第十五話 会えぬ承さんと笑う庄さん
「中々どうして…。
はぁぁあ、難しいもんさねぇ?」
言葉とは裏腹に、永岡の声音や表情は晴れやかな様にも見える。
先ほどの腕試しで良い汗をかいたからかと言うと、永岡は然程汗をかく程の事もなかったので、そうでも無いのだろう。
「旦那ぁ、何か良い事でも思い出したんでやすかぇ?」
「ん? 別にそう言う訳じゃねぇんだがな。あんまりにも掴めねぇんで、逆に清々しくってな?」
「深川じゃあ、あんなにぼやき節だったってぇのに、変われば変わるもんでやすねぇ?
気分転換の腕試しがよっぽど効いたんでやすかぇ?」
「まあ、あれはあれで良かったな?
しかし智蔵、オイラはそんなぼやき節だったかぇ?」
「勘弁してくだせぇよ旦那。そんで気分転換に腕試しってぇ、話になったんじゃねぇでやすかぇ?」
「ははは、そうだったそうだった。悪りぃ悪りぃ。
しっかし、深川の承さんってぇ野郎だが、笑えるくれぇ出て来ねぇもんだな?
こいつぁ笑うしかねぇだろ?」
「確かに笑えるくれぇ空振りしちまいやしたねぇ…ふっ」
智蔵も思わず小さく笑ってしまう。
もうすぐ夕七つ(夕方の四時くらい)の時の鐘が鳴る頃合いだろう。
永岡達は順太郎の長屋を出て、かれこれ二刻ほど経っている。
その間に蕎麦屋で昼餉を済ませたとは言え、その時間を除いても三時間半程は歩き通しで、剣術道場の所在を探し回っていた。
今は北本所をぐるりと回り切り、吾妻橋も程近い、大川沿いの茶店で一休みしているところだった。
永岡達は乾いた笑い声をあげながら、吾妻橋を渡る人の流れを、ただぼうっと目で追ってしまう。
人通りは夕刻に近いせいか、蟻が連なる様に続いている。
余程疲れているのだろうか、二人は暫くの間黙ってそれを眺めていた。
*
「へぇ〜。
道場って意外と狭いんですねぇ?」
「いやいや、みそのさん。ここは道場とは言え、趣味の様にやっているだけですから、道場としては小さい方なのです。
でも小さくともここの先生は、剣の腕も然る事ながら人品も宜しいお方で、中々良い道場なのですよ?」
みそのの反応を予想していたかの様な笑みを浮かべ、酔庵は何処か誇らしげに返している。
自身番で休んでいたはずのみその達が、何故この様な場所にいるかと言うと、興に乗った酔庵の、
「先ずの手始めには、打ってつけの道場があるのですよ?
少しばかり遠いいのですが、この度の趣旨を考えても、是非最初に見学なさると良いですよ?」
との自信あり気な言葉で、早速その道場へ赴く運びになったのだった。
みそのが多少動いても痛みが無いと見た、好奇な目を輝かした酔庵の口車に乗った形だ。
酔庵が少しばかり遠いいと言うだけあり、そこは日本堤の先、浅草山谷の更に先の百姓地にあった。
これにはみそのも、時刻が昼八つ(お昼の二時くらい)を過ぎていた事もあり、自分が住まう呉服町と逆方面になる為、少々渋り気味だったのだ。
しかし、酔庵の是非にもとの推しに負け、浅草山谷の道場行きを承諾したのだった。
みそのの承諾を得た酔庵は、すぐさま幸吉を駕籠屋へ走らせていて、みそのと酔庵は自身番の前から、駕籠に揺られてやって来たのだった。
「ほれ幸吉、お前は先に行って、庄さんへ知らせておくれ?」
みそのと言葉を交わしながら外から道場の様子を眺めていた酔庵は、先ずは訪いを知らせに幸吉を走らせる。
庄さんと呼ぶからには、お目当ての人物は相当の知己なのだろう。
幸吉は承知しましたとばかりに、酔庵へ頭を下げると、不器用に身体を揺らしながら駆け出した。
「ここの道場主の先生は、庄さん、と言うお方なのですか?」
「ええ。庄さんとは、随分と昔からお付き合いをしていましてね?
今でも時折訪れては、手合わせをしているのですよ。とは言っても、専ら碁の方なのですがね?」
酔庵は嬉しそうに碁を打つ仕草をして見せる。
どうやらここの主と酔庵は、昔からの碁敵の様だ。
「改めて見ますと、外からは普通の百姓家にしか見えないですし、場所的に人が来易い感じもしないのですが、道場として繁盛なさっているのですか?」
「ほっほっほっほっほ。いや、なんとも手厳しいものですな?
しかしまあ、みそのさんの言は的を射ていらっしゃいます。
まあ、お連れしておいてなんですが、庄さんのこの道場は、決まった門弟と言うのが居ないのですよ。いえ、でも腕は確かですよ?
何たって庄さんは、無外流の月丹先生の高弟でいらしたのですからね?
庄さんは月丹先生の道場をお引きになってから、こちらへ移り住みまして、この隠宅で道場を開いたのですよ。
庄さんに稽古をつけてもらいたいお方は、殊の外多ございましてね。当時から遠路遥々人がやって来ているのですよ?」
みそのの率直な疑問を、酔庵は納得とばかりに笑い、補足する様にこの道場の内情を語った。
無外流の月丹とは、江戸でも名前の聞こえる剣客、辻月丹の事だろう。
しかし、みそのはその様な世事は知らない。
「なんだかお偉い先生だったりしそうですね…。
私なんかが押し掛けてしまって大丈夫なんですか?」
みそのは先程とは打って変わり、外からは平凡な百姓家と見紛う様な道場を、恐々と眺めながら酔庵へ問いかける。
「ほっほっほ、今度は妙に畏まってしまいましたな?
大丈夫ですよ、みそのさん。最初に言いましたが、庄さんは剣の腕も然る事ながら、人品が頗る宜しいので心配無用です。
それに、きっとそんな遠慮などしていたら、逆に拍子抜けしてしまいますぞ?」
「はあ…」
どうやら庄さんと言う道場主は、酔庵の話し振りでは思いの外砕けた人物の様だ。
しかし、みそのはこの道場主に一度大物感を覚えた為、一気に憂鬱な心持ちになっていた。
この酔庵も大物と言えば大物なのだが、みそのはそれを忘れてしまっている。
むしろ酔庵の方が、江戸の庶民で知らぬ者は居ないと言って良い。あくまで屋号の話でだが。
「まあ、直接お会いになれば分かりますよ。
外からの様子は、もう堪能しましまかな?
宜しかったら、早速中へ入りましょう」
「はい…」
含みを持たせて笑う酔庵に促され、みそのは緊張気味に返事をする。
そして踵を返した酔庵の後に続き、形ばかりの木戸門を抜けて中へと入って行った。
みその達が中へと入ると、幸吉が玄関口に立って待っていて、
「いつもの様に庭から回って、客間でお待ちくださいと言われました」
と、言付けを伝え、先に立って歩き出した。
「ここ、ですか?」
みそのが酔庵に振り返り、困惑気味に問いかける。
客間と言っても、隠宅道場の板張りの床に、ぽつねんと座布団が二つ置かれただけだ。
酔庵が和かにみそのへ頷いた時、
「この時刻にすーさんの訪いとあらば、今日は泊まりでとことん打つのかと思いきや…」
と、隠宅道場の主人が碁盤を抱えて顔を出した。
何とも物珍しそうに、酔庵の横にいるみそのに目を向けている。
白髪を綺麗に総髪に結い上げた小柄な老人だ。
一見華奢そうな細い身体は、良く見れば剣術家と言うだけあり、肩ががっしりとしていて胸板も厚く、顔も艶やかに張っていて若々しい。
そして、その顔にちょこんと乗っかる、小さな豆の様な円らな眼は、悪戯小僧の様な光りを放っている。
白髪なので老人と分かるが、何とも年齢不詳な御仁だ。
「どうやら、そう言う訳では無さそうじゃのう?」
やや落胆した様な素振りを見せながら、戯けた口調で言う庄さんこと、隠宅道場の主人。
「こう言う訳ですので庄さん、勝負はまたの機会になりますな?」
酔庵が悪戯っぽく返して、みそのを促し道場へ上がる。
「さてさて、これはどう言った酔狂ですかな?
わしへの意趣返しにしては、少々本気過ぎて笑えぬぞ?」
座布団をみそのへ譲り、自らは直に床板へ腰を下ろすと、庄さんはやっかむ様に口を開く。
「いえいえ、誤解ですよ庄さん。ふふ。
まあ、これが意趣返しでしたら痛快なのですがな?
こちらのお方はみそのさんと言いまして、縁あって先ほど知り合ったばかりなのですよ。
みそのさん、こちらが庄さ…いや、この道場の主人、杉田庄左右衛門様ですよ」
酔庵はやっかみを笑いながら往なすと、みそのを紹介する。
二人の遣り取りが、何の事やら意味も分からず聞いていたみそのは、
「あ、はい。杉田様、みそのと申します。突然訪ねて来てしま…」
「そう畏まらずに、みーさん。
それにわしの事は、庄さんで良いですぞ?」
と、急に振られて慌てて挨拶するも、庄左右衛門に途中で遮られ、気安くする様に請われる。
流石のみそのも、いきなりの「みーさん」呼ばわりに狼狽えてしまう。
「すーさんの知り合いだ。これからは、みーさん庄さんの仲で行こうじゃないかぇ?」
「ずるいじゃないですか庄さん。そうしましたら私も、みーさんすーさんの仲でお願いしますよ!」
庄左右衛門の言葉に、酔庵が口を尖らせると、
「いやいや、すーさん。すーさんはこんなべっぴんさんに、すーさんなんて呼ばれでもしたら、それこそ酔った様に赤面するのが落ちじゃぞ?
無理はいかぬ、無理は。わしの様に普段から修行しとかんとな?」
庄左右衛門はそう言って胸を張る。
その庄左右衛門の得意げな顔を、酔庵は悔しそうに睨みつけている。
そんな遣り取りを目を丸くしてみていたみそのが、縁側で座っている幸吉に目を向けると、幸吉はその様子を微笑ましく眺めていた。
そして幸吉はみそのの視線に気づくと、にこりと微笑んで頷き返す。
みそのは幸吉のその様子に、酔庵と庄左右衛門は普段からこの様な関係なのだろうと、容易に察したのだった。
あれこれと酔庵と庄左右衛門の戯れ合いが続き、みそのが「庄さん」「すーさん」と、何度も言わされる一幕がありつつ、酔庵が今日の趣旨を庄左右衛門へ伝えた事で、みそのは庄左右衛門にも、今回のお百合と順太郎の話をする羽目になった。
「ほうほう、それはなんとも乙な話じゃな?
のう、お玉? わしもそのくらい若い頃にみーさんと出会っておれば、お前をもっと早くから可愛がってやれたかも知れんのう?」
みそのの話を聞き終えた庄左右衛門が、後ろに控えていた女に声をかけると、
「もう、いやですよう先生。みなさんの前で、恥ずかしい事は言わないでおくれよう?
それに先生の若い頃なんて、わたしゃ未だ産まれてもいませんよう…」
と、女は顔を赤らめ照れながらも、庄左右衛門の背中を叩きながら嬉しそうに返している。
先ほどからお茶を出してからも居残り、一緒に話を聞いていた女中を、みそのは少々訝しみながら見ていたのだが、まさかそう言う仲だとは思わず、目を丸くして二人の遣り取りを見ていた。
なにせ、いくら庄左右衛門が年齢不詳で、思いの外若く見えるとは言え、きっと六十そこそこだろう。
にも関わらず、このお玉と呼ばれ、みそのが女中かと思っていた女は、どう見ても二十歳前の娘にしか見えない。
もしかしたら、お玉の肉付きの良さから、もう少し行っているかも知れないが、それでも二十歳前半だろう。
みそのが繁々とそれを見ていると、
「ふふ、お玉さんは元々、この近所の百姓の娘さんでしてね?
庄さんがここへ越して直ぐに、女中奉公に来ていたお方なのです。
それがいつの間にやら、この庄さんが手を付けていまして、可哀想な事に夫婦とされてしまったのですよ」
と、酔庵が忌々しげに、みそのが浮かべていた疑問を明かしてくれた。
「もう、手を付けたなんてぇ、酔庵さんもいやですよう。
それに、わたしゃ先生と一緒になれて幸せなんですからね?」
「おうおう、お前は愛いやつじゃ。今夜はわしも頑張るからのう?」
「もう先生ったら、いやですよぉう…」
なんだか変な空気になって来てしまい、みそのはもぞもぞと座り直しながら、また何気無く幸吉へ目を向けると、幸吉は微笑ましくソレを眺めていた。
幸吉がみそのの視線に気づくと、先ほどと同じ様ににこりと微笑んで頷き返す。
みそのは幸吉の先ほどと変わらぬ様子に、普段からこの様な二人なのだろうと、呆れるやら感心するやらである。
「ゔ、ゔんっ」
「……?」「……!」
酔庵の咳払いで、二人は漸く他人の存在に気づいた様に離れる。
「で、今日はわしに、何か聞きたい事があっての事なのじゃな?」
庄左右衛門は居住まいを正して厳かに言うが、みそのは思わずクスリと笑ってしまう。
「すみません…。
聞きたい事と言いますか、ただ道場を見て回ろうと思っていただけなので、余り質問とかは用意してないのですよ…」
みそのは笑ってしまった事を詫びると同時に、自らの無計画さに気づいて恥ずかしくなってしまう。
「でも、せっかくですからお聞きしていいですか?」
「うむ、みーさんは素直で良いのう?
まあ、わしで良ければ何でも聞くが良い」
庄左右衛門は先ほどの厳かな声音から、元の長閑な声音へと変えて応える。
みそのを孫でも見る様に、小さな目を細めている。
「道場運営で一番大事な事はなんですか?」
「運営かぃ? はて…」
庄左右衛門は、剣の極意や稽古法などを聞かれると思っていたのか、予期せぬ質問に細めていた目を真ん丸く見開き、助けを求める様に酔庵をチラチラと見ている。
しかし酔庵は先ほどの意趣返しか、にこにこするだけで、知らぬ振りを決め込んでいる。
「ーーーーうぅぅむ…………っ!
そうじゃな、門人じゃろうな!?」
「ぷっ…」
暫く黙り込んでいた庄左右衛門が、何かを思いついた様に目を見開き、力強くみそのへ答えてみせたが、その答えを聞いた酔庵は、思わず小さく吹き出してしまう。
「何が可笑しいのじゃ?!
商人だって客が第一じゃろうに。
道場運営となれば、門人が居なくてどうすると言うのじゃ。違うかすーさん?」
吹き出した酔庵に、庄左右衛門は口を尖らせながら文句を言う。
「ほっほっほっ、その通り!
庄さん、その通りですがね。みーさんが聞きたいのは、商人で言えば、どんな工夫をすればお客様が来てくださるか。そんな商売繁盛の極意的な物があれば、聞きたいと言っているので御座いすよ?
要は門人が集まり、恙無く運営して行くには、どの様な事が一番大事になって来るかです。そこのところを教えて差し上げてくださいな?」
「教えろと言われても…………どうだぃ?」
「いやですよう、わたしゃ先生じゃないんだから、分かるはず無いじゃないですかぇ!?」
「そりゃそうか、ふふ。
みーさん、お玉は分からぬと言っておるがな?」
庄左右衛門は困った様に笑い、軽口をみそのへ返す。
「なに言ってるのですか庄さん。庄さんなりに答えて差し上げれば、それで良いのですよ?
何もみーさんだって、庄さんが言った事をそのままやるのでは無いのですから、気楽に答えて差し上げてくださいよ?」
庄左右衛門が困り顔を最後に話を終わらせようとした為、すかさず酔庵が口を挟んで来たのだ。
「そうじゃのう…」
「いえ、無理なさらないでください。私が変な事聞いたのがいけないんです」
「うむ。良いのじゃ、みーさん。
しかし、わしが一番大事だと思うのは、やはり剣の腕前だとは思うのじゃがな?
じゃが月丹先生を見て来たで、それも一概に言えんのじゃよ?」
庄左右衛門は首を竦めてみそのを見やる。
その視線にみそのが首を傾げると、
「月丹先生はお強い。
じゃが、稽古が厳しくてのう?
そのせいで最初の頃は、門人も直ぐに辞めてしまったものじゃよ。
大名などに手心を加える事もせんので、運営と言う面では火の車じゃったのじゃ。
まあ、月丹先生は本物の強者じゃから、それでも今があるのじゃがな?
とにかく、何を思って剣を握るかは、人それぞれじゃから何とも言えんのじゃよ。
それでも言うとするのであれば、わしが思う一番は、誰もが認める剣の腕前じゃな。その志を持つ事じゃ。
じゃが、これは諸刃の剣と言っても良いのじゃ。分かるかぇ?」
「え、ええ。何となく……。
剣術だと分かり難いのですが、例えばすーさんでしたら、究極の良いお酒を作って売り出したとしても、誰もが簡単に手が出せないくらいの高値だったら、お客様も限られてしまいますものね。
せっかくの良いお酒でも、それでは沢山の人には買ってもらえませんものね?
それでも沢山のお客様に、お酒の良さを分かってもらって、しかも買っていただけるようなるには、相当な工夫と時間が必要になりますから、利益が出るまで続けて行けるかどうか、怪しくなってしまいますからね?
とにかくそのくらい難しい商材で勝負をする、って意味合いなのかしら?」
「くっくっくっく…わっはっはっはははは」
「ほっほっほっほっ、こりゃいい、みーさん。面白い例えですな?
まあ、そんなところでしょう。ねえ庄さん?」
みそのなりの解釈で例えた答えに、庄左右衛門と酔庵は大笑いし、庄左右衛門は酔庵の問いかけにも、笑いながら頷くばかりだ。
「まあ、良い酒を良い頃合いの値で売り出す事が、道場を運営する上でも大事になって来るって事じゃな?」
庄左右衛門は涙目になりながら、可笑しそうに手をひらひらさせて言うと、庄左右衛門は更に、
「その酒を売り出す際は、是非わしにも味見させておくれ?
じゃがその前に…ほれお玉、客人が所望の様じゃ。ちょいと熱いの付けておくれ?」
と、上機嫌に続け、戯けた口調でお玉へ酒を所望する。
「お酒の話が出たからって、催促されてた訳じゃ無いでしょう?
もう、先生ったらお酒が飲みたいだけで、いつもそうなんだから…」
お玉は子供を叱る様にそれへ返すと、それでも嬉しそうな顔をして、酒の用意に腰を上げるのだった。




