76.聖女が堕ちれば地獄に花が咲く
横たわったティルダの周囲に、たくさんの人が詰めかけているようだった。老いた彼女の目からは光はほとんど失われているけれど、息遣いや身じろぎによる空気の揺れ、囁き声などで気配を感じることができる。人里離れた森の奥で、ひっそりと息を引き取ろうとしていたというのに。別れを惜しんでくれる人たちが、思いのほかにいるようなのが嬉しかった。
浅い呼吸をするティルダの唇に、ひんやりとしたものが触れた。枕元に控えた少年が、海綿に吸わせた水で湿してくれたらしい。
「聖女様、お水を──」
食事を取れなくなった彼女を慮ってだろう、砂糖の甘味が加えられた水を味わいながら、ティルダは苦笑する。目を半ば閉じたまま、唇の端を少しだけ持ち上げて。
(私は聖女ではないのに)
何度訂正しても、この少年は頑として呼び方を変えなかった。行く宛がないというから、養子先を見つけるまでのつもりで迎えたというのに、従者を自称して憚らず、いつの間にか居ついてしまって。強引にでもほかの人に託すこともできたけれど、昔のカイを思い出すと懐かしくて身の回りの世話を任せてしまった。それに──そう長く拘束してしまうこともないだろうと、もう分かっていたから。
ティルダを聖女扱いするのは、少年だけではなかった。どこからどう聞きつけたのか、身分も年齢も様々な人たちが、次々と彼女の傍に上がっては祈りを捧げてくれている。
「間に合って、参じることができて良かった……」
「聖女様に心からの感謝を申し上げます」
生き返って、カイと手を取り合ってエステルクルーナの王宮から逃れたのは、もう五十年以上も前のことだ。あの日から、ティルダは──少なくとも彼女の主観では──ただの人間として生きてきた。元聖女であることで、良かったこともあれば悪かったこともある。その肩書を利用したことも、ないではない。ただ、どの場合でも聖女であった時の心を忘れずに振る舞った。そうすべきだと思ったからというだけで、特別なことではないと思うし、そもそもカイを始めとしてたくさんの人に助けられたからこそ通ったことだ。
ただ、結果としてティルダは最期の日まで聖女と呼ばれることになってしまった。怪我や病を癒したとか、戦いを終わらせたとか、不正を懲らしめたとか死んでも生き返ったとか──そんな、恥ずかしくなるような逸話を世間に広められて。一番あり得なさそうな最後の話が現実なのを知るのは、彼女自身とカイくらいなものだったけれど。
「御魂が天に昇られますように」
「楽園で休まれますように」
彼女が永遠の眠りに就いた後も、「聖女ティルダ」の噂は後世にまで語り継がれてしまいそうな気がする。本当に、分不相応で困ったことだけれど。でも、彼女の物語は「そうして楽園に召されました」、では終わらないのを、ティルダ自身がよく知っている。
だから、どうしても訂正しておきたくて、ティルダは吐息のような声を漏らした。
「いいえ、私は地獄に行くわ」
ざわり、と。辺りの空気が強張って波立ったのが感じられて、少し笑う。聖女と呼ばれる存在が地獄に堕ちるのが、そんなに不似合いなのだろうか。もう、すでに起きたことだというのに。
「カイを待たせてしまっているもの。早くまた会いたい……」
この場にいるのは、カイを知っている人たちも多い。ティルダに常に寄り添って、守り支えて──時に手を汚してくれた彼のことを。彼との関係は、友人のようでもあり、夫婦や恋人のようでもあって、彼女たち自身にも名づけることができなかった。ましてほかの人に分かるものでもないのだろうけれど、大切な存在だった、ということだけは伝わっているようだった。すすり泣く声が聞こえて、ティルダは少し申し訳なく思う。
(本当に、もうすぐ会えるの。だから全然泣かなくて良いのよ)
死ですら、恐れることでも悲しむことでもない。死後の世界がどのようなものであるかを彼女はもう知っていて、誰と会えるかも分かっている。何十年ぶりかの再会が、楽しみなくらいなのだ。
(色々あったけど、良い人生だったわ。そちらではどうだったかしら……?)
老いた身体には、夢見ることさえ重荷になっているようだった。だからティルダは、全身の力を抜いて思考も休めた。後のことは大丈夫だと、任せられる人たちに囲まれて逝く幸せを噛み締めて──彼女は、最期の息を吐いた。
* * *
ティルダが目を開けると、壮麗な天井が彼女の真上に広がっていた。見覚えは──ある。青と銀を基調とした精密な細工を覆う、霜と氷の白いヴェール。地上のどんな宮殿も叶わないであろう美しい宮殿なのに、凍えるような寒さと沈黙に包まれている。嘆きの氷原の、魔王の居城だ。人の世の数十年など瞬きのほどとは聞いていたけれど、驚くほど何も変わっていない。
最初の時と同じようにがばりと起き上がって──ティルダは、その動きの軽やかさに自分自身で驚いた。遠い昔、彼女が小娘だったころでないとできない動きだった。そうだ、そういえば天井の細工が見えるのも、つい先ほどまでの彼女にはできなかったはずなのに。
(死んだ時のままの身体ではないのかしら? 身体が軽くて──とてもよく見える)
目の前に広げてみた手は滑らかで白く、足に纏わりつくのも以前ここで着ていたワンピースだった。……エステルクルーナが実験の時に彼女に着せていたものだと知ったのは、後になってのことだった。
(カイは? みんなは? ──ジュデッカ様は?)
久しぶりのとても鮮明な視界が、眩しくて。辺りを見渡しながら瞬くティルダの視界に、黒い影が落ちた。そして耳には、男性の低い声が。氷の床を踏み鳴らす長靴の音、舞い降りる黒い羽根。何もかもが久しぶりで──そして、苦しくなるほど懐かしい。
「目覚めたか、罪人」
振り返ると、そこにはジュデッカが佇んでいた。背に黒い翼を翻し、記憶にあるのと変わらぬ美しい姿で。ううん、ひとつだけ違う。最初の時とは違って、彼は少しだけ微笑んでいた。
「──はい。お待たせして申し訳ありません」
ティルダが微笑み返すと、ジュデッカの背中越しに幾つかの足音が聞こえてきた。滑らかな絹が奏でる衣擦れの音、剣と鎧が擦れる金属音、鋭い爪が氷を削る音。目を上げれば、彼らと彼女らの変わらぬ姿が、すぐそこにある。
(地獄に堕ちて、こんなに嬉しくて幸せに思うことがあるのかしら?)
心の片隅の小さな疑問は、より大きな再会の喜びに掻き消された。足を踏みしめ、両腕を広げて、ティルダは抱擁に備えた。彼女のほうへ駆けてくる人たちを、ひとりずつ抱き締めるために。
「あの御方」の厚意なのか、彼女の魔力の残滓ゆえか──ティルダの足もとに、小さな花の蕾がひとつ、芽吹いた。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
最終話タイトル=作品タイトルが決まると気持ちが良いものです。
活動報告でちょっとしたあとがき的なことを書いておりますので、よろしければご覧ください。
評価・ご感想をいただけますと今後の励みと参考になりますので、お寄せいただけると嬉しいです。
また、入れ替わりで新連載を初めております。
「転生した悲劇の王妃は今世の幸せを死守したい」(https://book1.adouzi.eu.org/n3988hq/)です。
よろしければ新作もよろしくお願いいたします。




