45.優しい人たち
梅芳の、叫ぶような口上を聞いて、ティルダはきょろきょろと辺りを見渡した。玉燕の罪はすべて息子のためだった、と──それがどういうことか、分からなくて。
当の本人と、その息子である鴻輝帝には、分かるのかもしれない。でも、それぞれに張り詰めた表情を浮かべている天の国の人たちに、直接尋ねる勇気なんてない。
この場の、ほかの者たちは──シェオルは、ちょこんと座った姿のまま、微動だにしない。ラーギブは、首を傾げた姿で佇んでいる。分かっていないのは、ティルダだけではないらしい。でも、シルヴェリオだけは違った。少しだけ眉を寄せた将軍は、何かに気付いたような表情だと思った。
「あの……玉燕さんは、本当は悪いことをしていなかった、ということなのでしょうか……?」
だから、ティルダはできるだけ小さな声で尋ねたつもりだったのだけど。
「愚かしいことを」
玉燕には聞こえてしまったらしく、細く整った眉がきりりと吊り上がる。吐き捨てる声も鋭くて、ティルダが思わず──寒さによってではなく──震えてしまうほど。
「罪を犯したから地獄に堕ちるのであろう。そなたにも聞かせてやったであろうに。下賤の者は物覚えが悪いこと……!」
「話を逸らそうとしているのですね、玉燕」
でも、シルヴェリオの声は、もしかしたら玉燕以上に鋭かったかもしれない。剣を抜いた訳でもないのに、短い言葉だけで玉燕は唇を結んで黙り込んでしまう。では──彼の指摘は、的を射ていたのだろうか。ティルダを怒鳴りつけることで、梅芳の言葉を「なかったこと」にしよう、と?
(そんな、咄嗟にできるの……?)
玉燕とシルヴェリオは、睨み合うように見つめ合っている。そのふたりの間に割って入る勇気もやっぱりなくて、ティルダは忙しく首を左右に振ることしかできない。
嘆きの氷原の酷寒よりも凍り付いた空気を緩めるように、シルヴェリオはほんの少しだけ微笑んだ。
「罪人としては、貴女の気持ちはよく分かる。自分の罪を、改めて暴かれたいとは思わないから。だが──ご子息の心境は慮られるし、貴女のこれまでの言動も目に余る」
「何を……!」
玉燕が唇を震わせたのは、たぶん怒りによってだろう。
この女性がとても矜持高いのは、ほんの少し接しただけのティルダにもよく分かっている。下賤な者に、同じ罪人だとか言われて一緒くたにされたり、気持ちが分かるだなんて言われたり。それに、生前と同じように振る舞っているのにどうして咎められるのか、とか。そんなことを言い出しそうだった。
でも、玉燕が息を吸い込んだのを遮って、シルヴェリオはティルダと、それに、床に平伏した梅芳に微笑んだ。
「だから、ティルダにも分かりやすいように私が知っていることを述べましょうか。天の、というかあの辺りの国々は、たぶん貴女の常識とは大きく異なる習慣があるのですよ、ティルダ」
「は、はい……」
話しかけられては、返事をしない訳にもいかなくて。玉燕の険しい目を気にしながらも、ティルダは恐る恐る頷いた。
確かに、着ている衣装だけを見ても、玉燕たちの国はティルダの知らない文化や歴史を持っている。一方で、シルヴェリオのそれは──時代が違うのは明らかだけど──まだ親しみがある。経験も知識も豊富そうな彼のこと、ティルダが知らないことを教えてくれるならありがたい。
「といっても、私も多くを知る訳ではないのですが。君主は多くの妻を持つ。妻たちやその子供たち、その実家は、次代の玉座や権力を求めて熾烈な争いを繰り広げることもある。──違いますか?」
沢山の妻に、沢山の王子や王女たち。彼らの──血が繋がっているはずなのに! ──争い。前置きをされてなお、思いもよらない王家の在り方に目を瞠るティルダを横に、シルヴェリオに目を向けられた梅芳は何度も首を大きく頷かせていた。
「そう……その通りでございます。皇后さまは、最初は後ろ盾もいらっしゃらない弱いお立場で──」
梅芳が語ったところによると、天の国の皇帝の妃たちというのは、由緒正しい家の出の姫君だけではないらしかった。これも、ティルダにとっては驚くことだったけれど。
たとえ生まれた身分は低くても、美貌と皇帝の寵愛だけを頼りに、数多の競争相手を押しのけて皇后の座を掴み取る例もあるのだとか。
(玉燕さんなら、簡単そうだわ……?)
シルヴェリオに釘を刺されて、諦めたように唇を結んだ表情でさえ、見蕩れるような美しさなのだから。もう少し若くて、纏う衣装や装飾ももっと煌びやかだったら、皇帝だろうとひれ伏すのではないかと思うほどに。
「その時、わたくしは他の御方にお仕えしておりましたが、恐ろしい敵が現れたと、皆さま戦々恐々となさっていました。日ごろは争う方々が、立ち向かわねばと一致団結なさったのは前代未聞のことです」
「そなたのせいで妾は何度も命を狙われたのだ、鴻輝。そこの梅芳も、最初は妾に毒を盛ろうとしたのだったなあ?」
憎まれ口のように割って入る玉燕は、少しだけいつもの彼女らしかった。皮肉っぽくて、高慢で。でも、たぶん先ほどのようにできれば梅芳を止めたかったのだろう、と感じられた。息子の傍らから立ち上がって、落ち着きなく歩き回っている様子からしても、ひどく苛立っているのが分かってしまう。
「わたくしは、自らの命惜しさに最初の主を裏切ったのです。だからこの地獄に堕ちたということでございます」
玉燕の思惑が分かったからだろうか、梅芳は今度は悲しそうに微笑むだけでさらりと続けた。あるいは、その微笑みは罪を自白できた清々しさを表していたのかもしれないけれど。
(じゃあ、梅芳さんは、玉燕さんと鴻輝さんを会わせたくないだけだったのね……)
梅芳が、玉燕を裏切ったのではなかったのなら。
最初に目覚めたときに、顔を青褪めさせて玉燕に合わせる顔がないと言っていたのは、玉燕は、当然我が子のその後を聞き出そうとするのが分かっていたから。問い詰められれば、何もかもを隠しておく訳にはいかないからだったのだ。
(それなら、とても優しい人だわ)
そう気づくことができて、ティルダの胸にほんのり温かい灯が灯る。でも──どこか苦い微笑を浮かべた梅芳が続けたのは、やはり恐ろしいことだった。
「鴻輝様は聡明な御子でしたから、お育ちになれば立太子されるかも、との噂は囁かれておりました。けれど、まだ幼いうちに父君が身罷られてしまって──」
「既に成人した皇子がいた、ということなのでしょうね? ならば幼い競争相手は目障りだったはず……」
シルヴェリオが、ちらりとティルダを見下ろしながら言ったのは、ぽかんとした顔をしていた彼女を助けてくれたのだろう。鈍い彼女も、言われてやっと理解する。玉燕は、幼い息子の身の安全を図らなければならなかったということを。
「はい。ですから皇后さまは新しい皇帝陛下に、鴻輝様の兄君の後宮に入られました。人の倫に外れることをご承知で……!」
「取り繕うでない、梅芳! あの男は妾が弑させたのだ。妾のためにな! 老いぼれた夫に殉じて死なねばならぬなど堪ったものではないからの!」
梅芳の言葉を遮るように、玉燕が高く声を上げた。同時に沓で床を踏み鳴らすのは、子供の地団駄のよう。鴻輝にとっては父親が殺された話にもなるはずだからだろう、怜悧な顔立ちの元皇帝は、凍っていた時よりもなお、青褪めて見えた。
「──申し訳ございません。ですが、皇后さまは最初からあの御方に御心を許してはいらっしゃいませんでした! 鴻輝様が成人なさるまでの──言っては何ですが、繋ぎ、でございましたでしょう!? あの御方をも弑し奉ったのは──」
「母親の一族が煩かったからだ! 名門の者どもは妾の出自を見下して我慢ならなかった! より扱いやすい者を玉座に据えれば何もかもが──」
「皇族ですらない、明らかな簒奪者はすぐに引きずり下ろされるとご承知でしたでしょう! 次の皇帝は鴻輝様しかいらっしゃらない、そうなるまでずっと待たれて──」
互いの言葉を掻き消そうとするかのように、玉燕も梅芳もどんどん声を高めていった。ふたりの女性の間で忙しく目を動かして、早口で叩きつけられる言葉を理解しようとして──ティルダの頭に浮かんだのは、ごくふんわりとした感慨だけだった。
(玉燕さんも、優しい……?)
彼女の罪はやはり重く、恐ろしいことなのだろうけれど。コキュートスに堕ちるのも、当然の報いなのだろうけれど。
でも、張り上げる声の必死さが、教えてしまっていると思うのだ。梅芳の言っていることこそが真実だということ。それなのに玉燕は、必死にそうではなかったことにしようとしていることを。
(でも、どうしてそんなことを……?)




