怜王の宴
謙王が去っても、日々は変わらない。
馬の世話とやたらに厳しい乗馬訓練、そして禁軍の訓練参加と軍議をこなしているうちに、あっという間に月日は過ぎた。
皇宮の甍を白く染めていた雪は溶け、冬を告げていた梅の花は散った。厳しい寒さの中でも雪の下で咲いた、黄色い蝋梅の花の甘い香りに代わり、木蓮の爽やかな香りが漂う。
寒さが緩み、誰もが地位を失った謙王のことなど忘れた頃、怜王が宴を開いた。
それは巨費を投じた盛大な宴で、初めて怜王の宮――上華宮に足を踏み入れた私は、その豪華さに言葉を失った。
宮は人工の池を取り囲んで建ち、池には玉で作られた蓮の花が咲き誇っている。
その蓮の間を小舟が浮かび、その上で着飾った美女が黄金製の琴を掻き鳴らす。
宴会場には豹や虎の毛皮の敷物が敷かれ、客人の為に並べられた机は全て美しい螺鈿細工が施され、円座は銀糸で目が痛くなるほどの繊細な刺繍が刺されていた。
「上華宮は、凄く贅を尽くした造りなんですね」
思わず隣の席の将軍に漏らす。
そして目を見張るのは、金銀財宝を投じた度が過ぎた金満ぶりにとどまらない。
宴に呼ばれ、怜王のもとにへり下った足取りで向かい、挨拶に駆けつける中には、多くの高級官吏や武将達がいた。
皆が怜王に媚びへつらう様を見ると、最早誰もが彼を皇太子だと思っているようだった。
怜王の隣には、可憐な美少女が座っていた。
薄紫色の襦裙を纏い、頭上に重くて堪らなそうな、とんでもなく大きい金色の髪飾りをつけている。日中あれをつけて夜に陶枕で寝れば、短期間で首が鍛えられそうだ。
蔦と花を模したその髪飾りの先には、たくさんの鈴がぶら下がっていて、美少女が首を動かす度、まるでその愛らしい顔を称えるように鈴の音がシャラシャラと響いた。
「将軍、彼女が萌香さんですよね?」
「そうです。陛下が正式に婚約を認めましたので、今宵は彼女のお披露目も兼ねているのでしょう」
そう教えてくれるなり、将軍は私の腰帯に視線を落とし、不意に尋ねてきた。
「私が差し上げた巾着は、最近使って下さらないのですね」
ぎくりと心臓が跳ね上がる。
「あの……、実はなくしてしまったんです。どこかで……。本当に申しわけないです」
頭を下げて詫びると、将軍は何も言わず、酒を仰いだ。
「せっかく下さったのに、ごめんなさい」
怒っているのだろうか、と緊張しながら将軍を見ていると、彼は杯を卓に戻してなぜか小さく笑った。
「お気になさらず。また機会があれば、もう一つ差し上げます」
そう言うとまた酒を飲み、宮女がつぐそばからどんどん飲み進めている。その様子はなぜか少し楽しげだ。
ふと萌香が立ち上がり、私の向かいまで歩いてきた。
彼女が私の前に腰を下ろすと、清々しい甘い香りが広がる。近くから見ると、吸い込まれそうなほどの美少女だ。
「軍神様、お初にお目にかかります。萌香と申します」
私も彼女に合わせて手を組み、頭を下げる。
「こちらこそ宜しくお願いします。――萌香さん、とっても良い香りがしますね」
すると萌香は花咲くように笑った。一斉に春がきたような、華やかで可愛い笑顔だ。
「霊猫香を手首に塗っておりますの。怜王殿下は、お香に目がないので。殿下は麝香や桂皮の粉末を内服されていて、御身体の内側から芳香がされますわ」
なるほど、線香殿下は香いじりが大好きらしい。麝香は動物性香料で、麝香鹿の腹部から取るのだが、一頭から僅かしか得られない為、黄金より高価だと言われている。
なんて贅沢なのだろう。線香殿下の名に恥じない、香への凝りっぷりだ。
意中の相手を靡かせる為に、好みに染まろうとする萌香も、いじらしいを通り越し、抜け目がないと言うべきか。
「この宮も白檀で建て、壁に乳香を塗り込んでいるのです」
ふふふと得意げにそう明かしながら、萌香の隣にやって来たのは、怜王自身だった。
怜王は私に微笑みかけると言った。
「明様。本日はお越し頂き、ありがとうございます。私は武芸が得意ではありませんので、ぜひ御加護を頂戴したいものです」
そういうと怜王が杯をかざし、私達は互いの杯をカチンと当てると、酒を一気に飲み干した。
怜王が杯を口から離すと、私の隣に座る将軍が彼に話しかけた。
「殿下。明様と出兵なされば、羅国など簡単に一掃できますよ」
すると怜王は小さく苦笑しつつ、肩を竦める。
「父上は羅国と戦をしたがってらっしゃるが、そう慌てる必要はない、と私は考えている。――明様、私によい考えがありますので、是非ご再考を」
そう言うと怜王はその雪のように白い顔を私に近づけ、秘密を打ち明けるように言った。
「いっそ戦などせず、たとえば阿片でも売りつけて羅国を懐柔する方法もこざいます」
これには耳を疑った。阿片は芥子の実から取れる、常習性の高い麻薬だ。
羅国を薬漬けにして優位に立とうというのか。聞こえていたのか近くにいた官吏達は、下卑た笑みを浮かべ、手を叩いて怜王を褒めそやした。
「流石の知識に我らは脱帽にございます! 殿下の代で間違いなく、大光威帝国が築かれることでしょう!」
怜王は暑くもないのに手にしていた伽羅の扇で口元を隠し、満更でもないように笑った。その肩に恍惚とした表情の萌香がしなだれかかる。
――バカだ。間違いなく、線香殿下はうつけ者だった。
私も怜王を褒める体を装い、情報を集める。
「殿下は火薬も発見されたとか。武器に転用できれば、後世まで語り継がれるご快挙です」
水を向けると怜王は洋々と話してくれた。
「そう、火薬というものは、実は丹炉で発見したのです。薬の調合中に、偶然に」
「誰にでも発見できるわけではありません。偶然だなどと、ご謙遜を」
私が怜王を賛辞すると、彼を上目遣いで見上げながら、甘ったるい声で萌香が言った。
「殿下は父親思いでもあらせられますわ。陛下の為の長寿薬を作っている時に、火薬を発見なさったのですもの」
合いの手を入れるように、ここで私も「なんという孝行でしょう!」と思ってもいないことを言ってみる。
怜王は気を良くしたのか、得意気に練丹の話を続けた。
「あの時は硫黄や硝石や、辰砂やらを混ぜて父上の為の霊薬を調合させていたのです。突然炉に紫色の煙が上がりましてね。丹炉のみならず、離れの作業室が燃えてしまいました」
「お、お怪我は……?」
「ご心配なく。私は幸い無事でした。従者と私の弟子達が六人ほど焼死しただけです」
大惨事じゃないの。どう考えても大事故だ。
それなのに怜王の表情は変わらず、少し自慢げな笑顔のままだった。
柔らかな口調で事故の犠牲者について、なんでもないかのように話す怜王が、恐ろしい。
そして皇帝の服用する霊薬とやらが、いかに怪しげな原料からできているかも、分かった。とりわけ赤色結晶の辰砂は、加熱すると水銀になる。
皇帝の様子を見る限り、そして世界史講師の私が歴史から学んだ事実を総合すれば、答えは一つだった。




