20.《背信者》シルヴェリオ
「将軍こそ相変わらず理知的な態度でいらっしゃる。嘆きの氷原では稀なことですが、素晴らしいことです」
「地獄に堕ちたとはいえ人であることを忘れてはならぬと思うのでね。いや、貴方を軽んじる訳ではないが。誰が見ておらずとも咎めずとも、礼節を忘れた者はもはや人間ではないだろう」
「誠におっしゃる通りです」
ティルダの高い悲鳴にも構わず、シェオルとその人は和やかに言葉を交わしている。まるで、旧知の友人のように。
(どうして、こんなに平然と……っ!?)
彼は凍った石の寝台に腰掛けて、足元にちょこんと座ったシェオルを見下ろしていた。将軍と呼びかけられる通り、全身を覆う金属の鎧を纏っている。ティルダが生前に目にしていたよりもずっと古めかしい造りに精緻な意匠は、古い時代の将だろうと思わせる。教会の人たちが見たら目の色を変えるような失われた加護の術が施されているのかもしれない。鈍色の鎧には例によってジュデッカの鎖が絡んで、この人もティルダと同じく罪人なのだと示している。
座っているから彼の背丈は分からないけれど、鎧の質量を差し引いてもかなりの長身と体格に恵まれた人だろう。それでいて、薄青の目は穏やかな水面のように凪いで、知性豊かな人柄を思わせる。壮年から、老年に差し掛かるくらいの年齢だろうか、軍や宮廷にあって信頼を集めるであろう重臣、といった雰囲気を漂わせる武人だった。
(素敵な小父様……なのでしょうけど! でも、でも……!)
シルヴェリオ将軍という人の容姿もいで立ちも、はっきり言って些細なことだった。彼の佇まいで何よりもまず目につくのは──深々と腹に突き立った剣、だった。
「あ、あの! い、いったい何が……誰が、そんなこと──ううん、まず……痛くないんですか……!?」
叫びながら、馬鹿なことを聞いている、と分かっていた。血の臭いがしなかったのは流れる端から凍ってしまうからだろうか。でも、彼の有り様を見てしまえば、あまりにも無残な傷に気付いてしまえば、もう目を離すことはできない。
厚い刃の剣が、シルヴェリオの身体を完全に貫いて氷の壁にも刺さっていること。鎧の隙間から血が滴って、彼が掛ける寝台や独房の床に、赤黒い水たまり──凍っているけど──を作っていること。普通なら、致命傷になるはずの重傷のはずだ。痛くないはずがない。でも──穏やかな武人は、穏やかに苦笑を浮かべるだけなのだ。
「痛いとも。痛くなければ地獄ではない。違うかね、お嬢さん」
「あの……ジュデッカ様が、これを……!? 鎖だけじゃ、なくて……!?」
「ああ、あの魔王がそのように慈悲深ければ良かったのだが」
シルヴェリオが溜息を吐くと、彼の腹から突き出た剣の柄が微かに揺れた。魔王──ジュデッカに言及する時も彼の口調は変わらず理知的で、恨みや憎しみは欠片も感じられない。だからといって安心するには、彼の姿はあまりに痛々しいのだけれど。
「《調停者》などという美名に惑わされずに地獄に堕としてくださった神の慧眼には感謝するばかり──だが、責め苦もなにもないものだとは、地獄の看守があのようにやる気がないものとは、予想だにしていなかった……!」
「シルヴェリオ将軍は、我が主の氷の責め苦では物足りないと仰るのですよ。しかし、罪人の要望に応えてくれるほどあの方は優しくないもので。この方は、仕方なく自らを罰することにしたのだそうです」
シェオルに言われて、ティルダはシルヴェリオの腰に佩かれた鞘の中身がないことにやっと気付いた。どうやら、彼を貫いているのは自らの剣らしい。でも、なぜそんなことをするのかは──彼自身が、教えてくれる。
「どうやら、ここでは傷を負ってもじきに治ってしまうようなのでね。まあ、死後に死の安らぎが与えられるはずもないが。だから、心配は不要だし、哀れみはなお不要だ。我が罪はこの程度の痛みではちとうてい贖えぬゆえ」
シルヴェリオの笑顔は穏やかなのに、ある意味ではコキュートスの酷寒よりもよほど激しい寒さをティルダに感じさせた。では、この人は傷が治るたびに再び剣を自らに突き立てていたのだろうか。それほどの苦痛が相応しいと自ら語る、いったいどれほどの罪をこの人は犯したのだろう。
「あの……罪を悔い改めない罪人ほど凍らない、ということでしたけど……」
「要は凍って堪るか、という気合のようなものが大事、ということですね。将軍は何としても苦痛を感じ続けたいのですから。なので、とても長く私の話し相手になってくださったのですよ」
(そんな……こんなに、痛そうなのに……!?)
シェオルの口ぶりは、シルヴェリオが自らを罰したのが一度や二度のことではないと語っていた。腹に剣を突き立てた人と退屈しのぎに談笑する白い狼、という場面を思い浮かべると、ティルダは目眩がしそうな気分になる。コキュートスの寒さも虚無も変化のなさも──そしてそこの住人たちの心の持ちようも、彼女にはまだ計り知れない。
シルヴェリオ本人も、その通り、とでも言いたげにシェオルの言葉に頷いた。彼(彼女?)との語らいを懐かしむような微笑は、でも、すぐに翳ってまた溜息が漏れる。
「だが、ついに凍ってしまっていたのだな……罰から逃れようと思ったつもりはなかったのだが……」
「あの……」
気にしないで、とも良かった、ともティルダには言えなかった。シルヴェリオの罪も事情も知らないのに、簡単に気休めを言って良いはずがないから。彼が剣の柄に手を掛けたのは、傷を抉ろうというのか──止めたいけれど、それをしても良いのかも分からない。
それこそ凍り付いたように何もできないティルダを他所に、けれどシェオルはさらりと言った。
「貴方が目覚めたのはこの人のお陰なのですよ、将軍」




