合流の夜明け
本日二話目の投稿です。ご注意下さい。
静寂の中にあった森に、人馬の音が混ざったのはそれから間もなくのことだった。
私と謙王はすぐに顔を見合わせた。
(やっと、お迎えが? 将軍が来てくれた?)
全身を耳にしながら、岩の上で中腰になる。
馬の嘶きや、複数の足音。そして、「殿下」という呼びかけを、確かに聞いた。
近くにいる謙王が、息を飲む音が聞こえた。
「殿下! どちらにいらっしゃいますか? お助けに参りました!」
木々の間からそんな声が聞こえると、謙王は立ち上がりかけた。
そこへ私はさっと手を伸ばし、彼を引き寄せて川から離れ、高く茂る草むらの中に屈ませた。
なぜ身を隠すのか、と問うように謙王が私を見る。
私は小さな声で言った。
「たしかに羅国訛りはないようです。でも、この場合、普通は私の名を呼びませんか?」
光威国兵とここまで来たのは私だ。国境を超えてから、作戦を副使達と担ったのも私なわけで。
となれば謙王より私がここにいる可能性の方が、普通は高いと考えるのではないか。
――残念過ぎる。でも。
(あれは羅国兵だ。将軍達のお迎えじゃない!)
足音が近づき、私は急いで馬達も横たわらせ、皆で茂みに隠れた。
「殿下〜? どちらにいらっしゃいますか?」
声がますます近づき、私は硬く両目を閉じた。私と謙王は身を寄せ合い、互いの手を取り合ってできる限り身を屈めた。漏れる息の音すら立てたくないのに、鼓動が早くなり荒い呼吸の音が止められない。
ここで羅国兵の手に落ちたら、どうなる――?
繋いだ手は小刻みに震え、最早私と謙王のどちらが震えているのか分からなかった。互いに汗をかき、滑る手を必死に繋ぐ。
私達は、運を天に任せるしかなかった。
祈るような気持ちでひたすら耐えていると、足音は遠ざかっていった。
そうして静寂が再び戻っても、私達は長いことその場を動けなかった。
どのくらいそうして、岩のように固まっていただろう。
森の茂みを荒々しく馬が踏み鳴らす音が聞こえた。
私と謙王ばかりでなく、馬達も弾かれたように顔を上げて耳をぴくりと動かした。
そして、間もなく大きな声が森中に響き渡った。
「明様、明様! どちらにいらっしゃいますか? 驃騎将軍の宇文弦月が、お迎えに参りました‼」
私と謙王は今度こそ、立ち上がった。
久しぶりに立ったので、お互いふらついていた。だが目だけは爛々と輝き、みるみる希望が蘇っていくお互いの顔を、目の中に映し合いながら笑った。
「将軍です、殿下! 間違いなく、あの良い声は彼の声です」
「ええ。今日ほどあの無駄に良い声を聞いて、喜んだことはありません」
万里の手綱を取り、声の方向へ駆け出す。高く茂り身を隠してくれていた雑草が足を取り、歩きにくくて今やもどかしい。
「ここにいます! 将軍、衛明はここにいます」
あらん限りの声で叫ぶ。
黒々とした木々の間に、騎乗した男の姿が見えた。
そして彼に続き、数人、いや十人以上の兵達の――見慣れた臙脂色の軍服を纏った光威国の兵達の姿が見えた。
「明様! ――殿下! ご無事でしたか‼」
安堵に上ずる将軍の声が響き、彼がこちら目指して爆走してくるのが視界に入るなり、私と謙王は歓声をあげて抱き合った。
互いを手繰り寄せ、ヒシと抱き締め合う。
そこには、一緒に命からがら脱走し、不安に耐え、ついに救出されたことへの喜びと戦友を称えるような、純粋な気持ちだけがあった。
抱き合ったまま顔を上げると、将軍はすぐ正面に来ていた。弾ける笑顔で将軍を迎えた私達とは違い、彼は片目を細めて硬く唇を引き結んでいる。再会に喜ぶ暇など、今はないのだろう。
将軍に遅れて、兵達が駆けつけてくれた。その場には瑞玲もおり、どうやら彼女は私達より先に、将軍と落ち合えたようだ。だとすればきっと副使達も無事だろう。
彼らの無事が分かり、密かにほっとする。
将軍は馬から降りるなり、謙王と私に怪我がないかを確かめた。体に触られそうになり、私はつい素っ頓狂な声をあげてしまった。
(こんな女官服のままで、触られたら女だとバレちゃうかもしれない!)
謙王の背に隠れるように回り、将軍から距離を置く。
「怪我はありませんから、ご心配なく!」
将軍の瞼が力なく下がり、黒曜石の瞳が曇る。
「ご無事ならいいのです」と呟くと、将軍は突然膝を地面につき、謙王に頭を深々と下げた。
「驃騎将軍……?」
謙王が戸惑いの声を上げる。すると後ろに控える瑞玲が、将軍に掌ほどの木箱を手渡す。
将軍は木箱を開け、両手で差し出しながら中身を謙王に披露した。謙王の顔色が夜の闇の中でも、瞬時に変わるのが分かった。
「殿下。兵符をお受け取り下さいませ。この宇文弦月、殿下の御為に光威国軍総数十余万を、率いて参りました」
「軍勢を私の為に? 怜王ではなく?」
「この先、南の草原に天幕を張り、本拠地を設けております。いつでも我々は羅国に攻め込む準備ができております。我らは皆、殿下の兵です」
謙王の揺れる視線は、将軍が差し出す龍の形をした兵符の上に注がれていた。その琥珀色の目を黒曜石の目がじっと見上げる。
謙王の手はゆっくりと動いた。僅かに震えながらも、その手は木箱の中の兵符へと辿り着き、薄い龍を手にとった。
「驃騎将軍。私でいいのか?」
ここで将軍は苦笑した。
「それはもう、今更すぎるご質問にございます」
そのあまりの正直な言い方に、謙王は思わず笑った。
瑞玲が前に進み出て、口を開く。
「殿下、兵達のところへご案内致します」
謙王が瑞玲に連れられてその場を離れると、急に将軍が私の手を引いた。何事かと見上げると、穿つような視線で私を見下ろしている。
「殿下は皇帝におなり頂く方です。皆の前で抱き合うなど、殿下としても軍神としても、無防備が過ぎるのでは?」
一瞬、何を注意されたのか分からなかった。――そうか、迎えとの合流に喜んだ時のことだ。
(いやいや、ちょっと待ってよ。無防備って。自分だって、元宵節の影絵の前で、私のことを抱き寄せたりしたのに……)
「――さぁ、我々もここを出ましょう」
将軍は私の手を握ったまま、大股で森の藪の中を進んだ。私はもう片方の手で万里の手綱を持っているので、両手が塞がって歩きにくい。
「将軍、歩くの速いです! 女官の服って森歩きには不向きなんです」
すると将軍はぴたりと止まった。急に立ち止まらないでほしい。
万里がすぐに止まれず、手綱が引っ張られる。
「将軍?」
今度は何よ、と首を傾げながら振り返ると、彼は力の抜けた表情で呟いた。
「ご無事で、本当に良かったです。どうなることかと、御身を案じておりました」
向き合う将軍が私の手を引き寄せ、己の両手で包み込んだ。カッと体中が熱くなる。手がゆっくりと開かされ、将軍の指が動き、恋人繋ぎにさせられる。
もう、意味が分からない――、いや、分かり過ぎて思考が停止する。
(こんな手の繋ぎ方、どう考えてもそういう相手にしか、普通しないよね……?)
将軍はそのまましばらく無言を貫き、絞り出すように言った。
「愚かしいことに、明様を戦に連れて行きたくありません。――軍神を隠したいなど、おかしなことを考えてしまうのです」
とりあえず一番おかしいのはこの状況だと思うのだが、心臓がばくばくと暴れ過ぎて、何も考えられない。
「今だけ、ご無礼をお許し下さいますか?」
将軍は返事を待たず、私の手を持ち上げるとそこに何か柔らかなものを押しつけた。
――目にしたものと、手に受けた感触が信じがたい。
(今のって……どう控えめに考えても私、手にキスされたよね!?)
手を振り払わなければと思うのに、体が麻痺したように動かない。
必死に自分に言い聞かせる。――これは、将軍が私を少年だと思っているせいなのだ。彼は今、私を恋愛対象の同性だと思っているから。
だから、勘違いしちゃだめだ。実際には私は、彼の恋愛対象になり得ない。
いつの日か私の正体が分かれば、びっくりしてがっかりして、気持ちも冷めてしまうに決まってる。
ときめきそうになってしまう胸中に、必死に蓋をする。
「将軍、皆が待っています。早く行きましょう」
すると将軍の小さな溜め息が聞こえた。
「明様は私だけではなく、皆の軍神でしたね」
将軍はそこまで言うと、急に私の手を離した。
突然放り出された手が、温もりを失って私の太腿にぶつかる。
将軍は時間をかけて私から目を離し、前方に向き直った。そうして今の発言を振り払うように被りを振ってから続けた。
「兵達の前に出る前に、お召し替えを。明様は真紅の袍を纏って、我が国の兵達を鼓舞して頂かねば」
そうだ、こんな所で一喜一憂している場合じゃない。職業:軍神様という事態を一瞬忘れかけていた。
本当の戦いは、これからだ。
包まれた手の温もりが、ほんの少しだけ惜しかった。
将軍に連れられた私達が、散り散りに逃げていた使者団達と合流し、光威国の天幕に到着したのは夜明けだった。
地平線がおぼろげに明るくなり、やがて強烈な朝日が天と地を割る。
遮るもののない陽光に、目を細める。
広大な草原に、天幕が立ち並んでいた。
集結した十万の光威国の兵達だ。
謙王は騎乗したまま天幕の間を馬で進み、整列して彼を見上げる兵達のすぐ前まで出た。馬をそのままゆっくりと歩かせ、兵達の前を数回往復する。
そうして自分の姿を彼らに刻みつけると、謙王は声を張り上げた。
「私は先の皇后の皇子であり、皇帝の長子である!」
兵達は誰一人口を開かず、ただ謙王に注目している。謙王は方向を転換し、兵達の横を馬で進み始めた。その動きに合わせて、兵達の頭が動いていく。
「私は先程、将軍からこの草原に集結した光威国軍の、全権を委任された」
謙王は金色に輝く掌ほどの大きさの物体を右手で空高く掲げた。それを見て、兵達が一斉に手を組み、低頭する。あれが兵符だと兵達にも分かるのだろう。
謙王の乗る馬は、兵達の丁度後ろの辺りを回っていた。
「皆、何の為に遥かこの地まで駆けてきた? 使者達の護衛か? 一方的に破棄された和平を、再び締結し直す為か?」
問いかけに応える者はなく、吹きつける風が天幕入り口にある垂れ幕を揺らすバサバサという音だけが、耳に入ってくる。
「条約は履行する為にある。羅国の民どもが草原にのさばり、辺境州で略奪を繰り返す違法状態を、我々は光威国の尊厳と名誉にかけ、これ以上看過することはできない!」
それまで黙っていた兵達が、「そうだ。その通りだ」と漏らし、それがどんどん伝播していく。謙王は方向を変え、兵達の横を歩いた。
「寛大でいる時期は過ぎた。――そう、もう屈辱に耐える必要はない」
今や全ての兵達が顔を上げ、強い光が宿る瞳で謙王を見つめていた。
謙王が兵達の正面に戻る。
一呼吸置いてから、彼はあらん限りの声で問いかけた。
「君達はここまで怜王に命じられ、将軍についてきた。謙王たる私についてきてくれる者は、ここにいるか?」
ここにいる、とまず私が叫ぼうかと思った。
だがその必要はなかった。
私がその台詞をいう前に、膝をついていた兵達が次々と立ち上がり、「おります」と叫んだのだ。
中には拳を突き上げ、打倒羅国を威勢よく唱えている者もいる。
遠巻きに謙王の行動を見ていた将軍は、独りごちた。
「どうやら私は謙王を見くびっていたらしい」
私は万里の背を撫でながら、その真意を確かめる。
「もしかして、兵符を渡したことを後悔していますか?」
将軍は視線を謙王に投げたまま、肩をすくめた。
「それに答えるのは、時期尚早かと存じます」
将軍も素直じゃない。今度は私が肩をすくめた。




