北砂州の変
本日二話目の投稿です。ご注意ください。
宴会からの帰り道、私は歩きながら将軍に言った。
「怜王が陛下に差し上げている不老長寿の丹薬は、実際には毒です。辰砂からできる水銀を始めとして、原料全てが人体には有害なのです」
池に渡された橋を渡る途中だった将軍は、ぴたりと足を止めた。
「明様。いくらなんでも、仰ってはいけないことがありますよ。霊薬は代々の多くの皇帝が服用していますし、特に辰砂は最高級の秘薬と言われております」
「その結果、その皇帝達は長生きしましたか?」
将軍は口を噤んだ。聞かずとも答えは明らかだ。
私は皇帝に招かれた最初の宴で、皇帝がほうれん草ばかり口にしていたのを思い出した。試しに将軍にある質問を投げかけてみる。
「もしや陛下は、人参も好んで召し上がるのではありませんか?」
「――なぜそれを?」
立ち止まっていた将軍は、不可解そうに眉根を寄せて私を見下ろした。池の上を渡る風が、彼の後毛を靡かせる。
「それらには、体内に溜まった重金属を排出する働きがあるのです。摂取し過ぎた有害な物質から自分を守る為に、何が必要かを体は知っていたのですよ」
おそらく皇帝は、ほうれん草を食べると具合がよくなったのだろう。だから、積極的に偏食したのだ。不毛な循環だけれど。
怜王のことだ。きっと密かに他の遅効性の毒劇物も、丹薬に混ぜているだろう。
将軍は納得がいっていない様子だった。水銀が危険だという認識も、まだないのかもしれない。それに今証明する術がない私の雑学を、鵜呑みにするほどこの男は単純ではない。
私は将軍の刀の鞘に注目した。
鷹と果実の装飾が施されており、くすみ一つない金色の鍍金が美しい。
「将軍、その鍍金がどう行われるか知っていますか?」
「金を水銀と混ぜて塗り、加熱すると聞いたことがあります」
「加熱すると水銀が蒸発し、金が表面に残るのです。古来より伝わる鍍金法ですが、蒸発した水銀は有毒なので、危険な作業となります。ご存知ないのでしたら、仏具や馬具の鍍金工場の追跡調査をすれば分かりますよ」
労働者は日々の生活の為に働いている。公害の概念がない以上、弱者が声を上げたり、その声が中央に届くことはないのだ。
将軍は私の提案について何も返事をしなかった。だが明らかに表情が陰り、考えこむように石畳の上に視線を落としている。
皇子どうしの皇位争いと、皇帝暗殺は次元が違う。簒奪は許されない。
怜王を疑い始めると、止まらなかった。
「怜王が薬学に明るいことを鑑みると、謙王の羹に細工をしたのも、彼の仕業だったのかもしれません」
「――萌香様の誘拐未遂も、冤罪だと仰りたいのでしょう?」
その口調には微かな苛立ちを感じられた。
将軍は顔を上げ、射るような鋭い眼差しをこちらに向けた。
「将軍が皇太子候補の怜王を糾弾するような真似をしてほしくないのは、分かります」
将軍は一度目を閉じ、溜め息をついた。ゆっくりと開かれた瞳は、先ほどより威勢の良さが削がれ、どこか少し弱気だった。
「それだけではありません。……それより、明様が個人的に謙王に肩入れし過ぎていることが、腑に落ちないのです」
「確かに怜王よりは謙王の方がずっと好ましく思えます。人としても、皇帝としても」
すると将軍の表情が陰った。どうやら私の返事にいくらか衝撃を受けたらしい。
「でもこれは単純な好き嫌いではなく、謙王の置かれた立場が不条理だと思うから、公正でありたいと思っているだけです」
風が吹き、後れ毛が乱れる。
強い風に目が乾きそうになり、ぱちぱちと瞬きしながら髪を手で払い退ける。顔を上げると、将軍は瞬きもせず私を見つめて言った。
「無礼なことを申し上げました。お許し下さい。――嫉妬心を抑えられませんでした」
どきん、と心臓が跳ねる。
(ん? 嫉妬? ――誰に?)
「我が国にとって明様こそが特別な存在だというのに、私自身が明様にとっての特別な存在になりたいなどと、気づけば考えてしまうのです」
言わんとすることがよく分からなくて、無駄に長々と見つめ合ってしまう。将軍が妙な空気を醸し出している。この哀愁漂う目つきは、なんだろうか。
将軍の辛そうなまでに切ない黒曜石の瞳を見つめているうちに、いつか聞いた台詞が脳裏に蘇る。
――私は女に興味がない。
(興味、ないんだよね……? ないって、言ったよね)
その時。ここへ来て、私はある可能性を思いついてしまった。
(そうか。女には興味がないわけだから。もしかして、将軍は別に私を女だとは疑っていなくて、寧ろ……)
目から鱗が落ちる思いだった。
稲妻に打たれたように、突然私は衝撃的な可能性に気づいてしまった。
(この将軍は、まさか同性の私のことを――恋愛対象として見てる⁉)
なんだか輪をかけて面倒臭い状況に……。
あの元宵節の夜の出来事が、走馬灯のように思い出される。将軍があの時、私に妙にべたべたとしてきたのは、そのせいかもしれない。
(将軍はきっと、衛明みたいに中性的な少年が好みど真ん中なんだ!)
満点の星空の下、このややこしい関係に私は絶句した。将軍が放つ甘美な佇まいに、困惑したのだ。
最早恋愛方面にはかなり鈍感な部類の私が見ても、将軍の色気はだだ漏れだった。
まさかこの将軍、エセ少年軍神に惚れ始めてしまったのだろうか?。
だが私は軍神として、ここで怯むわけにはいかない。
(そうだ。私は、エセだろうがなんだろうが、この光威国の軍神なんだから……!)
わけの分からない覇気が今更ながら湧き起こり、異様に近くに迫る色男な将軍を、気を強く持って睨み上げる。
「軍神は誰かの為ではなく、光威国の民皆の為にいるのです。だからこそ私はこの国の行く末を憂えています」
「行く末を?」
将軍の双眸から甘さが消え、鋭さが戻る。
「将軍は本当に怜王が皇太子に相応しいと思いますか? 私達は彼の為に、命をかけて戦場に赴くのでしょうか」
将軍は私から遠ざかるように数歩離れ、小さく息をついてから腕組みをした。
いくら将軍が皇帝を慕っているとはいえ、彼の中にも違和感はあるはず。
私はそれを焚きつけずにはいられなかった。
謙王は特使として派遣されると、北砂州の貧しい民を助ける為、奔走した。
たびたび馬に乗って来襲し、食料や物資を強奪して帰っていく羅国の兵達に対抗すべく、劣化で用をなさなくなっている城壁の修繕を進めた。
また謙王は新たに雇った大量の私兵を連れてきて、軟弱な北砂州軍をそれで補った。
謙王は危険を顧みず、積極的に州内を視察して回った。
そしてある日、彼は城壁の補修現場にいたのだという。謙王自ら煉瓦を肩に乗せて運び、工事を手伝ったらしい。
緩衝地帯の北草原を越え、羅国の騎馬兵が侵入してきたのは、まさにその時だった。
彼らは草原の彼方から砂埃すら立てずに、風のように現れた。先頭に立って戦った謙王は、防戦虚しく騎馬兵に連れ去られてしまったのだという。
謙王の誘拐は北砂州刺史からの早馬により、すぐに皇宮にも伝えられた。
そして早馬の到着から半刻も経たないうちに、羅国からの使者が皇帝を訪ねてきた。
「緩衝地帯となっている国境の草原一帯を割譲し、新たな和平協定を締結してくれれば、謙王は返しましょう」
羅国からの使者がそう発言するなり、皇帝は玉座から立ち上がり、震える腕で使者を指差した。
「恥知らず国家が! 皇子を盾に脅す気か! 低俗な遊牧国家風情が調子に乗りおって……」
そこまで言うと、皇帝は突然動きを止めた。まるで時間が止まったように。
皇帝は使者を指差し、睨み下ろしながら硬直し、数秒後に膝から崩れた。
支えを失った人形のように皇帝の体は傾ぎ、玉座のそばに置かれていた鶴の置物にぶつかってから、床に転がった。置物は倒れ、その細い首が折れて頭部が遠くまで吹っ飛ぶ。
「陛下!」
失神した皇帝のもとに官吏達が一斉に駆けつけ、誰かの足に当たった鶴の頭は更に飛び、部屋の隅に転がる。
皇帝はすぐに寝室に運ばれ、そのまま昏睡状態に陥った。
皇帝の身を案じつつも、いつも通り禁軍の詰める至安門広場へと向かう将軍を私は追いかけた。
「この状況でまさか、羅国に出兵なんてしませんよね?」
歩きながらも将軍は、まだ分かりません、と答えた。身長よりも高い塀に左右を囲まれ、将軍の声がよく響く。
「もしも、……陛下がお目覚めにならなければ、どうなりますか?」
石畳の道の途中で、やっと将軍は足を止めた。何も言わず、私を見つめる将軍の顔は陰っている。私達を迎えにきていた瑞玲が、道の先から歩いてくるのが視界に入る。
将軍は絞り出すように、だがはっきりと言った。
「怜王が皇帝になります。皇帝自らが出陣することは、あり得ません。その場合は私が総大将になるでしょう」
「和平を結ばねば、謙王の命が危なくなります! どうか今は出兵しないで下さい」
縋るように頼むが、将軍は表情を変えることなく、あっさりと首を左右に振った。
「お約束できません。それに、今和平を結び、帰国すれば謙王の立場はどうなりますか? このままの状態では、出兵してもしなくても、謙王はもうおしまいですよ」
「将軍はそれで本当にいいと?」
将軍は答えなかった。代わりに瑞玲が会話に入ってきた。
「明様。どうか将軍を困らせないで下さいませ」
瑞玲は私と将軍の間に割って入り、将軍の盾にでもなるかのように立ちはだかった。
謙王が何をしたというのか。彼は皇子としての勤めを果たしていただけだ。
こんなのはあんまりだ。




