48.魔王と罪人たちの対峙
静寂が、雪のように降っていた。ティルダが芽吹かせてしまった花がひとつ、蕾を綻ばせたけれど、冷たい白い世界に映える鮮やかな色も、顧みられないまま静かに揺れるだけ。罪人を閉じ込める嘆きの氷原の酷寒の檻が綻びたのを目の当たりにしてしまった。殺し殺された母と息子が心を通わせ、そして永の別れをする場に立ち会ってしまった。
(玉燕さん……)
再会したばかりの我が子──鴻輝帝を見送った玉燕に、どのように声をかけて良いのか、誰も分からないままなのだ。彼女の心を乱してはならないと思うと、身動きすることさえ憚られて。氷を溶かす花が咲き乱れる、つまりはコキュートスでもっとも暖かいはずの一室にいても、誰もが凍り付いてしまったかのようだった。
五感も、凍り付いていたのかもしれない。だからなのか、部屋の外から高い足音が響いているのに気付いた時、それはもう扉のすぐ傍にまで近づいていた。さらに、ティルダが顔を上げたのは、氷の欠片をまき散らしながら、扉が勢いよく開いた時になってやっと、だった。
(誰……!?)
警戒を怠ってはならないはずだったと、動いていない心臓がぎゅっと縮んだ。ラーギブの元仲間の盗賊たちとか、油断できない罪人も目覚め始めていると知っていたのに。
シルヴェリオは、さすがに素早く剣を構えて女たちを庇ってくれる──けれど、彼はすぐに剣を鞘に納めてしまった。その理由は、彼の呟きが教えてくれる。
「これは、魔王殿……?」
鎧姿の将軍を押しのけて、コキュートスには不似合いな黒い影が現れた。ずいぶん久しぶりに会った気がする──地獄の番人、魔王ジュデッカがティルダを睨みつけていた。
「貴様、罪人を逃したな……!?」
「わ、私──」
この人がティルダに微笑みかけたことなんて、ない。でも、今日のジュデッカの眼差しはかつてなく鋭く険しかった。漆黒の刃で斬りつけられるようで、ティルダの舌は凍り付く。ううん、喋ることができたところで、言い訳なんて思いつけそうになかったけれど。
(私……私がやった、の?)
鴻輝帝が消えてしまったのは、つまりは地獄から逃れた、ということであって。それは玉燕に許されたからで。ふたりが再会できたのはリヴァイアサンが鴻輝帝を咥えてきたからで──そして、リヴァイアサンが動き出したのはティルダのせい。それならやっぱりティルダのせいということになるのか、そんなことを言われても、と言って良いのか。
混乱して立ち竦むティルダの足もとを、ふわふわした柔らかい感触が撫でていった。シェオルが、わざわざ彼女に擦り寄ってから主に対峙してくれたのだ。
「ティルダのせいではありません。ご承知のことと思いますが」
「シェオル、お前まで──」
魔王の鋭い目線に睨めつけられても、シェオルは毛皮を膨らませて一歩も退かなかった。身体をひと回り大きく見せて、威嚇しようとしているかのよう。彼(彼女?)がどこから出しているか分からない声も、いつもより大きく、厳しいものになっている。
「玉燕と鴻輝の間の話です。裏切られた者が裏切った者を許したので、その罪も雪がれたのです。主が定めた摂理の通りに」
シェオルの大胆な発言に、ティルダもシルヴェリオもラーギブも目を剥いた。玉燕と梅芳は、まだいなくなった鴻輝帝の名残を惜しむかのようにこちらを向かずに佇んでいたけれど。
床から芽吹いた花が幾つか、頼りなく揺れた。室内なのにそんなことが起きるのは、ジュデッカから冷気が放たれているから。魔王の怒りを示すかのように、吹雪の前兆のような、氷の刃のような風が静かに渦巻き始めていた。彼の手が弄ぶ鎖のしゃらりという音が、ティルダを何よりも震えさせた。罪人を縛る鎖が絡めば、きっと彼女は瞬きする間もなく凍り付いてしまうのだ。
シェオルとティルダを交互に睨んで、ジュデッカは低く吐き捨てる。
「……起きるはずがないことだった。この小娘さえいなければ!」
「主があり得ないと考えていたのは、罪人が罪人を許すこと、でしょう? 地獄に堕ちた者が、憎い相手を解放するはずがない、と。甘く考えておられた主の落ち度かと存じます」
すげえ、と。ラーギブが呟いた声がティルダの耳に届いた。確かに、可愛い姿で真っ直ぐに主に換言する狼は、すごいのだけれど。怖い魔王の勘気を被るようなことはどうか言わないで欲しいと、ティルダとしては切に願う。
でも、そんな彼女の願いを踏み躙るかのように、軽やかな笑い声が緊張を打ち砕いて響いた。軽やかで涼やかな──玉燕の、美しい笑い声だ。
「魔王も人の世の王とさほど変わらぬなあ。自身の非を認めずに臣下に八つ当たりするとは」
「玉燕……!」
先ほどまで感情を露に叫んでいたのが嘘のように、玉燕は悪女そのものの妖艶な笑みを纏っていた。魔王を挑発しようとしているのだと、ティルダにも分かってしまう。
(どうしてそんなことをするの……!?)
心の中で叫んでしまうティルダを一顧だにせず、玉燕はシェオルの隣に進み出た。いつもは獣呼ばわりするシェオルの頭を撫でまわすのも、ジュデッカに対する嫌がらせのような気がした。お前の下僕を良いように扱ってやるぞ、という。
「妾を罰するなら好きにするが良いぞ。妾はとても気分が良いのだもの。息子と会えた。助けてやれた。この上望むことは何もない。未来永劫凍らせられようと構うものか」
「わ、わたくしも……。今度こそ、主にお供する所存でございます」
梅芳も、足も声も震えているけれど玉燕に並ぶ。白い狼と、異国の女性ふたりの背中を見て──ティルダはやっと気付く。この人たちは、彼女を魔王の怒りから庇ってくれているのかもしれない。
「貴様らが裏切った相手は、嘆きの氷原にはいない。ほかの地獄に行ったかもしれないが──助かる望みなど、ないのだ」
ただ、ティルダのいるところからだと、ジュデッカの不機嫌そうな声は聞こえても表情はよく見えないのだ。玉燕たちが完全に壁になってしまって。
「妾が助かりたいなどと言うたかえ? 存外愚かなことを言う」
「貴方の負けですよ、魔王。稀代の悪女といえども、今は静かにしてあげて欲しいと──私も、思います」
さらには、シルヴェリオが苦笑交じりに口を挟んだ。ティルダのスカートの裾が引っ張られた、と思って見下ろせば、ラーギブも彼女の壁役に進み出てくれた。これで、この場の罪人はすべて、魔王に歯向かう姿勢を見せたことになる。
「罪人どもめ……」
もちろん、シルヴェリオの剣だろうとシェオルの牙だろうと、魔王にすれば何の脅威でもないのだろう。でも、ジュデッカは彼らの主張を認めてくれた──のだろうか。歯軋り混ざりに吐き捨てたかと思うと、彼はマントを翻して踵を返した。主の意図に応えてか、開け放たれた扉はひとりでに閉まる。力任せに叩きつけたかのような、高い音を響かせて。
室内には再び静寂がもどった。冷たい風ももう止んで、花たちものびのびと咲いているような気がする。それでも、まだ息を潜めて縮こまってしまうティルダを、シェオルがまたふわふわの毛並みで撫でてきた。
「お気になさらず。主も混乱しているのでしょう」
「え、ええ……」
気にしないのは不可能というものだったけれど、ティルダはとりあえず頷いた。何もかも、受け入れるしかなかったから。コキュートスから初めて罪人が逃れたことも、そのきっかけが彼女で、それによって魔王を怒らせてしまったことも。すべて、もう起きてしまったことだから。




