47.解放の条件
シェオルの肉球が、氷の溶けかけた床でぽふぽふという足音を立てた。長閑で可愛らしい音や、ふわりと揺れる白い尻尾の優雅さとは裏腹に、彼(彼女?)の声は真剣そのものだ。
「玉燕、もう一度はっきり言ってください。貴女は、貴女を殺した息子を許すのですか?」
玉燕を見上げるシェオルの耳は、ぴんと鋭く立っている。目の銀色も、きっとひどく冴えた表情を映し出しているのだろうと、後ろ姿を見るだけのティルダにもありありと想像できて背が伸びる。
でも、あまりに誇り高い玉燕が、言われたことにすぐに頷くはずがない。しかも、先ほどまでの彼女の悲嘆の声は、胸を引き裂くようなものだった。実の息子にやっと会えて、でも、お互いに地獄に堕ちてしまったのを突き付けられた──そんな時に声をかけられて、答える気になるだろうか。
「獣めが。魔王の眷属であろうに、この子をこの獄に閉じ込めたのはそなたらであろうに。何を卑しく盗み聞きして──あまつさえ、鼻先を挟もうというのか!?」
ほら、ティルダの予感は当たってしまった。シェオルは、コキュートスにおいて罪人ではない数少ない存在のひとつ。玉燕の立場からしたら、気楽な者が気軽に言ってくれる、と思ってもしかたない。
(シェオルさん……どうしたの……?)
ティルダの心臓はもう動かないけれど、不安と心配で胸がきりきりと痛む。玉燕の怒りを向けられるとしたら、コキュートスの氷を溶かしてしまった彼女こそ相応しいのに。
「とても、大事なことなのですよ。裏切られた者が裏切った者を許すなど、あり得ないこと──と、我が主は考えていらっしゃる。そして実際、嘆きの氷原に堕ちた者がその境地に至れたことはない。まあ、そもそも出会うことが稀なのもあるのですが」
シェオルの耳が、少しティルダのほうを向いてぴくりと動いた、気がした。シェオルにまでもお前のせいだ、と言われたようで、ティルダは胸の前で手を組み合わせた。それは、不安を抑えて勇気をかき集めるため。余計なこと、玉燕を余計に怒らせると分かっていても、声を上げるなら今しかない、と思ったのだ。
「あの、私──」
「許すと、確かに言ったであろうに……! 妾の言葉を聞き逃すとは何たること──賢い我が子が心を痛めつつしたことが、どうして罪になるはずがあろう!」
ティルダの精いっぱいの声は、眉を吊り上げた玉燕の怒声に遮られてしまった。ううん、怒りだけではなくて深い悲しみも声は、高く鋭く響いてティルダの胸にも突き刺さる。そしてまた、彼女は何も言えなくなってしまう。
「妾が許したから、どうだというのだ!? あの冷酷な魔王めが、目溢ししてくれるなどということがあるのか?」
「ありませんね。罪人の性根は決して変わらないというのが、主の持論ですから」
「そなた……!」
玉燕の怒声に、ティルダは首を縮めた。シェオルの言い方は、あまりにも冷たい。それこそコキュートスの氷のように。罪人ではない、魔王の僕──立場が違うのは最初から分かっていたけれど、こんなひどいことを言う狼ではないと思っていたのに。
この場の罪人すべての視線を一身に集めて、清らかな白い毛皮の狼は可愛らしく首を傾げた。
「ですから、罪人が解放されるための条件は、主が決して起きない──起きるはずがないと、考えたものです。そして実際、これまでコキュートスが罪人を逃したことはない……」
「まさか」
シルヴェリオの呟きに、シェオルは尻尾で床を打って答えた。ぴしゃり、というはっきりした音は、正解、と言っているようにしか聞こえなかった。
「裏切られた者が裏切った者を許した時、その罪人の鎖は砕け散る。それが、主が定めたコキュートスの摂理です」
シェオルの言葉に従って、全員の首が一斉に動いた。今まさに許された罪人──鴻輝のほうへ。すると──
(……本当に……!?)
ほかの罪人と同様に、鴻輝の手足に絡んだ銀の鎖が、ほのかに光を放ち始めていた。太陽が出ないコキュートスなのに、新雪が太陽の光に煌めくような眩さだった。鎖の輪のひとつひとつが光って──そして同時に、細かな罅が浮かんでいる。というより、罅が光を放っている、のだろうか。
「は、母上、これは──」
「鴻輝!」
子供のように頼りない表情で、鴻輝帝は母を見た。応えて玉燕は息子の身体を抱き締めるけれど、もちろんというか、光る鎖に変化はない。鴻輝帝が苦しんでいる様子がないのは、喜んでも良いのかどうか。
「く、鎖が砕けたら……どうなるんですか……!?」
「何分初めてのことなので」
ティルダが慌てて尋ねても、シェオルはあっさりと首を振るだけだった。分からないと言外に言われて、玉燕の眉がまた厳しい角度に吊り上がる。でも、彼女の怒声がまた響く前に、シェオルは穏やかに続けてくれた。
「ですが、地獄に囚われなければ、魂は世界の循環に戻るのではないでしょうか。罪なき魂が本来そうであるように」
「それ──本当に、そうなんですか!?」
罪の軽重に応じて魂が生まれ変わるのは、ティルダが信じる聖典の教えだった。生きていたころは疑うこともなかったけれど、地獄や魔王や違う国や時代の人々の存在を知った今、不意にそうだとさらりと告げられるのは衝撃だった。シェオルに、もっと聞きたいこともあるのだけれど、でも、そんな暇はなさそうだった。
鴻輝帝の鎖が、ついに砕けたのだ。ガラスの鈴が砕けるような、涼やかな美しい音を奏でて。鎖の欠片が粉雪のように降り落ちる中、鴻輝帝は急に消えていくように見えた。絹の衣装の華やかな色彩も、重たそうな刺繍の存在感も、景色のあちら側を透かしながら、雪のように溶けていく。
「母上……」
玉燕に向けて伸ばされた、彼の手も。母に呼び掛ける、彼の唇も。水面に映った影のように、今や頼りなく曖昧なものでしかなかった。ただ、彼の声だけがまだしっかりと聞こえている。
「お会いできて良かった。一時でも良い、お心を聞けて、確かめられて良かった。ずっと謝りたくて、何度も夢に見て──死した後、地獄で叶うとは……」
息子に触れようとした玉燕の手が、宙を掻いた。手を握ることもできないのを悟って、白い繊手は拳を握り──すぐに解いて、鴻輝帝がいる辺りをそっと撫でた。さらには腕を伸べて、抱擁のような形を作る。
「疾く行け、鴻輝。そなたは地獄には似つかわしくない。二度と妾に会ってはならぬ。非道な母のために堕ちてはならぬ。──生まれ変わったなら、今度こそ憂いなく幸せにならねばならぬ」
母の言葉を、息子が最後まで聞くことができたかどうかは分からなかった。鎖は、罪人を縛ることでコキュートスに繋ぎ止める役割もあったのかもしれない。鎖を失った鴻輝帝は、真夏の氷が溶けるよりもずっと早く、そして同じように跡形もなく。消えて、いなくなってしまったから。
鎖の放っていた光の名残も消え去って、コキュートスが本来のうすぼんやりとした明るさを取り戻してからも、玉燕は息子を抱いた姿勢のままずっと立ち尽くしていた。




