60.カイの目的
凍り付いた部屋の中、凍り付いたような沈黙が降りた。
「そう……そう、だったの……」
「ティルダ様……」
やっと呟くことができたのは意味のない相槌で、カイの眉が心配そうに寄せられる。ティルダが理解できていないことが心配なのか、彼女の心中を慮ってくれているのか。ちゃんと分かっているし、驚きつつも納得することはできている──と、思う。でも、それを言葉に出すことができるほどには、やはり冷静ではいられない。
ティルダの頭の中に、今までに言われた言葉が渦巻いている。色々な場面で、色々な人から。
──君は素晴らしい、ティルダ!
──これだけの魔力があれば、机上の仮説に過ぎなかった術式も──
──すぐにでも聖女としてお披露目しよう。
──これで我が国の歴史が変わる……!
かつてのティルダは、それらの言葉を誇らしく──あるいは意味が分からないまま聞いて、にこにこと笑っていた。でも、今となっては意味が変わる。あの人たちはティルダを称賛していたのではなく、彼らの実験の成功を祝っていたのだ。実験をどのように行ったのか、失敗していたらどうなっていたのか、彼女には分からないけれど。
「大丈夫……そう言われれば、納得できるの。色々……おかしかった、から」
モニカ、ピア、ヴィヴィ──ほかにも、たくさん。どこかのお家にもらわれていった仲間たち。すべてではなくても、何人かだけでも、それが本当であれば良い。もしも、全員が全員、失敗していたのだとしたら。残ったのは、ティルダだけなのだとしたら。そんなことは、考えたくない。
(ううん……気付いていたのかもしれない、けど……!)
疲労や眠気からだけでなく、自身がひどく歪で不自然でおぞましい存在か察していたからこそ、ティルダはカイの毒を救いだと感じて、そして喜んで飲み干したのではないだろうか。人ならざる魔王たちだって、言っていた。
『今の術は、本来は地脈や水脈に干渉するものだな? 膨大な魔力があれば不可能ではないが、人が使うには不遜な技だ』
『か弱き人間の創意工夫は、称賛すべきかと思いますが』
ティルダの耳に、ジュデッカとシェオルのやり取りが蘇る。あれは──逆巻く渦の大水蛇を宥めるために魔力を振るった時のことだった。
(創意工夫……シェオルさんは、褒めてくれたけれど)
眉を顰めたジュデッカのほうこそ、正しい評価だったのではないだろうか。水害を治めるとか、実りを豊かにするために大地の力を借りようというなら、まだ良い。エステルクルーナが試みたのは──そして、ティルダが行っていたのは、人の世の争いのために大地の力を際限なく汲み出そうということだ。それを不遜と言わずして、どう言えば良いだろう。
(私……私……)
寒さによってでは決してなく震える手を握りしめて、ティルダはどうにか声を絞り出した。
「カイ……私、花を咲かせてしまったの」
「は?」
カイが、怪訝そうに眉を寄せて首を傾けた。いったい何を言い出すのか、と思っていることは明らかだ。これまで伝える暇がなかったことだから、無理もないのだけれど。ティルダも動揺してしまって、上手く言葉にすることができないのだけれど。
「ええと……花が、咲いてしまったの。この、嘆きの氷原に。あのね、私、地獄に堕ちて、ほっとしてしまっていたの。身体は軽いし、眠れるし、誰にも急かされないし──天国みたいって、思ったくらい」
「ティルダ様……」
カイが痛ましげに顔を歪めるのが、申し訳なかった。ティルダは別に、自身の大変さをひけらかしたい訳ではない。もう過去のことだし、彼のことではないし。……彼女が言いたいのは、もっと別のことだ。今は、そんな余裕のある場面ではないのかもしれないけれど、でも、吐き出さないことには動くことができなさそうだった。
「後は──寂しいところだから、お花でもあれば良いなあ、って思ったの。それで、何かをしたわけじゃない──少なくとも、そのつもりだったんだけど。目が覚めたら、とても綺麗なお花が咲いていたの……」
鮮やかな色の温もりで酷寒の地獄を溶かす花たちを、カイにも見て欲しかった。ついさっきまで、そう思っていたのに。聖女の力を、やっと美しく優しいだけのものに使うことができたと思っていたのに。
「……さっき、仲間がいるって、言ったでしょう。玉燕さんたちが起きてしまったのも、多分そのせいなの……。あの、お花が咲くくらい、暖かくなって、しまったから……」
「ティルダ様……それは──」
ジュデッカに何度も思い上がりと言われた、その言葉も、きっと正しかったのだ。ティルダがコキュートスを変えてしまったのは、大地から盗んだ魔力によってだったのだから。玉燕と鴻輝帝が再会できたのは良かったのだろうし、コキュートスに堕ちた罪人同士で語らうのも、楽しくはあったのだけれど。そもそもの原因が彼女のものでない魔力だというのに、どうして誇ることができるだろう。
「その、実験のせい、なのかしら……? エステルクルーナの地脈が、私に繋がったままなのね? 国ひとつ分の魔力だから、地獄の氷さえも溶かすことができた……?」
「はい。そうだと、思います」
疑問の形を取りながらも、ティルダは推測が当たっていることをほぼ確信していたし、事実、カイもすぐに頷いた。考えたことが当たっていたのを確かめられても、でも、この際まったく嬉しいとは思えない。
「私……嬉しかったの。戦いのためじゃなくて、ただ、綺麗なことのためだけに魔力を使えるのが。魔王様には、怒られてしまったけど……それで、色んな人に会うことができたし……」
コキュートスに落ちてからの日々の出来事、出会った人々を思い出しながら、ティルダはそっと両手を掲げた。目には見えなくても、彼女の手の中に、指先に、魔力は確かに存在している。息をするように簡単に扱うことができるから、彼女自身のものだと信じ込んでいたけれど──この魔力の源は、ティルダではない。エステルクルーナの大地を満たすべき力を、彼女は汲み出してしまっているのだ。地獄の氷を溶かし、シルヴェリオの傷を癒し、リヴァイアサンを宥めた。──本来は、地上のために使うべき魔力だったのに。
「でも、それじゃ、地上は……!?」
「落ち着いて。俺が知る限り、エステルクルーナの畑が枯れたとか、天変地異が起きたとかいう話はありません。その……少なくとも、今のところは」
拳を握って叫んだティルダを、カイの声と言葉が宥めてくれる。肩に置かれた彼の手の重みが──温もりは既に失われていても──ひとりではないと教えてくれた。
「ただ……これからどうなるかは、誰にも分からない。だから、偉い連中は焦ってるし恐れています。聖女の力が失われた上に、地脈は貴女に繋がったまま。敵国に事態が知られたら、攻め落とされてしまうかもしれない」
「そう、でしょうね……」
何を企んでいたとしても、戦いに大義がなかったのだとしても、エステルクルーナはティルダの祖国だった。少なくとも、そのように教えられたし、彼女を育てた国ではある。地脈の魔力を身に宿したまま勝手に死んだのも、裏切りの罪の一環になるのだろう。鴻輝帝の例で知ったように、罪の自覚がなくてもコキュートスに辿り着くことはあるようだから。
「俺は、聖女暗殺の咎で処刑されました。もちろん、奴らにしてみれば何度殺しても飽き足らないでしょうが、罪に対する罰だけが理由じゃない。貴女の──その、バカバカしいとは思うんですけど──裏切りを許すことで、貴女の魂を解放するように、という密命が下されています」
「カイ。そう……そうなのね」
ここまで聞いてやっと、ティルダはカイがここにいる理由が分かった、と思った。彼の裏切りに加えて、彼が死んでしまった理由。聖女暗殺への罰で、というだけではなくて──
「私は、魔力を返さなければいけない、わね……? このままだとエステルクルーナの魔力がどこまでも流れ出てしまうから。私は、ちゃんと死ななければいけないのね……?」




