私、羅国行きを決意する
光威国は羅国と新たな和平条約について話し合うこととなった。
手始めにその準備として、光威国から羅国に使者が行き、和平会談を行う日取りや場所が話し合われるのだという。この会合には光威国側から、謙王の出席も条件として出されていた。
一方で軍議は頻繁に開かれた。
和平の使者を送る為に、大軍が北に同行することになったのだ。
総大将は宇文将軍だ。
禁軍は使者の保護と送迎の為だけに国境の緩衝地帯まで向かう役回りで、それ以上北上したり、武力の行使は当然予定されていない。だが万一国境で不測の事態が起きた際、迅速に行動ができるよう、軍議で何十通りもの戦時の陣形が話し合われたのだ。
しつこいほどに。
馬の準備も次々と整えられ、使者団の乗る馬が大厩舎に集められた時、私の不安は不審へと変わった。
どの馬も駿馬として有名な子達だったのだ。まるで使者達が急いで逃亡しなければいけない事態が、予め想定でもされているかのように。
「何か、おかしい……。これは絶対、裏がある」
一部の者達以外、肝心なことを知らされていない。そんな気がしてならない。そもそも私も軍神として輿に乗ってついていくことになっているのは、ただの護衛としてはやり過ぎではないのか。
ある夜、軍議の後に殿舎で残務整理をしている将軍に声をかけた。彼は巻物に筆をいれているところだった。
挨拶もそこそこに、本題に入る。
「教えて下さい。怜王は本当に和平を結ぶ気があるのでしょうか?」
将軍は筆を硯に戻し、周囲に人がいないことを確認してから、小さな声で言った。
「――なぜそのようなご質問をなさるのです?」
使者の代表は外交を担当する郎中だ。だが……。
「使者団に瑞玲がいます。和平会談の詳細を詰める為の一行としては、特に必要のない人材に思えます。それに禁軍がまるで戦いに行くような準備をしているからです」
将軍は押し黙り、硯に手を伸ばすと墨を擦り始めた。円形の石の硯と墨が立てる摩擦音だけが響く。私は墨液を覗き込み、将軍の右手首を掴んだ。
「将軍、もう十分黒いですよ。これ以上濃い色にはなりません」
無駄な作業を指摘すると、将軍は苦々しく笑った。
「北の草原には盗賊が出没しますし、時折烏楼国も侵入します。そもそも羅国は皇子を拐うような国です。軍人は常に万一の事態に備えるのです」
本当に、それだけだろうか。
私は机を挟んで将軍の真正面に立ち、両手を机に乗せると体重を掛け、身を乗り出した。そうして彼を挑発を込めて、睨みつける。
「こんな物語をご存知ですか? 昔、ある国が長年敵対していた隣国に、和平を呼びかけました。そして和平の証と称して、自国の王太子を人質として送ったんです。ところが父である王は、王太子であるその息子がどうでも良かった」
淡々と語り始めると、将軍は話の趣旨がよく分からない、とでも言いたげに少しだけ眉根を寄せて私を見上げた。
「王はその王太子を元々廃太子にして、寵愛中の妃が生んだ別の王子に王位を継がせたかったのです」
結果、王は王太子が人質として滞在中にもかかわらず、この機を逃すものかと国を挙げて隣国に攻め込んだ。そんなことをすれば、王太子が殺されてしまうのを、承知の上で。
「隣国に攻め込めば、ついでに今や邪魔者になっていた王太子を抹殺できて、好都合だと考えたのです」
将軍は黙って私の話を聞いていたが、黒曜石の瞳が左右に微かに揺れた後、ついと私から離される。
「そんな小説は、読んだことも耳にしたこともありません」
(それは、そうでしょうね)
なぜならこれは小説ではなく、私のいた世界にあったある国の史実だからだ。
「将軍は、これと同じことをなさろうとしているのではありませんか?」
将軍は「違います」と間髪容れずに答えた。だがその目は、私の方を見ない。
「それなら安心しました。本当に違うなら、私も前に出て使者団に入ります。和平に役立たせて下さい」
将軍は訝しげな表情を浮かべ、鋭い眼差しで私を見上げた。
「明様は送迎の禁軍にご同行され、輿にお乗り頂くのみです。前に出たり使者団に入られる必要はありません」
「後方にいるより、使者団の中にいる方が、軍神として効果的な役割が果たせるかもしれません」
「何を仰いますか! 羅国に行かれるなど、とんでもない」
将軍が勢いよく立ち上がり、反動で椅子がバタンと後ろに倒れる。机の上の硯の中の墨汁が、さざなみを立てる。急に声を荒げたその顔は、僅かな間に紅潮し始めた。
私は将軍を真っ直ぐに見つめた。
「羅国で危険はないのですよね? それならなぜ止めるのです。将軍の仰るように護衛を鼓舞するだけでは、衛明の名倒れです」
北砂州へ発つ日。自分の無実を訴え、「貴女さえ分かってくれていればいい」と言った謙王の、悲しみに満ちた顔が脳裏に蘇る。
(でも、潔白だと皆に分かってもらえなければ意味がない。あの元宵節の夜のように、悔やみたくない)
「後ろにいたら、何もできません。今何かしなければ、きっと後悔します」
赤らんでいた将軍の顔は、今度は一転して血の気が一度に引いたのか、青白くさえ見える。
「羅国での会談は、瑞玲達が上手く処理致します。明様は緩衝地帯にお残り下さい」
乾いた笑いが込み上げる。そんな弱気なことを言うなんて。
「軍神が後方にいるなんて、お笑いです。将軍は何の為に私を廟から連れてきたのですか?」
将軍は口を開きかけたが、声を発することなく、視線が宙に逸らされると共に再び唇を引き結ぶ。
私は将軍に背を向けながら、言った。
「早速、怜王に提案してみます」
怜王は皇太子として、連日政務が行われる光極殿に詰めている。彼を訪ねようと歩きだすと、将軍は作業を放り出して私の後を追いかけてきた。
血相を変えた将軍は、光極殿までの道すがら、私を「早まったことはおやめ下さい」と必死に説得しながらついてきた。
光極殿に着くと、珍しくどこからか優雅な音楽が聞こえてきた。
柔らかな笛の音に、明るく跳ねるような琴の音が重なっている。この非常時に聴くと、頓珍漢な音楽に思える。
将軍を置いて中に入ると、執務の場であるはずの殿舎の中に楽坊の宮女達がいた。部屋の片隅で楽器を演奏している彼女達は、随分と衣装を着崩し、胸周りを露出していた。音の発信源は、どうやらここだったらしい。
思わず目を疑ってしまう。怜王が引き連れてきたのだろうか。
なんだか凄く、場違いに見える。萌香はこの男の、一体どこに惹かれたのか。
奥の席にいた怜王のもとに急ぐと、彼は椅子から立ち上がって私を迎えてくれた。
単刀直入に本題に入る。
「皇太子殿下、折り入ってお願いしたいことがございます」
「明様が私に? 一体何でしょうか」
「和平の使者に、私も同行させて頂けませんか?」
室内にいた侍従達が、ざわつく。楽師達は何事もなかったかのように、優美な演奏を続けている。
「殿下はご賢明にも、いたずらに武力を衝突させることなく、和平の道を選ばれました。ですが光威国の和平は、本気ではないとの噂が皇宮内で絶えません」
怜王は私の指摘に、表情を陰らせた。不本意な噂が広まっていることに気を悪くしたのか。もしくは作戦が読まれてしまっていることに対する怒りか。どちらかは分からない。
「ですがこの光威国の軍神であり、初代皇帝をお支えした私が使者に同行していれば、我が国の和平に対する本気度を、羅国に理解してもらえると思うのです」
怜王は目を細めて、ゆっくりと頷いた。
「それは一理あるかもしれません。ですが、そのように厄介なお役目を、明様に手伝って頂くなど、恐れ多い」
その時、将軍が殿舎の中に駆けこんてきて、私の隣に並んだ。どうやら外で待つことに痺れを切らしたらしい。彼はそのまま怜王に低頭した。
「どうかご再考を。本来和平の会談と軍神は、無関係のはずです」
将軍は私が羅国に行くのを、怜王に直訴し止めるつもりだ。
怜王は困ったように首の後ろを掻き、私に意見を求めた。
「さて、明様はいかがなさいますか?」
「自ら志願しております。それに元々私は謙王とも親しくしておりましたので、行けば羅国も信用するのではないかと」
将軍はさらに一歩怜王に近づくと、なおも主張した。
「使者団が国境を越えた後は、禁軍は護衛しません。万一の時に、危のうございます」
私は将軍を軽く睨み、文句を言った。
「私は自分の身くらい、自分で守れます」
将軍は何か言いたげに私を睨んだ。だがその前に怜王が口を開いた。
「私は素晴らしいお考えだと思います。ご同行頂けたならば、こちらに戦の意思がないという印象をさらに羅国に与えられましょう」
将軍はいかにも不服そうな顔をしていたが、私は怜王に深くお辞儀をした。
「それでは皇太子殿下。使者団に私を加えて下さい」
「明様が望まれるなら、反対するはずもございません。我が国の使者のお一人として行かれれば、和平は間違いなく、成功するでしょう」
お礼を言いながらもちらりと隣を一瞥すると、将軍は尚もまだ言いたそうに、私を睨んでいた。




