第72話「親子」
いつからこんなに冷え切った、殺風景な空間と化してしまったのだろうか。狭山は自宅の玄関を開けて思った。
家の中に入ろうとする冷えた空気が暗い家に溶け込んでいく。扉を閉め靴を脱ぐ。
「お帰り」
肩を上げて視線を前に向けると、父が立っていた。生気が相変わらずない。誰もいないと思っていたため幽霊に遭遇したような気分だった。
「ただいま。何でいるのさ」
「学校から連絡があったから帰ってきた。ちょうどこっちに帰ってくる日だったからな。直帰だ」
「なるほど」
「今日、休んだらしいな」
「ズル休みだって伝えたの?」
父が頭を振った。
「体調が悪いと言っておいた」
「マジか。サンキュー」
「ハル」
ハル、と呼ぶのは両親からしかない。
「久しぶりに聞いたわ」
「お前を一人ぼっちにさせているのは申し訳ないと思っている。だが、もし夜遊びをしているようなら、怪しい連中とつるんでいるようならやめて欲しい。母さんだけじゃなくお前まで失ったら」
「なぁ親父。今日時間あるんだろ?」
「ん、ああ」
「荷物置いてくっからリビングで待っててくれよ」
狭山は父の隣を通って2階へ向かう。父はその背中を見つめるだけだった。
荷物を置いて着替えると、狭山はリビングに向かった。ダイニングテーブルの椅子に父が座っている。片手にはスマートフォンを持っているが、何かしているわけではないらしい。テレビをつけるわけでもなく、静止して、時折瞬きしているだけだった。
テーブルの上にある照明だけが、リビング全体を照らしていた。外から吹く風の音と換気扇が回っている音だけが大きく聞こえた。
狭山はテーブルを挟んで対面に座る。
「俺が休んだ理由か? 聞きたいことって」
「ああ」
「まず心配しないで欲しいっていうことだけ伝える。学校の……友達とさ。ちょっとあって。会うのが気まずいんだ。だから行きたくなくてサボった」
父の口角が上がる。
「嘘が下手だな」
「嘘じゃない。本当だよ」
「だとしたらよっぽどのことがあったんだな。真面目なハルが休むなんて」
狭山はバツの悪い顔をする。クラスというか学園内のアイドルに告白して、返事すら聞かず逃げるように距離を置いたのだ。気まずいなんてものじゃない。
「いじめとかじゃ、ないんだよな」
「まさか。鹿島とつるんでいる限り、そんなこと起こらない」
「授業についていけないってわけでも……」
「ま、まぁそれはまぁあるかもだけど。別に休むレベルで嫌気が差したわけじゃないし」
そうか、と言って父が安堵のため息を吐く。
「なら、いいんだ」
沈黙が再び流れる。居心地が悪いわけではないが、どうしても手持ち無沙汰になってしまう。
切り出すのはちょっと早いかと思ったが、この話題の流れならいけるだろう。
「なぁ、父さん」
呼び方が変わったのは、緊張していたからかもしれない。だが今更直そうとは思わない。
「ん?」
「母さんが死んだときのことって、覚えてる?」
父の目が見開き、視線を切った。眉根を寄せ下唇を噛みしめる。
「覚えているよ。ハルは?」
「ちょっとだけ」
「そうか」
強張っていた肩がすっと下がる。
「交通事故だった。雪の日……珍しく、都内でちょっと吹雪いた日の翌日だった。床が凍結していたせいか車がスリップして歩道からコンビニに激突。間にいた複数名が重軽傷を負って……」
ブツブツと呟いている。その言葉は狭山に向けられていない。覚えているかどうか、確認しているようだった。
「負って……あいつだけが……死んでしまった」
テーブルに肘をつき、父は額に手を当てた。顔は相変わらず下を向いている。
「車のタイヤに細工は施されてなかった。あいつは、近くにいた子供を守ろうとして死んだんだ。俺が……ハルを連れて散歩に行こうなんて言わなければ」
「父さん」
「俺が動かなければ、生きていた」
「父さん」
「全部、俺のせい────」
テーブルから身を乗り出し、狭山は父の腕を掴んだ。力強く揺さぶると、ハッとして父が顔を上げた。
疲れ切った顔に充血した瞳が向けられる。目尻はかすかに濡れていた。
弱った父を見て、狭山は頭を振った。
「やめてくれよ。何も悪くないんだから」
「あ、ああ。すまない……」
顔色が悪かった。口許を手の平で拭う父のために、狭山はコップに水を入れ差し出す。
一息入れると落ち着いたのか、再び沈黙が流れた。
「あのさ、父さん。父さんが働きづめになったのって、やっぱりそれが原因なんだよな」
「……ああ」
「俺を養うために、昼も夜も働いて」
「ああ」
「変な質問だけど真面目に答えてくれ。それってやっぱり、子供が好きだから?」
「好きだからじゃない」
父が頭を振った。
「愛しているからだ。陳腐な言い方だが、子供を大事に思っているからこそ働かないといけない。そう思っていたんだ。最初は」
「最初?」
聞き返すと、鼻で笑われた。
「いきなりどうしたんだ、こんな質問をするなんて」
「いい機会だと思っただけだよ。だって、家にいるのほとんどないし。普段から、話し辛かったし」
「家族なのに話し辛い、か」
今度は自嘲気味に笑った。乾いた笑い声は疲れ切っていた。
「話、はぐらかすなよ。最初って、今は」
「今でもそう思う。だがそれにある思いが混ざったんだ。あいつがいなくなった悪夢の一日を、早く忘れようと仕事に没頭した」
「ひとりになりたかった?」
「まさか。そんなことは微塵も思っていない。だがお前を養うという名目を盾に、自分が楽になりたかっただけなのかもな……」
狭山は乾いた唇から言葉を発した。
「今でもさ、家を空けているのは……俺を見ていると思い出すからか? あの日のこと」
父が押し黙った。
「それって、今でも思い出すのか?」
「……そんなことは、ない。ただ見ていると、俺がこんな楽をしていいのかと思ってしまう。だからを稼ぐことしかできなかった。愛情を語れる術は、金を渡すことだけだったんだよ……」
狭山は父とのコミュニケーションが、深刻なほど不足していることを自覚した。
ショックだった。自分がどれだけ、我儘で、まったく肉親と会話していなかったのかを知った。
同時に、情けなくなった。自分のために身を粉にしている父親に対し、今までどんな言葉を呟き、どんな態度で接していたのか。それを思い出すと酷く恥ずかしくなった。
「大事だから、愛しているから、か」
「……ああ」
「今でも?」
「……ああ」
少し間がある応答だった。狭山は意を決して聞いてみる。
「怒らないで答えて欲しいんだ。嘘じゃ、ないんだよな」
「当たり前だ」
食い気味に父は答えた。
「どんな国でも、場所でも、やはり生物は親になってしまうと、我が子のことを一番に考えるようになるんだ。失う前からそれを自覚するんだよ。嘘じゃない、これだけは、本当なんだ。どんな人間でも……」
「どんな人でも、自分の子供は大事だよな」
「ああ。もしそんなことはないという親がいるなら、それはただの強がりか、気づいていないだけだ。よく見れば、必ず子供を第一に考えて動いてしまっているんだよ」
疲れ切った顔をしていた父の顔は、いつの間にか力強くなっていた。声色もよく通る。目も輝いていた。涙かそれとも心がこもっているからか。
「よかった。なら、大丈夫だ」
子供のことを思っている。狭山の脳裏に、純の姿が過ぎる。
「よく見ればか。父さんの言う通りかもな」
となると、やることは決まった。
「もう、いいのか?」
「ああ。ありがとう、父さん。辛いことに応えてくれて。俺のこと、大事に思ってくれて。あとさ」
「ん?」
「……部屋、暗くね?」
父が一瞬驚き、噴き出した。
「そうだな」
「あのさ、今日仕事ないんだろ。一緒に飯食うか、どっか食いに行こうよ」
「作れるのか?」
「俺、普段一人暮らしなんだぜ? 自炊くらい少しできるさ。普段はカップラーメンだけど」
「父さんも手伝おう」
「うん。頼むわ」
狭山は立ち上がった。
「落ち着いたら、実家にいる母さんに会いに行こう」
「……ああ。仏壇に手、合わせないとな」
「それで、ここに連れてきたいな」
「うん。いいよ。絶対その方がいい。母さんだって喜ぶと思う。絶対」
「ああ」
「あ、そうだ父さん。あともう1日か2日、休んでもいいかな?」
「……理由は?」
狭山はニッと笑う。
「友達を笑顔にしたいんだ」
狭山はリビングの照明をすべて点ける。
どこかからか、暖かい空気が吹き込んでくるようであった。
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