第四十四話 傍若無人
「忠吾の野郎…。
何処ぇ行きやがったんでぇ…」
永岡は佐吉の裏長屋へ来ていた。
しかし、佐吉を見張っているはずの北忠や広太達が、誰一人見当たらないのだ。
「こいつぁ、巳之吉か英二が現れたんでやすかね?」
隣の智蔵が顎をさすりながら聞いて来る。
「ああ、かも知れねぇな。
しっかし、そんなりゃその場でとっ捕まえてもいいもんなんだがな?
繋ぎでも入って、跡をつけてんのかねぇ?」
「そいつも考ぇられやすね…。
あっしらはここで待ちやすかぇ?」
「そうさなぁ。まぁ、何れにしても佐吉にゃ忠吾達がついてんでぇ。
オイラ達がここで待ってても芸が無ぇや。それよか、無駄足かも知れねぇが、巳之吉の裏店へ戻って張ってた方がマシだろうよ」
「へい、そうでやすね。
巳之吉の野郎は警戒してんでやしょうし、ここへの繋ぎは別の者にさせるに違ぇねぇや。
旦那の言う通り、橋場町へ戻るとしやしょう」
永岡と智蔵は、帰宅するかも知れぬ巳之吉の裏店へ戻る事にしたようだ。
「ったく、オイラ達ぁハズレ引いちまったみてぇだな?」
「ふふ、戻ったら、巳之吉の野郎が帰ってるかも知れねぇじゃねぇですかぇ?」
「まあな。それもそうだな?」
永岡はそう言って苦笑いすると、
「んじゃ行くとするかぇ?」
と、気を入れ直すように言って踵を返した。
*
「兄ぃ、流石に遅すぎるんじゃねぇでやすかぇ?」
「そうだな…。
やっぱり俺たちも酒でも頼んで粘ってりゃ良かったか…。
いや、言っても仕方あるめぇ。伸哉、行くぜっ」
広太が苦虫を潰したような顔で、伸哉を引き連れて一軒の蕎麦屋へ入って行く。
広太と伸哉が英二の跡をつけ始めて程なく、英二は一軒の蕎麦屋へ入ったのだった。
昼時と言う事もあり、広太達は英二が飯にでもしたのだろうと思い、自分達も英二に続いて蕎麦屋へ入り、気づかれないように蕎麦を手繰りながら、英二を見張っていたのだった。
だが、英二が蕎麦屋を出る段になり、
「おやじ、やっぱ、ちょいと呑ませてくんな?」
と、先ほどまで座っていた席に戻り、酒を飲み始めたのだ。
広太達は英二に続こうと、お代を置いて出るところだったので、一度持ち上げた腰を下ろす事も出来ずに、その後は英二が出て来るのを外から見張っていたのだった。
広太達が外で見張り始めて、かれこれ半刻(一時間)以上は経っている。
ちょいとにしては長過ぎだ。
焦れた伸哉が口に出した事で、広太は踏み込む事を決めたのだった。
「おやじ、ここで呑んでた野郎はどうしてぇ?」
広太は蕎麦屋へ入るなり声をかけた。
英二の姿が見えなかったのだ。
「は? ああ、あの酒を頼み直した客ですかぇ?
それでごぜぇやしたら、酒も舐めた程度で直ぐに裏から出て行きやしたよ?
帰りに厠を使わせてくれってぇんで、そのまま帰ったんでさぁ」
広太と伸哉が苦い顔を見合わせる。
「あの客が、なんかやらかしたんで?」
消沈する二人に恐る恐る蕎麦屋のおやじが聞いて来る。
「まあな。これからまたやらかすかも知れねぇがな…。
それよりおやじ。御用の筋で聞きてえんだが、あの野郎は良く来んのかぇ?」
「いえ、数度顔を見せたくれぇだと思いやすよ?
あの客ぁ、ああして大抵は裏から帰って行くんでさぁ。だから良く覚えてるんでやすよ」
「そうなのかぇ」
「だったら兄ぃ、野郎にゃ気づかれてねぇかも知れやせんぜ?」
「まあな。でも見失っちまった事にゃ変わりねぇや。
もう野郎が出てってから半刻ほど経ってらぁ。取り敢えず佐吉の店へ戻って報告しねぇとな?」
広太はぼやくように言う。
そして念の為、蕎麦屋のおやじに英二の住処を聞いてみたが、生憎とおやじは全く知らないとの事だった。
「……ありがとうよ、おやじ。
そんじゃ伸哉、ひとっ走りするぜ」
おやじの話を聞き終えた広太は、心無しか沈んだ声で礼を言うと、伸哉へは気を入れ直すように言い放つ。
「へい、合点でぇ!」
と、心得た伸哉が威勢良く応え、二人は気を新たに走り出すのだった。
*
「あっ、あの人…」
みそのは思わず独り言ちて立ち止まった。
向こうから近づいて来る男に見覚えがあったからだ。
みそのは忘れ物を取りに、月旦の道場へと戻っていた。
そして今し方、何の気なしに振り返ったところで見覚えのある男、英二を認めたのだ。
みそのは気づかれないように道の端に寄り、英二をやり過ごす。
「これは催涙スプレーは後回しね…」
英二の後ろ姿を見ながらポツリと独り言ちると、みそのは何処かで見ているであろう、源次郎の姿を探す。
「ま、きっと見ててくれるわよね…」
源次郎の姿は見つけられぬも、みそのは希望を込めて独り言ち、英二の跡を追い始めたのだった。
*
「おい、忠吾っ!
お前ぁ何こんなとこで彷徨いてやがんでぇ!?」
「あ、永岡さん。そんな大きな声を出したら、びっくりするじゃありませんかぇ」
北忠は飄々と永岡に応えると、
「お前なぁ、でけぇ声にもならあな。
お前らは見張りの最中だったろうが。それなのに、こんなとこで何やってやがんでぇ!?」
永岡は呆れと怒りで苛立ちながら吠え立てる。
「いや、だからお土産に草餅を…」
「だからって何でぇ、だからって!
しかも土産に草餅だぁ?
てやんでぃ、このすっとこどっこいっ!」
北忠は目を瞑りながら首を竦め、拳骨でも喰らったような顔で硬直する。
永岡が巳之吉の長屋のある橋場町へ向かっていたところ、楊枝を咥えた北忠と吾妻橋の袂で鉢合わせたのだった。
武士は食わねど高楊枝、とは言うが、北忠の場合はたんまりと食べている様子だ。
楊枝の使い方としては正しいのだが、永岡としては、腹をさすりながら高楊枝して歩く北忠が、なんとも癇に障ったようだ。
当の北忠はと言うと、あの後は翔太と佐吉を従え、わざわざ浅草まで回って蕎麦を食べた帰りだ。これは予定通りに、北本所の草餅屋でスイーツツアーを締め括る為のルートである。
そんな行程事情により北忠達は、吾妻端を渡ろうとしていたところだった。
「お前は同心の務めを何だと思ってやがんでぇ?
美味いもん食うのが務めかぇ?
違ぇだろ? 今日だったら佐吉をしっかり見張って、巳之吉や英二を捕らえるのが務めじゃねぇかぇ。それをぷらぷらと勝手に外に出やがって…しかも佐吉を連れ回すたぁ、一体お前は何を考えてんでぇ!」
「いやいや永岡さん、これには…」
「楊枝を咥えながら話すんじゃねぇやぃ!」
永岡は楊枝を上下させて話す北忠をどやしつける。
「それもそうですね。失礼しました…。
えーと……?
そうそう、永岡さん。私はただ単に美味しいものを食べたいだけで、出歩いていた訳では無かったのですよ?
それが証拠に見事英二を見つけて、今は広太と伸哉が跡を追っているのですよう」
「ちっ」
北忠はドヤ顔で鼻腔を膨らませる。
その隣の翔太がバツの悪い顔をしているので、永岡は経緯を察して舌打ちで応える。
「そりゃ本当でやすかぇ、北山の旦那?」
智蔵も翔太の顔で凡その流れは知れたのだが、とにかく先を聞く為に相槌を打つと、
「本当も本当なのさぁ、親分。
私はね、美味しいものを食べながらもお勤めはしっかりなんだよぅ。
それにどうせ食べるのだったら、美味しい方がいいに決まってるじゃないかぇ?
親分、あれだよ。美味しいと言う事は、作っているお方が、それだけいい仕事をしているって事だからね?
美味しいものを食べると言う事は、そう言ういい仕事をしているお方から、特別な力がもらえるって事なんだよ。ふふ、それを食べた私が、いい仕事が出来ない訳がないじゃないかぇ?
ただ、金子が少々かかるのが玉に瑕なのですがねぇ…。
でも私は御勤めには頗る熱心ですから、そこのところはケチケチしな…」
「煩えやいっ!
で、広太達との繋ぎはどうなってんでぇ!?」
北忠が長々と語り出したので、永岡は堪らずにどやしつけた。
智蔵が横で苦笑いを浮かべている。
「ああ、繋ぎは佐吉のお店でございますよ。
居場所を突き止めたら、どちらか一人が戻って来る手筈になっています。抜かりはありませんよ、永岡さん。
そんな訳でもありますから、疲れた体に草餅で出迎えてあげようとですね、これから…」
「向こうの方が早く着いてるかも知れねぇじゃねぇかぇ?
んなもん買いに行ってねぇで、早く戻って報告を待ちやがれってぇんでぇ!」
「あ、はい…。いや、もうここまで来ましたら、草餅屋は帰り道にありますので、二人の為にも購って帰って良いですかぇ?」
「ったく、勝手にしやがれってぇんでぇ…。
とにかく、入れ違えにならねぇ為にも早く戻ってやれよ?
オイラ達ぁ取り敢えず、巳之吉の住処へ行ってくらぁ。何も無ぇようなりゃ、オイラ達も直ぐに引き返して佐吉の店へ向かわぁ。
それまで佐吉の店で待機しててくんな。よろしく頼むぜ」
永岡は呆れつつも、北忠なりの思いやりを酌んで、口調柔らかく返した。
「分かりました、永岡さん。ではお待ちしております。
ほら、そうと決まったら急ぐよ!」
北忠は嬉しげに返事をすると、嬉々として翔太と佐吉に声をかけ、ちょこちょこと小股で歩いて行った。
「あいつらぁ、草餅なんかよりウチで酒でも飲ませてやった方が、よっぽど喜びそうなもんでやすがね?」
智蔵が吾妻橋を渡る北忠の背中を見ながら、ボソリと言うと、
「そりゃそうさね。
ま、英二の足取りが見えて来たみてぇじゃねぇかぇ?
また歯車が噛み合って来たんだったら、草餅でもなんでも繋ぎに入れて、べったり離れねぇようにしてもらおうぜ?
へへ、とにかくオイラ達ぁ橋場町へひとっ走りするぜっ」
と、永岡は言うや、颯爽と歩き出す。
それには智蔵も、
「合点でさぁ!」
と、声を弾ませて永岡に続いた。
二人とも手掛かりが見つかり、幾分気持ちが上がったようだ。
「あ、佐吉っ」
吾妻橋を渡り切って意気揚々と歩いていた北忠が、急に立ち止まって声をあげた。
「なんでござんしょう旦那」
「お前、さっき巳之吉は店を出て姿をくらましてるって言ってたね?」
「へい。旦那にお話した通りで…」
「だったら、なんでさっき言わないんだい!?
永岡さん達が巳之吉のお店へ向かっちゃったじゃないかぇ…」
「あっしに言われやしても…」
北忠は大事な用件を伝え損ねていた事を思い出し、あろうことか佐吉のせいにしようとしている。
佐吉は困惑しながら翔太をチラリと見るが、翔太は諦めたように首を振って、それを答えとする。
「翔太も翔太だよ。お前も一緒に聞いていたじゃないかぇ?
親分さんも無駄足を踏んじゃうんだよ?
ほら、何やってんだい。早いとこ行って知らせて来なさいよぅ?」
「あ、あっしがでやすかぇ?!」
首を振っていた翔太が、自らの鼻頭を指して絶望する。
「当たり前だよ。お前は若くて足が速いじゃないかぇ?
お前には一つ多く草餅買っといてあげるから、大急ぎでお行きっ!」
「………」
翔太はクラリと立ち眩みを覚えながら、
『てやんでぃ、このすっとこどっこい!』
との言葉をギリギリ呑み込み、無言で堪える。
そして、
「が、合点でぇ!!」
と、自棄気味に言い放ち、踵を返して全力疾走するのであった。




