74.彼の真実
ハミードたちは、影も残さずコキュートスから消えてしまった。彼らの仲間たちと同様に。残った砂の国の盗賊は、もうただひとり──ラーギブだけだ。
ティルダが手を差し伸べ、声を掛けようと息を吸う気配を感じたのだろう。ラーギブは素早く飛びすさって彼女や、シルヴェリオたちほかの罪人から距離を取った。慣れてない猫が人を見て逃げるような、俊敏な動きだった。
「──別れの挨拶ってやつだろ? ゆっくりじっくりやれば良いじゃん」
「ラーギブ……」
彼との距離は、それでも数歩ていどしかないけれど、そのわずかな距離もティルダには埋められないのは明らかだった。絶対に、ラーギブのほうが身軽で足が早いから。だから、彼がにやりと笑うのを──あるいは、顔を歪めるのを見つめることしかできない。
「あんたはもう良いって言っただろ。地上で──あんたの時代で、勝手にすれば良い。……じゃあな」
短い別れの言葉を告げるなり、ラーギブは身を翻すと風の速さで駆け去った。玉座の間の大扉を抜けて、まだ凍った外の廊下へと。
追いかけようと足を踏み出したティルダを、けれどシルヴェリオが引き止めた。武人の手は大きくて力強くて、ぽん、と軽く肩に置かれただけで彼女を制するのに十分だった。
「彼なりの餞別なのでしょう。受け取っておくのが良いかと」
「シルヴェリオさん、でも」
「後は、私が様子を見ますから。たぶん、長い付き合いになるのでしょうし」
見上げた薄青の目は、穏やかに微笑んでいた。そう、確かにこの人もラーギブも、当分コキュートスに留まるのだろう。そして、シルヴェリオなら小さな子供を見捨てたりしないと信じられる。どうして地獄にいるのか不思議なくらい、とても優しい人だと知っているから。
「そう、ですね……。私が言うのも変ですけど、よろしく、お願いします」
「シルヴェリオ……将軍? って、仰るんですよね」
と、ティルダが肩の力を抜いて笑ったのと入れ替わるように、カイが進み出た。
「何て言うか、ティルダ様が世話になったそうで。俺からも、御礼を言います」
カイが勢い良く頭を下げて、そして上げると、金茶の髪が綺麗な軌跡を描いた。ラーギブほどでなくても、彼もシルヴェリオに比べれば小柄で華奢だ。まるで子供がお利口な挨拶をしたのを見た時のように、シルヴェリオはにこりと笑うと、軽く背をかがめてカイと視線を合わせた。
「とんでもないことだ。ティルダのお陰で罪に対する罰を受け続けることができるのだから。私のしたことなど釣り合いはしないだろう」
カイが笑い返すのを予想して、ティルダはふたりに向き直ろうとした。お互いをお互いに、紹介してあげようと思って。信頼するふたりが知己を得るのが、嬉しくて。でも──
「貴方は、何の罪で嘆きの氷原に堕ちたんですか?」
「カイ。そんな、失礼じゃ……」
カイの表情は真剣そのもの、しかも、硬い声が短く問うのは、罪人に対するにはあまりに不躾で踏み込んだことだった。自らを罰すると言って、自身を傷つけ続けたシルヴェリオならなおのことだ。でも、ティルダの制止に、カイはちらりと申し訳なさそうな目を向けただけだった。胡桃色の目は、もう、シルヴェリオだけをじっと見据えている。
「シルヴェリオ将軍、という有名な人は知っています。その人は、対立する者たちを和解へと導いた《調停者》と呼ばれることが多い」
「立派な人物もいたものだな」
カイにつられて、ティルダもシルヴェリオの顔を見つめてしまう。何気なく相槌を打ったようでいて、動揺を隠そうと必死になっているようにも見えるのは──気にし過ぎだと、思いたいのだけれど。
「でも、俺たちに伝わっている話は違うんです。俺たちの……国とも呼べない、幾つかの村と森の辺りでは、っていうことなんですけど」
ティルダの国が虐げていた地では、ということだ。天の玉燕妃の真実を誰も知らなかったように、歴史に伝わっていることが真実とは限らないのは、分かる。語る者が違えば、歴史も変わるかもしれないことも。
(シルヴェリオさんは、良い人だわ……)
嫌な予感に怯えながら、ティルダは心の中で呟いた。彼女はシルヴェリオの生前もカイの故郷の事情も知らないから、口に出して執り成すことはできないのだけれど。
「……その将軍が、和睦のために尽力したのは本当らしいです。でも、それは逆らう者を黙らせるってことだった──と、俺たちは聞いています。先祖は、貴方を信じて会議の席に就いて、そしてその場で殺された」
しん、と降りた沈黙に居たたまれなくて、ティルダはそっと辺りを見渡した。けれど、玉燕も梅芳も唇を結んで首を振るだけ。自身の罪に向き合うことができるのは自身だけだと、コキュートスの罪人は、誰もが承知しているかのように。
「あ──」
過去を暴かれる恐怖か、罪悪感か──いずれにしても、寒さではない理由によってシルヴェリオの顔は強張った。その表情で分かってしまう。カイの一族が伝えてきたのは、実際にあったことなのだと。
「私、は」
シルヴェリオのことだから、弁明しようというのではないだろう。でも、ティルダにも覚えがあるけれど、あまりに重い罪に対しては、軽々しく謝罪の言葉を述べることさえしてはならないと思えてしまうものだ。だからだろう、口を開いただけで黙り込んでしまったシルヴェリオに、カイは困ったように首を傾げた。
「昔のことだから別に良いんです」
カイのほうも、口を閉じては開けて、天井を睨んでは爪先を見つめて、何を言うべきかを考え込んでいるようだった。それならなおさら、見ているだけのティルダたちが口を挟む余地はない。ただ、カイが少しずつ思いを言葉にしていくのを、見守るだけで。
「まあ、俺たちが今苦労してるのは、その辺りから繋がっていると言えばそうらしいんですけど、俺は知らないことなので。そうするのが手っ取り早いのも、まあ分かるし」
「違う。私は楽に逃げただけだ。怨みと憎しみの縺れを解くことに疲れ果てて、狂っただけ……」
一度口を開くと、シルヴェリオの言葉は止まらなかった。たぶん、長い年月の間ずっと、彼の中に渦巻いていたこと、凍らされても、自らを剣で貫いても忘れることができなかった罪の意識なのだろう。
「何十年かかろうと、子孫の代までかかろうと、諦めるべきではなかった。彼らの信頼には信頼で応じて、それを重ねるべきだった。まして、真実を美名で覆い隠そうとするなど──」
「ええと……それはたぶん、貴方の死後のことですよね。先祖にも事情があったんでしょうし──俺も、偉そうなことは言えないので」
言いながら、カイはまたちらりとティルダを見た。たぶん、彼女に毒を盛ったことを思い出してのことだろう。彼もまた、国とか旧い先祖とかの糸に絡め取られていたのだ。
(そこから、抜け出そうというの……?)
ティルダと目が合った瞬間、カイは小さく、けれどはっきりと頷いた。彼女の想いを見透かして、しかもそれを肯定するかのように。そして彼は、今こそ堂々とシルヴェリオに対峙する。
「コキュートスの理がどんなものなのか、分からないんですけど。裏切られた者の子孫にも権利があるなら、俺なら、貴方を──」
「それは、いけない」
カイが言い切る前に、シルヴェリオは強い声で制止した。腕まで掲げて──もしも、あと一歩のところで躊躇わなかったら、カイの口は頑丈な鉄甲で塞がれていたはずだ。裏切った相手の子孫に触れることなど許されない、とでもいうかのように拳を強く握りながら、それでもシルヴェリオは前のめりになって、カイの眼前で訴えた。
「本来会うべきでなかった者を許すなど、道理が通らないのではないか? 私の──罪によって君が憎しみを抱くのは、同じ時代の、私の子孫に対してではないのか? 根本の原因が私にあると言えばそれまでだが……君の寛容を向けるとしたら、相手が違うと思う」
「それは──」
カイの眉が寄せられたのは、彼の首を刎ねた者たちを許すことを思い浮かべてのことだろう。今のエステルクルーナは、彼を裏切ったとは言えない──そもそも信頼関係があったのではない──かもしれないけれど、とにかく簡単なことではないのだ。
カイが口ごもったのを見て、シルヴェリオはほんの少しだけ微笑んだ。ティルダがよく知る、頼れる大人の顔だった。守り、教え、導く。そんなことができるのを喜ぶ、尊敬すべき人の顔。裏切りの罪を犯したのも、この人が信頼できる優しい人なのも、同時に真実であり得るのだろう。
「私の立場で、子孫のために許しを乞うこともできはしないが。躊躇うのなら──まだ、早いのだろうと思う。君が許すのも、私が許されるのも」
「……はい」
シルヴェリオに応えて、カイもぎこちなく微笑んだ。どちらからともなく手が上がり、互いのそれを握り合う。
「俺も、またコキュートスに戻ってきます。地上で、何をしてきたのか。何を感じたのか──その時は、もっとちゃんと話せると良い、と思います」
いずれ地獄に堕ちる時のことを、こんなにも晴れやかな顔で語るのも不思議なことだけれど。でも、別に良いだろう。少なくともティルダとカイにとっては、恐ろしいことではないのだから。




