35.傷を舐め合って
小柄な少年を取り囲む大人たちは、きっとそれぞれに威圧感があって怖いはずだ。鎧姿も厳めしいシルヴェリオ。眩い衣装の綾と装飾品の煌めきと、何より自身の美貌で見る者の目を潰すような玉燕。シェオルも、閉じた顎から鋭い牙を覗かせている。──リヴァイアサンは、蛇だけに目を開けたまま眠っているように見えるけれど、巨大さと恐ろしさという意味では一番の存在感だろう。
だから、少年が頼れるのは、一応は見た目には普通の小娘のティルダだけ、なのだろう。服の生地をぎゅっと握る彼の手に、ティルダは自分の手をそっと重ねた
「あの……ここにいる人は、みんな悪いことをしてしまったの。貴方だけではないから……これからどうすれば良いかを、みんなで考えようとしているの」
罪を告白するのは、きっと辛いことだったのだろうと考えて、ティルダはラーギブに語りかけた。嘆きの氷原の主の渋面が、頭の片隅に過ぎるのを振り払いながら。
(罪人が傷を舐め合って、とか言われそうだけど……)
罪人がほかの罪人を慰めるとか、まして許すとか。白々しくて図々しいにもほどがあると、ティルダ自身がそう思う。覚えていないからといって、彼女の罪がほかの者たちよりマシだと思っている訳でもない。地獄に堕ちるのに相応しい罪を犯したのは、多分みんな同じなのだ。
(でも……!)
「ね? 無理はしなくて良いの。本当に。でも、もしも少しでも楽になるなら──」
悲しみ苦しんでいる人を見たら、手を差し伸べたいと思うのは、人として当然のことのはず。死んでも罪を犯しても、忘れてはいけないことのはずだ。
(死んでも、地獄に堕ちても……聖女、なんだから)
生前のティルダは聖女と言っても民の声に耳を傾けることは少なかった。祈りと魔力を使って天地に働きかけて、そして実りをもたらし人々の暮らしを安らげていた──と、言われてきた。
言われてきた、だけだった。人々の前に出れば跪かれ傅かれ、聖女と敬われてきたけれど。でも、貧しい人や苦しむ人に直接向き合ってきた訳ではなかった。多忙さと常に付きまとう疲労のために、それどころではなかったこともある。
(たったひとりを支えるのさえ、こんなに難しかったのね)
魔力を操ることは息をするように簡単でも、怯えた様子の少年を宥めるにはどう言葉を尽くせば良いのか分からない。あったばかりの小娘に何を言われても、信じ切ることなんてできないだろうに。不安そうな顔で国も時代も違う装いの大人たちを眺め──それでも、ラーギブはたどたどしく言葉を紡いでくれた。
「俺さえ捕まらなければ……俺が、最初だったんだ。まだ早いって言われてたのに、俺……親爺の役に立ちたかったから」
親爺、というのが盗賊の首領のルクマーンだということなのだろう。後世までも畏れられて語り継がれる盗賊たちにも、家族のような意識があったのかどうか。たとえ悪い人たちだったとしても、ラーギブの心の痛みも罪悪感も、きっとなくなるものではないのだ。
「言っても言わなくても殺されるなら、絶対に口を割るなって親方が言ってたのに。俺も、そうしたかったのに」
俯いたラーギブの頬を涙が伝うのが、ティルダの視点からでも見て取れた。本来のコキュートスならば、涙も凍り魂も氷と砕け散るものだとか。涙が水のまま流れ落ちるほどの暖かさは、少年にとっては多少なりとも居心地が良いと感じられたら良いのだけれど。どれだけ強く抱き締めても温もりを伝えられない、死人の身体になってしまったからこそティルダはそう思う。
ティルダがラーギブの髪を撫でていると、玉燕がふぁ、と退屈そうに欠伸を漏らすのが聞こえた。
「裏切り者とは分かっていたが、性根の据わっておらぬこと。罪を犯すならば覚悟のうえで、相応の目的があって臨むものであろうに」
「……覚悟や目的があれば罪を犯して良いというものではないだろう。子供が尋問や──拷問に耐えられずとも致し方あるまいに」
シルヴェリオは呆れた眼差しで玉燕を宥めている。眉を顰めているのはラーギブが死の直前に味わった恐怖や苦痛を思ったのだろうか。盗賊といえど、子供を拷問することには嫌悪を示す──この人は、やっぱり優しい方だと思えるのだけど。
でも、ラーギブはまだ彼の人柄はまだ分からないのだろう。玉燕に対する口調の硬さを自分に向けられたと思ったのか、少年はがばりと顔を上げてシルヴェリオたちに訴えた。
「子供だけど……役に立つから! 追い出さないで! もう嫌なんだ。寒いのも怖いのも──何でも、するから!」
少年の突然の大声にシルヴェリオは一瞬目を見開き──そして、微笑んだ。なぜか、ティルダに向けて。
「私は貴女の判断に従いましょう、ティルダ。貴女がいなければ私はここにはいられなかったのだから」
そして、玉燕はそっぽを向きながらティルダを横目で睨む。
「妾が否と言うたところでそなたは聞かぬのであろ。追い出すことができるのはそなただけだ」
シルヴェリオはともかく、玉燕の言葉が思いのほかに優しくて寛容で、ティルダは思わず聞き返そうとしてしまった。美しい声を聞き逃したなんて思われたら、きっと玉燕は機嫌を損ねるだろうから危うく呑み込んだけれど。代わりに、声を弾ませて、確かめる。
「──良いんですか!?」
「まあ、彼がいようといまいと『ここ』は狙われると思いますしね。なぜ氷が──罪人が溶け出したのか、賊どももすぐに悟るでしょう」
「この氷の獄でもっとも価値があるのはそなたであろうからな。口惜しいこと」
でも、苦笑と冷笑で迎えられて、ティルダの喜びはすぐに──コキュートスそのもののように──冷え切ってしまう。ふたりが何を言っているのか咄嗟に分からなかったけれど、何か不吉なことを言われたようで。
「え……?」
笑顔のまま首を傾げたティルダは、間が抜けて見えたのだろうか。鼻先で彼女の腕をつつくと、シェオルがそっと教えてくれた。
「また凍りたくないのは誰しも同じ──となれば、貴女と『花』を確保しようとするでしょうねえ」
「えええ!?」
そういえば、玉燕も出会い頭に彼女を召使に、なんて命じてきたのだった。お妃だからそういう発想になった訳で、盗賊たちなら当然、攫うとか盗み出すとかいう方向になる、のだろうか。
「じゃあ、あんたを守れば認めてくれる? 相手が何人で、何が得意か、とか……ちゃんと覚えてるし教えるから! そういうこと、だよな?」
死人の癖に目眩を起こしたティルダを、でも、ラーギブが支えてくれた。少年の輝くばかりの笑顔は、花とは違った明るさでコキュートスを照らしてくれるかのよう。……だから、きっとこれも良い変化で良い出会いのはずだった。




