ざせば、倫理の形もまた見えなくなる。
私はもう一度、鏡の前に立つ。
誰なのか分からない顔が、私を見返している。
それでも、私は微笑んでみる。
その動作の中に、かつての人間の“意味”を残すために。
──美を失えば、人は方向を失う。
それは差別の終わりではなく、進化の退行なのだ。
投稿テストのあとがき
『顔の美醜について』というテッド・チャンの小説を読んで思った感想(小説風)
美的感覚は割と本能に近いし、それを操作する事は人間の条件を変える事になる。
美のデメリットについてはまたいつの日か




