73.盗賊の子
「あの御方」が咲かせた花々は、まだ嘆きの氷原を明るく温かく照らしている。たぶん、そう長くは持たないのだろう、すでに花びらや葉の端から色が変わって立ち枯れ始めてはいるけれど。この地獄の本来の酷寒からすれば、異例の暖かさになっている。
でも、それにも関わらず、ラーギブの言葉を聞くと心が凍えていくようだった。氷の刃で切りつけるように刺々しくて、鋭くて。
「普通の子供は父親と母親がいるじゃないか。守ってもらえるんだろう!?俺はどっちもいなくて……親爺は、好きだったけど。子分も息子も、息子扱いの奴もたくさんいた。……俺が一番親爺の子に相応しいと思った。一番出来が良くて、気が利くし……だから、俺だけが親爺の子になろうと思ったのに。なんで……っ」
この間に、ハミードたちもティルダたちの近くに寄って来ていた。草花が萎れたことで、彼らとの間に築かれた生きた壁が崩れて、通り抜けやすくなったこともあるだろう。何より……ラーギブの言葉は、聞き流せるようなものでは、とてもない。
「だから俺たちを売ったのか。邪魔者がいなくなれば親爺を独り占めできる、ってか」
刀の柄に手を掛けた盗賊たちから子供を庇おうとしたティルダを、当のラーギブが押しのけた。小さい胸を昂然と張って、見上げる背丈の大人たちを睨めつける。
「……そうだよ! 親爺があんたらのために死んだなんて、訳が分からない! 血の繋がりとか、同じ釜の飯を食った仲ってのがそんなに大事!? ルクマーンがそんなに馬鹿だとは思わなかった!」
「……ずいぶんと印象が変わったな。それが君の素なのか」
ぽつり、とシルヴェリオが呟きを漏らした。ティルダの思いを代弁するかのようでもある。彼女たちの前では、ラーギブは生意気だけど溌溂とした、人懐っこい子供だった。──そう、思っていたのに。
「そうだけど? やっぱり軍人とか役人は単純だよな。……聖女様も、魔王が言ってた通りのお人好しだし!」
だから、彼のこんな声も表情も、実際に目にしてもなお信じられなかった。こんな子供が、震えるほどに毒々しい嘲笑を浮かべることができるなんて。騙されていた? ……分からない。怒るにも嫌うにも、子供がこんな顔をしているのは痛々しいと、何より先に想ってしまう。
「私、は……」
「優しい聖女様なら、親爺と同じにはならないと思った。盗賊に追いかけ回される子供は可哀想だろ? だから守ってくれるんじゃ──騙せるだろうと、思ったんだ」
でも、哀れみの手を差し伸べられることも、ラーギブにとっては気に入らないのだろう。払いのけるまでもなく、視線で態度で表情で、彼はティルダを拒絶した。楽園の花々がまだ咲き残る広間で、ひとりだけ雪の中に討ち捨てられたかのように。
「あんたはもう良い。何だよ、地獄にまで堕ちてくれる従者って……そこまで大事に思われてるなんて……」
カイが、ティルダに伸ばそうとした手を引っ込めた。その行動によって、かえってティルダに危険が及ぶかも、などと考えたのか、それとも顔を顰めた盗賊たちを警戒したのか。
でも、たぶん無用の心配だろう。ラーギブの語勢は荒くても、それこそ子供の癇癪なのは、すぐ分かってしまうから。乱暴に目を擦って、足を踏み鳴らして──そして、盗賊たちのほうも。毒気を抜かれたように刀から手を離して互いに視線を交わしているだけなのだから。
ハミードが、呆れたような声音で呟いた。
「お前は……ガキか? いや、ガキだったか。親がいないのも思い通りにならないのも、お前だけじゃねえだろうよ」
「うるさい! ルクマーンの血を引いてたあんたには分からない!」
「自分だけが特別って思うのもガキだよな。……親爺も俺たちも、そんなことで死んだのか」
最後のひと言は特に低く、静かな口調で、かえってぞくりとするほどだった。ハミードは、子供だから許すという訳でもないし、父や彼自身が死に追いやられた恨みは忘れていない。ただ──気持ちが混乱して、怒りを露にするどころではないのだろう。
「だいたい、お前は良かっただろうに。あの前までは可愛がられて、父親どころか兄貴も大勢いるようなもんだったろう。……ああ、お前にはルクマーン以外はいてもいなくても同じ、か? 強欲なのは、まあ盗賊に似合いだったんだろうが」
だから、ハミードは特にラーギブを傷つけようとしたつもりではなかったのかもしれない。思ったことをそのまま口にしただけ、ティルダが知る由もない過去を懐かしく思い出しただけで。盗賊には盗賊なりの掟も暮らしも絆もあったことは、さすがに彼女にも察せられる。それはそれで、地上の法を破ることではあったのだろうけど──きっと、楽しかったのだ。
「馬鹿なことしたな、まったく。黙っていりゃあルクマーンの一味はいずれお前のものだったかもしれないのに。親爺は、息子だからって贔屓してくれるような人じゃなかっただろ?」
「──うるさいっ、なんで、今さらそんなこと……!」
でも、今のラーギブには過ぎた日々を懐かしむ余裕はなかったらしい。時の向こうを眺める目をしたハミードに、少年はいっそう激しく声を荒げて地団太を踏んだ。
「鬱陶しいな、もう……っ。あんたらの顔なんてもう見たくない。追い回されるのも沢山だ。消えちまえ……!」
喉が破れんばかりに叫んで──そして、ラーギブはにんまりと笑った。良いことを思いついた、とでもいうかのように。
「俺を殺したことを許してやるよ。……これで、良いんだよな?」
「おい、ラーギブ。てめえ、勝手に──」
ハミードに絡んだ鎖が、輝きを放ち始めて彼の褐色の肌を白く染める。彼だけでなく、残った盗賊たちも、同じだ。先ほど、仲間たちがコキュートスから去った時に何度も見た光だから、彼らも状況を把握するのは早い。何秒も経たないうちに彼らの魂も解放されて──そうしたら、ラーギブと話すことはもうできない。
彼を掴もうと伸ばされたハミードの腕を、するりと躱してラーギブは微かに笑った。持ち上がった口の端を、ひと筋の涙が過ぎる。コキュートスはまだ、涙が流れると同時に凍るほどの寒さを取り戻していない。
「俺は、親爺が一番で、親爺のひとりだけの息子になりたかった。けど、あんたたちも好きだった。俺は嵌められたんじゃなくて、帰っただけのつもりで──それで裏切られた。……だけど、先に裏切ったのは俺、なんだよな……」
「くそ、てめえ覚えてろよ! ひとりで拗らせやがって……!」
ハミードが怒るのも当然だ。ラーギブの態度は、言い負かされたのが悔しいから逃げたようにしか見えないのだろうから。
でも、ティルダは知っている。口先だけでの赦しでは意味がないということを。
(ラーギブ……いつから? それとも、最初から?)
この少年の本心がどこにあったのか、ティルダには何も分からない。無邪気な顔も、ルクマーンを慕う声音も、まったくの嘘ではなかったのかどうかも。子供が意地を張るのもムキになるのもよくあることで、だから、彼はずっと謝りたかったのかもしれない、だなんて──また、お人好しだと嗤われるのかもしれないけれど。
「どこかで親爺に会ったらよろしくな。俺は、ずっとここにいるから。親爺は、ここには堕ちて来ないだろうから」
盗賊たちがラーギブの言葉を聞き届けられたのかどうかは分からない。彼らが消えた後には、茎から落ちた花びらだけが舞っていた。




