69.大罪人
「その御方」は遥かな高みから舞い降りた。玉座の間の天井は、もちろん精緻かつ美麗な細工で覆われて、さらに幾層もの階が空と広間とを隔てているはずだというのに。そんな障壁なんてないかのように、太陽の輝きを纏いながら現われた──その一点だけで、ただの人間でないのは知れるけれど。
(神様……女神様? 本当に、この方が?)
カイの背にしがみついたまま、ティルダは息をすることも忘れて──死んだ彼女にはそもそも必要ないのかもしれないけど──「その御方」を仰ぎ見た。
足元にまで届く、長くしなやかな髪。その色はよく分からない。黒髪か金髪か赤毛か──その御方の内側から光があふれ出るようで、何色にも見えるのだ。纏うのは、やはり丈の長いドレス、だろうか。優雅な曲線が流れるのは感じるけれど、どの時代のどの形のものとも形容できない。顔立ちも身体つきも同じく。眩しすぎる光に包まれて、細かな造形、美醜や年ごろを窺い知ることができないのだ。
ううん、醜いはずは絶対にないと、思うのだけど。だって「その御方」が放つ光を目に入れるだけで、ティルダの心が温かいもので満たされる。氷の地獄に堕ちた身だからこそ、温もりも明るさも懐かしくて尊くて愛しいと思う。その恵みをもたらしてくれた方は、姿かたちに関わりなく美しいに決まっている。
「ようやくここまで降りてくることができました。貴方の牢獄はあまりにも堅固で、私でさえも手を伸ばすことができなかったから」
それに、だって、「その御方」はこんなに優しく労わりに満ちた声をかけてくれるのに。視線を巡らせるだけで、爪先が床に届くかどうかのところで宙に留まるだけで、広間の気温が明らかに上がり、霜や氷が溶けて潤み始めているのに。現われただけで酷寒を春に変えてしまえるなんて──やはり、神様でしかあり得ない、だろうか。
魔王ジュデッカでさえ、「その御方」の前に恭しく跪き、頭を垂れている。彼にコキュートスの番人の役目を与えたのも、神だったはず。シェオルが、そのように漏らしていた。
「それは──貴女様がそのように望まれたからです。もっとも重い裏切りの罪を犯した者を封じるように、と」
ジュデッカが、これほどに従順に目を伏せているところは見たことがなかった。そう何度も顔を合わせた訳でもないけれど、これまでの彼の言動からは信じられない、ということだ。
ティルダはカイの服の裾を引っ張り、目配せで跪こう、と伝えた。魔王でさえもひれ伏す御方が来臨しているのに、人の、しかも罪人の身で立っていて良いはずがない。
慌てて跪いて顔を伏せて──それでもなお、「その御方」の輝かしさははっきりと感じ取れた。ジュデッカに視線を向けて微笑んだ気配が、柔らかなそよ風として伝わってくる。
「ええ。それに、嘆きの氷原を統べる理も貴方に任せたのでしたね。……こうも苛烈な法を敷き、しかもこうも長きに渡って考えを変えないとは、思ってもみませんでした」
「俺は、ご意思に忠実であろうとしたまで。裏切者にはどのような扱いが相応しいかを考えて、それを実践しただけのことです」
「その御方」の声が憂いを帯びて、密やかな溜息が零れ落ちた。応えるジュデッカの声にはどこかむくれたような響きがあって──言葉でのやり取りと併せて、彼の心の頑なさが窺えてしまう。対する「その御方」は、どこまでも優しく慈悲深く微笑むのだけれど。
「コキュートスの長い歴史で、逃れ出た罪人が現れたのは初めてでした。しかもこんな短い間に何人も。その前にも、氷の檻が緩んでいましたし──降り立つなら今しかないと、思いました」
太陽が少しだけ角度を変えたように、柔らかな光が彼女のほうに向けられたのを感じて、ティルダは小さく飛び跳ねた。
(そ、それって、私の……?)
あまつさえ、太陽のような光と温もりが近づいて、屈みこむ気配がした。ティルダの額に汗が浮かび、心臓の鼓動が早まる──気が、する。彼女の肉体はもう死んでしまっているけれど、それくらいドキドキするということだ。
太陽が間近に迫ったら、人は焼け死ぬか目が潰れてしまうだろう。畏れ多さに逃げ出したくなった時──「その御方」は手を差し伸べてティルダの頭を撫でた、ようだった。
「貴女のお陰です、ティルダ」
「は、はい!?」
あまりに眩い御方の御手に、実体があったのかどうか、それさえ分からない。ティルダが燃え尽きてしまわなかったということは、ほんの少し、指先を近づけただけだったのかも。でも、とにかく、言葉では言い尽くせないほどの喜びというか感動というか──訳の分からない衝動が込み上げて、涙がこぼれそうになる。
「『この子』とはまた話をしないといけないと、ずっと思っていたのです。でも、こんな下まで手を届かせることができなくて──コキュートスの理の範囲で氷が溶けたのは、貴女がいたからこそでした」
続いて、「その御方」は視線を少しだけずらした。ティルダの傍ら──シェオルが、蹲って凍り付いていたほうへ。と、思った瞬間、ティルダの脚を柔らかな毛皮がくすぐった。シェオルが立ち上がり、身体を震わせて霜を──いや、霜が溶けた水滴を振り払ったのだ。
恐る恐る、ぎしぎしと関節を軋ませながら首を動かして横を見ると、かつてなく艶やかでふっさりとした毛並みのシェオルが、ちょこんと座っている。「その御方」の眩しさと温もりに触れて、日向ぼっこをした後のようにふかふかになっている、のだろうか。とにかく、白い狼は嬉しそうに尻尾を振っている。
「私が見込んだ通りでございました。魔力も人柄も、ティルダはほかの罪人とはまるで違うと、すぐに分かりましたから」
「シェオル。あなたにも苦労をさせてしまいましたね」
「とんでもない。私が望んで主に付き合ったのですから」
シェオルは、「その御方」に対しても物おじすることなく、得意げに耳をぴんと立てて受け答えている。四つ足の狼だから、座るだけで跪く体勢に相当するということなのかどうか──それに、何だかとんでもないことを言われたような。まるで、シェオルはこの状況になることを予想というか、期待していたかのような。
「あ、あの……っ! いったい、どういう──」
「貴女様は俺を罰しに来たのではないのですか」
気力をかき集めて、ようやく口を開いたティルダの勇気は、けれどジュデッカの低い声によって吹き散らされた。「その御方」に対する言葉遣いも態度もどこまでも丁寧だけど、どこか苛立ちを押し殺したような気配がある。
(でも、それでは罰を望んでいるということになる、の……?)
戸惑いと不安に、ティルダは口を閉ざしてしまう。でも、ジュデッカに「眩しさ」を向けた「その御方」の声は変わらず優しく穏やかだった。
「なぜ、そのようなことを?」
「俺の力が貴女様に及ぶはずがない。コキュートスに降りることが叶わなかった、などとはあり得ない。今になってお姿を見せたのは──見せてくださったのは。俺を、思い出してくださったのは。罪人への罰が手ぬるいとのお叱りなのでは……!?」
ティルダは、まだ顔を上げて良いかどうか分からないままでいる。それでも、顔を伏せた体勢で窺う限り、ジュデッカも同じ姿勢のままのようだ。恭しく跪いたまま、魔王は、分かり切ったことを──たぶん、彼にとっては──説明させられるもどかしさに歯噛みしているようだった。
「まさか。コキュートスの管理は貴方に委ねたのに。ティルダのことも、解放された魂たちも、貴方が定めた理の裡でのことでしょうに」
それは、以前にシェオルも言っていたことだ。ジュデッカも、一応は引き下がっていたはず。でも、「神様」の来臨に、彼にも言いたいことがあるらしい。
「罪人が罪人を許すなど、あり得ないことと考えておりました。見通しが甘かったのは、十分に罰に値しましょう」
「貴方は罰を望むのですか。まだ……?」
「その御方」の声に落ちた翳りが、ティルダの胸にも広がった。眩い御方の憂いや悲しみが、傍にいる者にも伝わってしまうかのように。それに、「その御方」が仄めかしたことが分かってしまって、思わずジュデッカを哀れんでしまったのだ。
「無論」
堂々と答えたジュデッカは、「その御方」の憂いもティルダの哀れみも、気に懸けてはいないようだったけれど。
「裏切りは、もっとも重い罪なのですから。まして神に背いた者は、永劫の苦しみを負うべきです」
彼はいっそ得意げに、そう言い切ったのだから。




