53.魔王の招待
新たな罪人の報に湧き立つ古い罪人たちを置いて、シェオルは部屋を出て行った。
『主に滅多なこともないでしょうが、どのような者が堕ちて来たのか見定めませんと』
白い狼の優雅な尻尾が扉の外に消えると、ティルダたちは顔を見合わせた。彼女たちは、魔王の玉座の間に足を踏み入れる資格はないと弁えている。魔王ジュデッカは──嘆きの表現の番人としては正しい態度だけど──罪人たちにまったく優しくないのを知っているのはもちろんのこと、コキュートスに堕ちる罪人は危険な可能性が高いと、話していたばかりでもある。
だから、いったい誰が、どのような経緯で堕ちて来たのかは、シェオルが戻るのを待つしかない。でも、気になるものは気になって仕方ないのが人の心というものだった。
「いったい、どんな人なんでしょうね……」
「心当たりは、ティルダ? 今の地上のことを知っているのは貴女だけだ」
「私は……何も。あまり世間のことは知らなくて……」
シルヴェリオの問いかけに、ティルダは首を振ることしかできなかった。思えば、彼女が知る世界はごく狭かった。移動した距離自体は、魔法陣の助けもあって相当なものだったと思うけれど。顔を合わせて、祈りを捧げられたり祝福を授けたりした人たちも多かったけれど。打ち解けて言葉を交わすことができた相手というのは本当に少なかった。家族も友人もいなくて──あえて一番近い存在を挙げるとしたら、従者のカイくらいだった。
表情を曇らせたティルダを気遣ったのか、ラーギブが大人たちを見渡した。
「ねえ、あんたたちはほかの罪人を見たことあるの? 俺みたいに一緒に殺されたんじゃない奴らを」
「さて……わたくしの時は、陛下に殉死した者どもだったから。生きていたころにまったく縁のない者ということではない、であろうなあ」
砂の国の少年も、彼に応えた梅芳も、同じ時代と同じ国、生前に面識があった人たちと堕ちている。でも、彼らが時を同じくして命を落としたのには、偶然ではない事情があった。
(そっか……普通は、コキュートスに堕ちたらすぐに凍ってしまうから……)
親子だった玉燕と鴻輝帝でさえ、互いに会うことができずにずっと氷に埋もれていたらしい。同時に死んだのではない罪人たちがコキュートスで見えるのは、たとえ同じ時代を生きた者同士であっても本来はとても難しいのだ。つまりは──
「えっと……これも、私のせいでしょうか……」
「まあ……そうと言えば、そうかもしれぬなあ」
おずおずと声を上げたティルダに、玉燕は軽く眉を寄せて頷いた。気の毒だとは思うけれども否定することもできない、という風に。命を終えて、地獄に堕ちて、そして息子との本当の別れを味わったこの女性は、素の表情を取り戻したのかも、とティルダは密かに思っている。美貌はもちろん、強気さも高慢さも変わらないけれど──元々は優しい人だったのではないか、と。口に出したら何か言われそうだから、心に閉まっておくのだけれど。
「だが、まあ、大蛇の化物もおることだし。ここに危険が及ぶ恐れはそうそうあるまいよ」
「それこそ退屈が紛れるかもね?」
玉燕と、それにラーギブの優しい言葉に、ティルダの胸の奥がほんのりと温かくなる。たとえコキュートスの氷が溶けないままだったとしても、気遣いの言葉によって灯った温もりは凍らせることはできないと思う。
「ありがとう、ございます……」
その温もりを愛おしむように、胸の前で手を組み合わせた時──ティルダの腕を、冷ややかな感触が這い上った。
「え?」
氷の蛇に腕を縛られたような、と思った。細くて長くて冷たいものが、一瞬にしてティルダの全身を駆け巡って戒めてしまう。胸に宿った温もりさえも、縛り上げて砕こうとするかのように。その冷たさは煌めく銀色をしていて、だから蛇の鱗かとも思ったのだけど、そうではなくて──
「魔王か!? 何を──」
シルヴェリオの叫びを聞いて、ティルダはやっと気付く。ジュデッカの、鎖だ。コキュートスを統べる魔王が、全ての罪人に施したもの。しゃらしゃらと、動くたびに鳴る音にもすっかり慣れてしまっていたけれど、それは常にティルダたちに絡みついていた。ジュデッカは、鎖を通して罪人の居場所を知ることもできるとか。それなら、離れていても縛り上げることくらいはできて当然、なのかもしれない。
「きゃ……っ」
そんなことが頭の中を駆け巡る間に、ティルダの足は床から浮いていた。どこから伸びているかも分からない鎖が、彼女を吊り上げて引きずっていく。どこへ、かは──考えるまでもない。恐らくは、魔王の玉座の間へ。
「何なのだ、これは……っ」
「皇后さま──」
玉燕と梅芳の悲鳴が聞こえて、そして扉の向こうに立ち消えた。鎖は、ティルダを廊下に引きずり出して、かつ、どうやってか扉を閉めてしまったらしい。
(皆さんにも、鎖が……?)
シルヴェリオが声を上げたのも、玉燕たちも、突然鎖に襲われたからかもしれない。ラーギブは、驚きのあまりに声も出なかったとか? 罪人を放任していたジュデッカが、わざわざその力を振るったのは、いったいなぜだろう。
(私だけを呼んでいる……!?)
シルヴェリオは、自由に動けたらティルダを助けようとしてくれるはずだ。逆巻く渦の大水蛇も、きっと。なのに、ティルダひとりだけが引きずられて、追う者もいないようなのは──ほかの罪人たちは、身動き取れない状態なのかも。
「痛……っ」
巨大なリヴァイアサンでさえ苦もなく拘束した魔王の鎖は、どこからともなく伸びてティルダを縛り、シェオルが走るのにも劣らぬ速さで彼女を宙づりにして引っ張っている。爪先は床をかすめることさえなく、ただ、荷物のように運ばれている状態──だけど、廊下の曲がり角やら段差やら彫刻やらに、時折手足がぶつかるのが痛い。
ただでさえ探索しきれていない城の、いったいどの辺りにいるのかも分からなくなって。ティルダは、ひたすら身体を縮こまらせていた。分からないのも、たぶん当然のことだ。ジュデッカがいつも籠っているらしい玉座の間に、彼女たちはあえて立ち入ろうとはしなかったから。だから、薄目を開けた視界に過ぎる光景が見慣れぬものだということは、彼女は魔王のもとに近づいていることだろうと思う。
(それに……とても、寒いから……)
花の咲いた一角に留まることで、ティルダは温さに浸ってしまっていたのだ。肌に触れているだけなのに骨にまで染みるような冷たさを伝える銀鎖も、ひたすらに寒々として氷と霜に覆われた景色も、どこまでも、恐ろしいほどに寒い。嘆きの氷原は酷寒の地獄。彼女はそこに堕とされた罪人。それを決して忘れるなと、改めて突き付けられるかのよう。
寒さと畏怖に震えるうちに、目の前にはひと際豪奢な扉が迫っていた。まともにその前に立てば、きっと見上げる高さの。魔王の玉座の間の扉に違いない。
「ぶつか──」
衝撃を予感して叫んだ瞬間、扉は大きく左右に開いた。同時に、ティルダを縛っていた鎖がするりと解けて、彼女は宙に投げ出される。不意の自由に、あわあわと手足をばたつかせたティルダは、無様にべしゃりと落ちて、転がって──
「来たな、聖女を名乗る罪人め」
魔王ジュデッカの冷ややかな目を、這いつくばって見上げることになった。




