第66話「秋空と告白と、紅い春」
「狭山くんって執事喫茶とかでアルバイトしてるって本当?」
突然、名も知らないクラスの女子から声をかけられた。いつも通り鹿島と昼食をとっていた時だ。彼女の傍らにはこれまた名前を知らない女子がいる。こちらは顔がニヤついていた。
「えっと……本当じゃないと思うんだけど」
女子が訝しんだ。
「え~。正直に喋って大丈夫だよ。別に馬鹿にしたいわけじゃないし」
「あの、誰かが言っているの? 俺がバイトしているとか」
「ううん。勝手にみんなが噂しているだけだと思う。けど噂にもなるよね」
女子は傍らにいた子に声をかける。
「そうそう。だって狭山くんの接客ハンパなかったもん。完全に手馴れてるっていうかさ」
「絶対初心者じゃないよね!」
狭山を無視して盛り上がりそうだった。狭山は愛想笑いを浮かべて頭を振った。
「いや本当に喫茶でバイトとかしてないよ。ただ執事ってこんな感じかなぁって感じで」
「それだけでやったの? やば、センスの塊じゃん」
「人並み以上に働いてたしね」
人並み、という言葉に狭山はピクリと反応した。
鹿島が心配そうに見つめているのがわかる。
「あ、あはは。ありがとう」
狭山は愛想笑いを浮かべるしかなかった。
☆☆☆
「自分は人並み以上の能力を持っている」
そう言える人間は、あるいはそう思える人間は、非常に幸福で自信家だ。狭山にとって、その言葉は異常なまでに遠い目標であった。
自分が”人並み”になれるわけがない。それになるために、誇れるものなど何一つとして持っていない。
だが最近は、思いつつあった。
「自分は人並み以上の能力を持っている」
そう、思いつつあった。
だから決めたのだ。
☆☆☆
「執事として会うのはお久しぶり、ですかね、狭山執事」
更衣室から出ると義徳が出迎えてくれた。狭山はしっかりとした礼を返す。
「はい。お久しぶりです。今日もよろしくお願いします」
「ではさっそく。狭山さんには彼女の散歩に付き合っていただきましょう」
彼女の散歩、というのでピンときた。狭山は義徳の後ろに続いて歩く。やってきたのは中庭だった。そこに彼女はいる。
犬小屋から出てボーっと風景を見ていた彼女は狭山を見ると大きく吠えた。
「モテモテですね、狭山執事」
「光栄です」
互いに笑い合い、狭山は義徳からリードを受け取った。
屋敷を出てしばらく歩き続ける。最初は、いや業務になれるまで緊張しっぱなしだったせいか、近所を見て回るだけでも別の世界に来たような感覚に襲われる。
目の前を歩くジャーマン・シェパード、ルインの尻尾は大きく振られている。
ここ最近見ていないと思っていたが、どうやら基本的には引っ込み思案で、神白と義徳以外の前にはまったく懐かないと屋敷内では評判らしい。だから狭山にも仕事が振られてなかったのだ。
だからルインに好かれていると知った狭山は純粋に嬉しかった。動物は好きだったからだ。
ふと冷たい風が、狭山の頬を撫でた。
紅葉が空を彩る11月上旬の空気は、ひんやりとしていた。しかし天気は快晴。過ごしやすい陽気でもある。
そんな気候に意識を持っていかれ、心を落ち着けたとき、右手が強い力で引っ張られた。
「うぉ!?」
狭山は素っ頓狂な声を上げた。片手で持っていたリードを両手で掴む。
安ルインはノリノリな歩調で前へ前へ行こうとしている。
「待ってくれ、ルイン!!」
彼女は返事をするように大きく吠えた。賢いのだが、行動の抑制は上手くできないらしい。
ルインに引きずられるように歩いていると、朱雀院家の屋敷が見えてきた。もうそんなに歩いただろうかと思っていると、ルインが大きく吠え門に向かって駆けだす。
「うわぁ!?」
再び変な声を上げてしまう。腕を引っ張られながら走ってルインについていく。
門を抜け玄関へ続く石畳の道を走り続ける。
「待ってくれ!」
静止を促すが足を止めてくれない。体力のない狭山は追従するので精一杯だった。
ルインが急に方向転換した。突然の進路変更に足がもつれ、狭山は派手にすっ転んだ。
「ぶっ!!」
間抜けな声を出しながら地面にキスをする。同時にリードを離してしまった。
ルインは倒れる狭山に目もくれず走っていった。
「いってぇ、くそ」
全身がズキズキと痛む。文化祭の時殴られた頬が特に痛んだ。
起き上がり、口を手の平で拭く。唇が裂けたのか、少し血が付着していた。
立ち上がって自分が着ている服の汚れを払いながら、傷がないことを確認すると、ルインの大きな吠え声が聞こえた。中庭にいるらしい。
神白がいるのだろうか。
狭山は痛む体を引きずり、中庭に足を踏み入れる。
狭山の足は絵画のような庭にある、ガラス張りのコンサバトリーに向かう。入口の扉の前にはルインが”お座り”して待っていた。
狭山がルインの隣に立つと同時に扉が開き、中から神白が姿を見せた。
相変わらずため息をこぼすような、美しい女性だ。精巧な人形のようでもある彼女は、力強い切れ長の目元が特徴的だ。
その目元は自分と話している時にふわりと柔らかくなるのが、たまらなく好きだった。
「た、ただいま帰りました。お嬢様」
狭山が笑みを浮かべる。神白は無表情で狭山を一瞥すると、視線をルインに向ける。
キラキラとした瞳を向ける彼女に人差し指を向け、口を開く。
「悪い子だね、ルイン。私の執事を困らせて」
冷ややかな声だった。一瞬で、体感温度が5度くらい下がったようである。
ルインは弱々しく鳴き、体を地面につけた。
「お嬢様。自分は特に困っていません。ルインは好奇心旺盛なだけだと思うので」
神白の冷たい眼差しが射貫いてくる。神白が眉をピクリと動かした。
「口元、どうしたの? 服も汚れているけど」
「散歩中に転んでしまいまして! 唇もその時に切ってしまい。ドジですよね」
あはは、と言いながら慌てて服についた汚れを払う。神白の目がルインに向けられる。
「隠さなくても、なんとなくわかる」
「やっぱり……? バレちゃいますか」
「相変わらず優しいね。この子を庇うなんて」
「いやぁ、そういうわけでは」
神白は頭を振った。
「ルインも楽しそう。気に入ってるんだろうね」
「多分私のことを下に見ているだけかなぁって思います」
「下に見ていたら、この子は動かないよ」
神白はもみあげを耳にかけると、ふわりと微笑んだ。
「ありがとう、狭山くん。本当に助かる」
氷のような無表情は一瞬で溶け、太陽のような暖かい笑顔が狭山を照らした。
狭山の心に巣くう感情が、強さを増した。
「ありがとう、ございます」
狭山は誤魔化すように頭を下げた。
「立派だよ、狭山くんは」
「あの、お嬢様」
「なに?」
「……前にも聞きましたが、どうして私をそんなに褒めてくれるのですか?」
狭山は真剣な表情を浮かべて聞いた。
神白は目尻を下げる。
「狭山くんに、ここにいてほしいから」
狭山は目を見開いた。彼女の頬に朱が差し込んだのは、見間違いではない。
そうなのかな。きっと彼女は、自分と同じ気持ちなのだろうか。
「あの、お嬢様」
自惚れ。
自惚れだ。言わない方がいい。絶対に。
後悔する。
「私……いや、俺。お嬢様のことが」
けど、言わないで後悔したくはなかった。
「神白のことが、好きです」
肌寒い秋空の下に、狭山の愛の言葉が木霊した。
「────え?」
「返事は、どっちでも大丈夫です。答えなくても、大丈夫です」
「────ま、待……待って。待って狭山くん」
「だけどこれだけは言わせてください。自分勝手だと思うのですが」
狭山は息を吸う。心臓が爆発しそうだった。
「神白が好きです。だから……ここを辞めさせてください」
紡ぐように、狭山の覚悟の言葉が響き渡った。
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