26.玉燕
部屋の扉を開けるなり、鋭い声が鞭のようにティルダを打った。
「遅い! 妾をいつまで待たせる気だったのだ?」
「す、すみません……?」
咄嗟に謝りながら室内を窺い──ティルダは息を呑んで立ち尽くした。
床の石材の隙間を割って何本もの茎が伸び、蕾をつけ、さらにいくつかは花開いているのは部屋を飛び出した時と変わらない。花の彩と、氷を溶かして根を張る植物の逞しさによって、嘆きの氷原の寒さが多少なりとも和らいで感じられるのも。
変化は、長椅子にゆったりと寝そべる女性の存在、だった。女王さながらに悠然と、堂々と。纏う衣装は、薄い絹を何枚も重ねたティルダが知らない国のもの。それでも、細やかな刺繍や重なり合う生地が描く優雅な線が、最高位の貴人のための衣装だろうとすぐに教えてくれる。
艶やかな黒髪は複雑な形に結い上げられて、その人の細い首で支えるのは大変ではないかと思ってしまうほど。髪の重みを支えるためにか、頬に添えられた指は細く白く、ティルダを見据える眼差しは強く、けれど同時に妖しく潤んで吸い込まれそう。紅い唇も、どういう訳かとても甘そうに、芳しそうに見えてしまって──同じ女なのに、見蕩れずにはいれらない。
恐ろしいほどの美しさと傲慢さを纏うその人は、とにかく眩しい存在だった。
(この人が……あの……?)
歴史に残る傾国の美女と言われて思い浮かべる姿が、そのまま現実になったかのような人だった。だから、この人こそが玉燕で間違いないのだろう。そうと頭では分かっても、当然のように部屋の真ん中に居座って、初対面のティルダたちに叱責する状況についていけない。何より、目の前の女のあまりの美しさに口と頭が上手く回ってくれそうにない。
ティルダが何も言えないでいると、玉燕らしき人は深々と溜息を吐いた。軽く目を伏せたことで睫毛の長さが見せつけられて、それでまたどきりとしてしまう。
「皇后を前に平伏もしないとは無礼な娘だの。──だが、天の民でないのなら無知も無作法もいたしかたない、か」
「玉燕妃。貴女の国は既になく、まして貴女は死して嘆きの氷原に堕ちた罪人だ。立場を弁えられるが良い」
さすがというか、シルヴェリオはティルダよりもしっかりしていた。玉燕の美貌にも心を動かされないなんて。……この人のことだから、美しいものに見蕩れるなど罪人には許されないこと、とか言い出しそうだけど。
でも、玉燕はシルヴェリオの鋭い声をあっさりと無視した。黒々とした濡れたような目は、ティルダだけを見つめている。白い指先が彼女の頬を離れ、ちょいちょいと上下してティルダを招く。
「そなたが氷の帝の言っていた聖女、であろう? 許すから近う寄れ」
「は、はい……」
ふらふらと誘われるようにティルダが足を進めると、目の端でシェオルがぶわりと毛を膨らませたのが見えた。
「ティルダ。気を付けて」
そういえば、このとても綺麗な人も罪人──裏切り者、なのだった。だから、見た目で油断してはいけないのだ。でも、怖いという感情を思い出す前に、ティルダは玉燕が横たわる長椅子の前に跪いていた。顔を良く見せろ、と。眼差しだけで命じられたのが分かってしまったのだ。
「ふむ、髪と目の色は珍しいが、ただの小娘のようだが……」
結んでいないティルダの髪を指先で梳いて、頬を突いて摘まんで、玉燕は不思議そうに首を傾げた。涼やかな目が少しだけ見開かれる、ほんのわずかな表情の変化だけでも、止まっているはずの心臓がどきどきするような気分になってしまう。
「だが、この氷の獄に信じがたい変化が起きたのは事実……妾が目覚めることができたのは、この娘のお陰であることは間違いないのだろうな」
玉燕が部屋のあちこちに咲く花を見渡したので、ティルダは妖しい目に見つめられて居心地の悪い思いをしなくて済むようになった。だから、やっと声を出すことを思い出せる。
「た、多分そうだと思います。あの、私がここに堕ちてからのことなので……」
「誰が口を開いて良いと言った? まったく礼儀を知らぬ小娘だの」
必死に伝えようとした言葉は、鋭い声と眼差しでぴしゃりと封じられてしまったけれど。無作法を咎めるかのように頬を抓られて、ティルダは再び言葉を喪う。ただ、シルヴェリオの呆れたような溜息と、シェオルの低い唸り声が背中から聞こえた。
「──だが、妾は恩を知らぬ訳ではない。功績には正しく報いてやらねばな。無様に凍り付くのも二度とご免じゃ。正体が何とは知れぬが、この娘の技は確かに重宝するもののようだ」
(この人……私に話をしてないんだ……!)
玉燕は、あくまでも独り言を呟いているだけ、ティルダに話しかけているつもりはまったくないのだ。黒い目が彼女を捉えることもないし、シルヴェリオとシェオルの苛立ちも、ティルダが振り向かなくても分かるのに目に入れようとしないのだ。独り言に返事があったら戸惑うのは当然かもしれないけれど、高貴な人は下賤の者に気を留めないものなのかもしれないけれど。ではティルダはどうすれば良いのかというと、これもまたさっぱり分からない。
「ふむ、決めた」
「は、はい!?」
ひたりとティルダに視線を定めた玉燕は、今度こそ彼女に向けて何か言おうとしているのだろう。でも、古の国の妃がいったい何を言い出すのか──露骨に身体を強張らせ、びくりと跳ねたティルダに、玉燕は蕩けるような笑みを浮かべた。
「聖女とやら、そなたを妾の召使にしてやろう」




