55.牙と鎖の交錯
氷の床に這いつくばった姿のまま、ティルダは叫んだ。魔王の僕が罪人のために主に背いてくれたのだ。身体を縮めてやり過ごそうという気にはなれなかった。
「──シェオルさん!」
魔王の銀の鎖の煌めきに、目を細めながら。だから、何が起きているのかよく分からない。しっかりと目を開けていたところで、それぞれが意志を持った蛇のように獲物に襲いかかる鎖の軌道を、捕えることはできなかったかもしれないけれど。
ティルダの視界を、銀と白が交錯した──と思った時には、彼女の身体はまた宙に浮いていた。銀は、言うまでもなくジュデッカが繰る鎖。彼女目掛けて飛んできた、と思った白いほうは──
「きゃ──」
「乱暴ですみませんね。何しろ私には腕がないもので」
ティルダの襟元を咥えて跳んだ、シェオルだった。雪のようにふわりと舞うのは、鎖が掠めて千切れた狼の毛。あんなに激しく容赦なく襲う鎖は、ふかふかでふわふわの毛皮を越えて身に届いてしまっていないかどうか。ティルダが息を呑むのを余所に、シェオルの声はいつも通りのんびりしていた。
でも、首を捻ってもといた場所を見ると、鎖の攻撃で床に罅が入っているのだ。シェオルに当たっていたら、ティルダに掠めでもしたらどうなっていたか──恐怖による震えは、コキュートスの酷寒によるものより大きかった。
しかも、鎖はまたしゃらしゃらと涼やかな音を奏でて蠢いている。拳を握ったジュデッカの意図に従って、シェオルとティルダを捕えようとしているのだ。
どうにか体勢を立て直そうと、震える足で立ち上がろうとするティルダを睨んで、美しい魔王は不機嫌も露に吐き捨てる。鋭い眼差しは、彼女を切り刻もうとしているようだった。
「その娘に何の術を使われた。いつの間にそこまで魅了された……!」
「ティルダにはそのような術は使えません。そこの罪人の話を聞かれたでしょうに」
「この、魔王め……ティルダ様に、手を出すな!」
シェオルの視線を追えば、魔王の玉座の上方でカイがもがいている。ティルダに手を伸ばそうとしてくれているようだけど──ジュデッカが舌打ちすると、鎖が鳴る音とともに拘束が強まり、苦しそうな呻き声に変わってしまう。
「どいつもこいつも……聞いた上でも娘に肩入れするのが理解できん!」
「危険だからと罪人を排除することこそ、嘆きの氷原の名折れではないのですか!?」
(危険……私、が……?)
ふたり──あるいは、ひとりと一頭──の言葉の意味を尋ねる猶予はなかった。シェオルが、四肢を踏ん張って声高く吼えたのだ。凍えた空気を切り裂く咆哮は鋭く、ティルダの皮膚を震えさせる。剥き出しになった牙といい赤い舌といい、シェオルの獣めいた姿を見るのは初めてで、怖い。
「この……っ」
でも、シェオルの咆哮はただの威嚇ではなかった。ティルダたち目掛けて襲ってきたはずの銀の鎖が、見えない壁に弾かれたかのように軌道を逸らせた。ジュデッカの忌々しげな呟きは、たぶん、下僕に邪魔をされたからだ。視界を無数に過ぎる銀の煌めきに目が回りそうになりながら、ティルダはどうにかそのように理解した。
でも、鎖が怯んだ──ように見えた──のも一瞬のこと。ばらばらに解けた銀の光条は空中で撚り合わさって、鞭のようにしなる。細い鎖も、何本も集まればより大きな力となって咆哮の盾を破ってしまうのだろう。今度こそ、痛みと衝撃が来るのを覚悟して身体を強張らせる──と、シェオル湿った鼻先がそっと彼女の手を突いた。
「ティルダ。彼と一緒に。早く!」
「え? は……はい!」
シェオルが鼻先で示した先では、カイが玉座の傍らでうずくまっていた。
(ジュデッカ様の意識がシェオルさんに向いたからだ……!)
魔王は、罪人を拘束することよりも、下僕への折檻を優先しようと考えたのだろう。そして、たぶんそれこそがシェオルの狙いでもあった。それなら、この隙を無駄にしてはならない。
シェオルと、その隣にいたティルダを狙って、銀の光がまた走る。それとすれ違うようにして、ティルダは駆けた。後ろでは、鎖が床か壁を穿つ音が聞こえる。それに、シェオルの咆哮と、爪か牙が鎖を捕えたらしい金属音が。人ではないふたりの戦いはいったいどんなものなのか──身体を竦ませながらも、ティルダはカイの腕を取った。
「カイ! 大丈夫……!?」
「ティルダ様……っ」
カイの声も姿も、記憶の中にある通りだった。動きやすい従者の格好、年の近い、気の置けない──と、ティルダは思っていた──少年。声も表情も、常にティルダを案じてくれた。彼女の感覚ではほんの半月かそこら離れただけだったけれど、二度と会えないと思っていた相手なのだ。それだけに、彼の手を握ると涙がこぼれそうになる。だって、カイの手は冷たくて、彼も死んでしまったのだと悟らなくてはならなかったから。
でも、泣いている暇などない。彼女がなぜ死んだのか、コキュートスに堕ちるだけの罪とは何なのか──今こそ、分かるかもしれないのだから。
「行こう。今のうちに!」
「ティルダ様……?」
カイは、いったいどこへ、と尋ねかけたのだろう。でも、とにかくここを離れるのが得策だとすぐに分かってくれたらしい。ティルダの手の中から彼のそれが逃げて、逆にしっかりと握りしめられる。
「はい。俺が先に行きます。ティルダ様は俺の影に!」
ティルダの手を引いて、鎖と爪と牙の音が恐ろしく鳴り響く広間の中央を大きく迂回して、カイはそろそろと歩き始めた。ティルダが引きずり込まれた玉座の間の扉は、まだ開いたままだ。シェオルが時間稼ぎをしてくれているうちに、あそこから抜け出すことができれば、良い。
(もう少し……見逃して、もらえる……!?)
息を潜めて足音を忍ばせて、じりじりと扉に近付いていく。とはいえ身を隠すものは何もないし、ティルダたちが逃げようとしているのはジュデッカもよく承知している。だから、結局のところ、シェオルの相手に魔王が手いっぱいになるかどうか、の話でしかない。
(シェオルさんも、無事でいて……!)
ティルダとカイを逃がすために、どうしてシェオルは主に──文字通りに──牙を剥いてくれるのだろう。下僕に逆らわれた魔王の怒りは、どれくらいのものなのだろう。分からないまま、それでも立ち止まってはシェオルの想いを無駄にすることだ。時折飛んでくる氷や石材の欠片に首をすくめつつ、それでもやっと、扉を潜ることができた時──待ち構えていたように、魔王の嘲笑がティルダたちの背に刺さった。
「シェオルなしで長く逃げられると思うな。お前の仲間の罪人どもはまだ動けぬままだ……!」
「え──」
思わず振り返ったティルダの目の前で、扉は勢いよく閉じた。どういうことか、と聞き返そうにも、開けてもらえる気配はない。
「ティルダ様、早く! あの……狼は、貴女のために……でしょう?」
固く閉ざされた扉に縋ろうとしたティルダを、カイが引き剥がした。シェオルの名前も知らない彼は、この状況への戸惑いも混乱もひとしおだろうに。地上にいた時と変わらず、ティルダの安全を第一に考えてくれているのだ。
「うん……行きましょう。ジュデッカ様は、泳がせてくれるみたい、だから……」
でも、魔王によるとカイこそがティルダを殺したのだという。罪人を惑わせ苦しめるための虚言なのか、ティルダのように知らないうちに罪を犯したか、罪そのものを忘れてしまっているのか。
「この場を離れましょう。少しでも落ち着ける場所で──お話ししなくてはならないことが、あります」
生きていたころと変わらぬ信頼の眼差しを、ティルダはカイに向けてあげることができていなかったと思う。たぶん彼女の疑問と不安に気付いているのだろう、カイはぎゅっと顔を顰めた。
それでも、ティルダの手を引いて歩きだす彼の足取りは、しっかりとしていた。




