67.再び、玉座の間
氷の宮殿の廊下を、盗賊たちは迷わず進んでいく。罪人の手足に絡んだ鎖が音を立てないのは、怖いくらいだった。大して意識しているようでもないのに猫のような足さばきができるのはさすが、ということなのだろう。
ハミードは、歩きながらも喋れるくらいに余裕があるようだった。黙っていると、歩きながらでも凍ってしまいそうだから、だろうか。思えば、鎖で罪人の動きを把握している魔王ジュデッカには、足音の有無なんて気休めにもならなかった。
「ラーギブは、親爺が拾ってきたガキのひとりだったな。捨て子や孤児に飯や寝床をやったりすることがよくあったんだ」
「そうなんですか……」
自分が今いる場所の見当がつかない不安を隠して、ティルダは小声で頷いた。
仲間の大半を見送った──嘆きの氷原から解放した盗賊たちは、ひどくさっぱりした顔つきをして、ティルダたちにも気さくな振る舞いをするようになった。彼らの生前の生業からして、これまでも近道や抜け道や隠れ場所を探そうとしていたのだろうとも思うから、玉座の間に連れてってくれていると、信じるべきだとは思うのだけれど。
「働いて稼いだ金じゃないからな。使うアテがなければそういうこともする──見込みがあるヤツは手元に残すためでもあるが」
「さすが、義賊って伝えられるだけのことはあるんだな」
ティルダにぴったりと寄り添うカイの相槌には、ほんの少しだけ棘がある。可哀想な子供に手を差し伸べて、盗賊に仕立て上げるなんて手放しでほめられた話じゃない、と言いたげだった。彼の気持ちは、ティルダにもまったく分からない訳では、ない。
「おう。光栄だ」
カイが潜ませた棘にはたぶん気付いた上で、ハミードは軽く笑って受け流した。「悪」と呼ばれる存在であるのは百も承知、とでも言うかのように。
(だって、盗みは裏切りほどの大罪ではないものね……)
等しく大罪を犯して堕とされた者同士、生前に何をやったかやらなかったで蔑んだり怖がったりするのは、きっと間違っている。だから──ティルダは足を一歩、また一歩と踏み出すしかない。彼女が出会ったラーギブという少年の、彼女の知らない姿を聞かされながら。
「で、ラーギブはその見込みがあるヤツだった。気が利くし口も回るし手先も器用で、な。親爺も可愛がっていた。孫みたいな年ごろだったしな」
そういうハミードは、大盗賊ルクマーンの血を分けた息子ということだった。ラーギブの高く澄んだ声が、ティルダの耳に蘇る。
『親爺の実の息子だからって偉そうな奴』
もちろん、本人に向かってそれを告げ口する勇気はなかったけれど。鈍いティルダにだって分かる。大盗賊の実子と拾い子との間には複雑な感情もきっとあったのだろう。当のルクマーンをよく知らない者が、あれこれ言ったところで意味はない──それどころか、もっと拗らせることにもなりかねないのも、分かってしまうから。
「だから、あいつが何を考えて親爺を裏切ったのか分からねえ。分からねえから、許せねえ。大恩ある相手だってのに……!」
「でも、あの、捕まってしまったから仕方ない部分も──」
でも、凍った廊下に響くハミードの憤りの声に、ティルダはとうとう口を挟んでしまう。ラーギブは、捕らえられて──尋問や、もしかしたら拷問もあったのだろう。子供が耐えられなくてもしかたないと、盗賊を捕らえる側だったシルヴェリオも言っていたのに。
ティルダを見下ろしたハミードの目は、驚くほど冷たかった。太陽のような金色なのに、コキュートスの酷寒で凍ってしまったかのように。髭が飾る口元が浮かべた笑みも、また。
「あいつを捕まえられるほど目端の利く役人なんざいなかった。ラーギブは、金で親爺を、俺たちを売ったんだ」
「え……?」
思わず足を止めてしまったティルダを、カイがそっと引っ張ってくれた。彼は、ラーギブのことを知らないからだろう。ハミードとのやり取りを続けていたのは、ティルダがこれまで共に過ごした人たちのことをカイに伝えたいからでもあったけれど──かえって、混乱させてしまっているかもしれない。カイの胡桃色の目は、しきりにティルダとハミードの間を行き来していた。
(でも、ラーギブは──)
反論しようとして唇を開いたところで、ティルダはその無為に気付いた。当事者の片方しかこの場にいないのに、話が違う、だなんて他人が言えるはずがない。
「もう一度叩きのめしてやりたかったが──それどころじゃないかもな」
「……はい」
何も言わずに口を噤んだティルダに、ハミードは意外なほど優しく微笑んだ。よく弁えたな、とでも言うかのように。それに──彼女たちは、もう壮麗な扉の前に辿り着いていた。魔王の城の、玉座の間の扉だ。ここまで来れば、ティルダにも間違えようがない。
「あのデカい狼のとこまであんたを届けてやる。……助かる術がないなら、魔王に氷漬けにされたほうがマシかもしれないし、な」
今、コキュートスに残っている盗賊たちは、許してもらえる相手がいないから、ということだ。少なくとも、言葉を交わせる距離にいる仲間の間には。彼らがティルダに手を差し伸べてくれたのも、魔王の怒りを恐れていないからではないと思う。永遠の酷寒の中を彷徨うくらいなら凍らされたほうが、と思っているのだろう。
(ラーギブが……あの子が、この人たちを許せばそうはならない、けど……!)
これもまた、部外者には言えないこと。何より、ティルダにも向き合わなければならない難局がある。
(シェオルさんと話す……私と地脈の繋がりを、断つ。その方法を探す……そうしないと、ちゃんと死ぬこともできない)
カイに目を向けると、こくり、と確かな頷きが返って来た。彼とティルダは、裏切り合った者同士。でも、相手を許して解放したいと思っている。どちらが先に許すかの競争も、この場を乗り越えなければ始まらない。
「……行きます」
深く、息を吸って、吐いてから。ティルダは凍てついているとしか見えない扉に掌を押し当てた。
* * *
玉座の間の扉は、見た目と裏腹に軽く開いた。問題は、扉の隙間から斬るように襲う冷気だ。
「──っ」
城の中だというのに、吹雪が出現しているかのような。触れれば凍り付いてしまう、と本能的に察して、思わず後ずさりしてしまいそうになる。その場に踏みとどまるだけで、途方もない気力を振り絞らなければならなかった。
「のこのことよくも戻ってきたな、罪人」
しかも、広間の奥から響く声は、雪よりも氷よりもなお冷たい。それでいて、怒りに燃えているのがはっきりと分かる。
「──また逃げ出した魂が出たのも、貴様のせいだな?」
玉座を占めた魔王ジュデッカが、ティルダたちを冷ややかに見下ろしていた。鴻輝帝の時と同じく、コキュートスの主は罪人の魂の行方の何もかもを把握しているようだった。
「……それは、コキュートスの理に従ったことでした。私は何もしませんでした。あの人たちが、許すことができたということで」
寒さと不安と恐怖に震えながら、それでもティルダは足を踏み出し、声を上げた。彼女には目的があるし──盗賊たちのことは、彼女の手柄ではないから。あの人たちの心の変化や仲間への情や贖罪を、ティルダが盗む訳にはいかないから。
「だが、貴様がいなければ起きなかったことだ。やはり自由にさせておくのではなかった……!」
「はい。申し訳ありません」
とはいえ、ティルダが花を咲かせて罪人を溶かしたせいで、と言われれば返す言葉もない。良いことなのか悪いことなのか、彼女自身にも分からないからなおのこと。
「これ以上、この地獄を乱さないためにも、シェオルさんに聞きたいことがあります。私が──盗んでしまっている魔力を、地上に返さないと。そうすれば、きっと私もすぐに凍ってしまうから……」
だから、少しの間だけ見逃して欲しい。そう、伝えたつもりだったけれど──
「いや。もう我慢ならない。罪人どもも──シェオルも、煩くて目障りなだけ。コキュートスには凍った静寂こそが相応しい」
ジュデッカはゆっくりと立ち上がると、手を掲げて銀の鎖をしゃらり、と鳴らした。罪人の好き勝手な振る舞いは、もはや許してくれないということらしい。




